第2章:神の嫁

――昭和二十年 晩秋・神代家の庭先


山の陰に陽が落ちるのが早くなった。

父を葬って三日。線香の匂いはもう薄れ、家の空気は静かだった。


敷石を叩く足音がした。

「失礼するよ、神代さん」


紋付の男。矢萩栄一郎。

村でいちばんの地主であり、娘・弥生の父だった。


「薬師堂も、神代の名も、あなたで最後になる」

声は穏やかだったが、言葉の奥に重さがあった。

「村は、まだあの社を必要としております」


信吉は、ただ頷いた。

理由も、反論も、もはや浮かばなかった。


その日の夕暮れ、柿の実が落ちた音だけが耳に残った。


**


弥生が門をくぐったのは、数日後のことだった。

白い単衣に金のかんざし。

光の角度で、彼女の顔が淡く揺れて見えた。


「神代さん、はじめまして」

声は澄んでいた。

だが、どこか舞台の台詞のようだった。


「……矢萩の家の娘であることに、私は甘えたくありません」


その言葉の奥に、燃えるような静けさがあった。

それは情ではなく、信念の温度だった。


ひとつ、柿の実が落ちた。

土に潰れた果肉の匂いが、やけに強く感じられた。


**


弥生は変わらなかった。

朝は庭を掃き、昼は子どもに字を教え、

夜になると小さな灯を持って薬師堂へ向かった。


村の人々が、いつの間にかその後を追うようになった。

「この村を、昔のように豊かにしたいのです」


声は柔らかく、風に溶けていった。


そのとき信吉は、ただ思った。

——ああ、この人は本気なのだ。


「薬師堂を、少しだけ開いてもよろしいですか」


「どうして」とは聞かなかった。

信吉はただ、首を横に振らなかった。


数日後、堂の奥に白い布が掛けられた。

弥生の手で整えられたその布の下に、“おおこがね様”が眠っている。


光はまだ弱い。

だが、その日から村の誰もが、

その布の奥を“見上げる”ようになった。


掘るな、と父は言った。

けれど、覆うことは罪なのだろうか。

それとも——これが、守るということなのか。


光は、ただ静かに揺れていた。

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