第3章:神が語られはじめる

――昭和二十一年初春 神深村・薬師堂


雪の残る参道を、女たちが列をなして歩いていた。

手には紙包み。塩や米、時には五円玉。

それを抱える姿は、まるで祈りそのものだった。


薬師堂の奥。

布を被った“おおこがね様”の前で、弥生が正座していた。

「皆さま、ありがとうございます。……今日も、神様にお伝えします」

そう言って振り返った顔に、曇りはなかった。

それは、誰も否定できない笑顔だった。


最初はただの奥さんだった。

けれど、いつの間にか村人たちは、彼女を“語る人”と呼びはじめた。


「弥生さまは、夢で神さまのお声を聞かれたそうや」

「病を祈祷で治したらしい」

「おおこがね様は、触れんでも、伝わるんやと」


噂は、言葉にされることで形になっていった。

弥生が何も語らずとも、

“信じたい者たちの中”で、それはすでに真実になっていた。


信吉は裏の畑で、黙々と鍬を振るっていた。

一日一度だけ堂に顔を出し、灯明を替え、水を供える。

声は上げない。

祈りは、いつも弥生の口から生まれた。


「始めたのは、わしじゃない。……ただ、止めることも、できなかった」


子どもたちが歌う「おおこがね様の唄」は、どこか子守唄に似ていた。

祠には布と草履が奉納され、やがて《御黄金講》の札が立った。


村人たちはその名を誇らしげに唱え、

自らの名を、奉納帳に記していった。


******


弥生の声は、少しずつ変わっていった。

抑揚がつき、息が長く、どこか芝居の台詞のように響いた。


「おおこがね様は、静かに見ておられます」

「わたくしたちが正しくある限り、光は降ります」


村人たちは、それを神の声だと信じた。


その夜、囲炉裏の火を挟んで、弥生が言った。

「今朝、声がしたの。堂の奥から、“授かれ”と」


信吉は、箸を置いた。

火の粉がひとつ、静かに舞い上がった。

「……そうか」

それだけを言って、味噌汁を啜った。


信じてはいなかった。

けれど、信じているふりをしている自分が、確かにいた。


数日後、白木の札が立った。

墨で書かれた《御黄金講》の下に、小さな金の輪が刻まれていた。


誰の手だったのかは分からない。

弥生か。村人か。あるいは、自分か。


信吉はその輪を見つめ、

ひとつ、深く息を吐いた。


「……もう、止まらんのやな」


言葉は煙に混じり、囲炉裏の火の中で消えた。

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