第1章:父の死、金の継承

——昭和二十年、神深村


焼けた山を越えて村に戻ったその日、空は鉛のように沈んでいた。

風はなく、瓦礫の隙間から、白い煙が細く立ちのぼっていた。


信吉は、泥にまみれた軍服のまま、山道を登っていた。

足音だけが、土の上で乾いた音を立てた。


山を下りる前、彼は一度だけ、家に寄った。

雨戸は閉じられ、土間には割れた茶碗と埃をかぶった飯台。

その静けさの中に、誰かの気配がまだ残っている気がした。


「帰ってこられたのかい、信吉さん……」


振り向くと、隣の老婆が立っていた。

目の奥に、かすかな怯えがあった。


「お父さん、あの社からもう降りて来んようになってしもてぇ。

ふささんが逝かれてから、ずっと……」


信吉は軽く頭を下げ、言葉を飲み込んだ。


裏山の薬師堂。

そこだけが、まだ時間に取り残されたように立っていた。


戸は外れ、屋根の一部は崩れかけている。

けれど石壇の奥――あの白布に包まれた“もの”だけが、

まだ息をしているように見えた。


「……帰ったか」


奥から声がした。

信吉は息を止めた。


薄暗がりの中、やせ細った父・政春が、膝を抱えて座っていた。

目は白く濁り、骨ばった指が、宙を掴むように動いている。


「おまえに、伝えとかな、いかん……」


声は途切れ途切れだった。


「おおこがね様は……神じゃなか。

あれは、呪いや。掘ったら、死ぬ。

触れたら、村が……崩れる……」


言葉のたびに、空気がかすかに震えた。

政春の目は、石壇の奥を向いている。


「掘るな……絶対、あれは……」


その後の言葉は、音にならなかった。

息を吐いたまま、もう戻ってはこなかった。


屋根の割れ目から、光が一本だけ差し込んでいた。

その光の下で、信吉は父の手を握っていた。

どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない。


そして、ゆっくりと立ち上がると、

白布の向こうを見つめた。


あれが……あれなのか。

呪いか。神か。

村を滅ぼすものか。

それとも、救うものか。


答えはまだ、どこにもなかった。

ただこの日を境に、

彼が沈黙とともに生きることになるのは、

もう決まっていたのだと思う。

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