第2話
翌朝、スマートフォンのアラームが鳴るよりも早く、私は目を覚ましました。カーテンの隙間から差し込む、まだ白々しい光が、部屋の床に細長い筋を描いています。身体は、昨日の衝撃的な出来事のせいか、鉛のように重く、気怠い疲労感に包まれていました。
ゆっくりと身体を起こし、ベッドの縁に腰掛けます。ぼんやりとした頭で、昨日の放課後の出来事を反芻する。学校裏の神社。古びた祠の崩落。そして、私を庇うようにして抱きしめてきた、彼の、如月理人くんの腕の感触。
そこまでは、まだ理解できる範囲の出来事でした。問題は、その後に起こった、あまりにも非現実的な現象です。
強制的にインストールされた『縁』という名のアプリ。スマートフォンに表示された、信じられないような「ミッション」。そして、私たちの周りで起こった、物理法則を無視したかのような怪奇現象――〈厄〉。
ざわざわと不気味に鳴り響いていた木々の葉擦れの音。まるで生き物のように蠢いていた、地面の影。あの、肌にまとわりつくような、冷たくて重い空気の感触は、まだ全身の皮膚感覚に、生々しく残っているようでした。
そして、何よりも鮮明に覚えているのは――。
私は、おそるおそる、自分の首筋に指先で触れてみました。そこには、まだ微かな熱っぽさが残っているような気がします。彼の唇が触れた場所。強く、吸われた感触。
鏡台の前に立ち、自分の姿を映してみます。そこにいたのは、いつもと変わらない、少しだけ寝不足気味の私。ですが、首筋をよく見ると、白い肌の上に、くっきりと、痣のような赤い痕が残っていました。
「…………」
言葉も出ません。これは、夢ではなかった。紛れもない、現実。あの、如月理人くんにつけられた、痕。
指先で、そっとその痕をなぞってみます。心臓が、どくん、と大きく跳ねました。恥ずかしさと、困惑と、そして、ほんの少しの……いえ、認めたくはありませんが、確かな動揺が、胸の奥から込み上げてきます。
幼い頃から、私は時折、不思議なものを見たり、感じたりすることがありました。神社の娘という家系もあってか、人より少しだけ、そういうものに対する感受性が強いのかもしれない、と母は言っていました。だから、昨日のあの〈厄〉という現象も、全く理解できないわけではありません。怖い、という気持ちはもちろんありますが、心のどこかで、「また、こういうことか」と、少しだけ冷静に受け入れている自分もいるのです。
問題は、その解決方法です。
『理人が暦を背後から抱きしめ、首筋にキスマークをつけなさい』
あの、あまりにも破廉恥なミッション。それを、彼は、驚くほど冷静に、そして合理的に、遂行しました。『これは、治療行為のようなものだと考えてくれ』――そう言った時の、彼の、感情を一切排した、アンドロイドのような瞳を思い出します。
彼にとっては、あれは本当に、ただの「タスクの遂行」だったのかもしれません。でも、私にとっては……。
コンシーラーで蓋をし、ファンデーションを厚く塗り、制服のブラウスの襟をいつもより少しだけ、きつく締めました。この痕を、誰にも、特に友人たちには見られるわけにはいきません。
重い足取りでリビングへ降りると、すでに母が朝食の準備をしていました。
「おはよう、暦。あら、なんだか顔色が優れないみたいだけど、大丈夫?」
「おはよう、お母さん。……うん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」
母の心配そうな視線から逃れるように、私は食卓の椅子に腰を下ろしました。今日の学校、彼に、どんな顔をして会えばいいのでしょう。考えるだけで、心臓が重苦しくなります。
いつもと同じはずの通学路が、今日は全く違う道のりのように感じられました。足取りは重く、周囲の喧騒もどこか遠くに聞こえます。校門をくぐり、自分のクラスの教室のドアを開ける。その瞬間、私の視線は、条件反射のように、ある一点へと吸い寄せられました。
窓際の、一番後ろの席。そこに、彼はすでに座っていました。肘をつき、窓の外を眺めている、その横顔。朝日が、彼の少し色素の薄い髪を、淡く照らし出しています。いつも通りの、クールで、近寄りがたい、如月理人くんの姿。
彼が、ふと、こちらを向きました。目が、合ってしまいます。ほんの一瞬。彼の、深い森の湖面を思わせる瞳には、何の感情も浮かんでいません。ただ、静かに私を捉えているだけ。
私は、心臓が跳ねるのを感じ、慌てて視線を逸らしてしまいました。そして、早足で自分の席へと向かいます。クラスメイトたちとの、当たり障りのない挨拶を機械的に交わしながら。
席に着いても、彼の視線を感じているような気がして、落ち着きません。昨日の出来事について、彼はどう思っているのでしょう。私と同じように、混乱しているのでしょうか。それとも、やはり、何も感じていないのでしょうか。
午前中の授業は、全く頭に入ってきませんでした。教師の声は右から左へと通り抜け、ノートに書き写す文字も、ただの記号の羅列にしか見えません。意識の片隅で、常に彼の存在を感じてしまうのです。彼がページをめくる音、ペンを走らせる音、小さく息をつく気配。その全てが、私の集中力を奪っていきます。
昼休み。友人たちと弁当を囲みながらも、会話はどこか上の空でした。
「ねえ、暦、今日なんだか変だよ? ボーッとしてるし、顔色もあんまり良くないし」
友人の理沙が、心配そうに私の顔を覗き込みます。
「ううん、大丈夫だって。ちょっと、寝不足なだけだから」
同じ言い訳を繰り返しながら、私は無理に笑顔を作りました。その時、ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席で、友人たちと談笑していたはずの如月くんが、こちらをじっと見ているのに気づきました。目が合った瞬間、彼はすぐに視線を逸らしてしまいましたが、その瞳には、何か、探るような色が浮かんでいた気がします。
午後の授業が終わり、放課後。友人たちからの誘いを断り、一人で教室に残りました。今日の当番だった日誌を書き終え、早く帰ろうと席を立った、まさにその時でした。
「神凪」
背後からかけられた、低く、落ち着いた声。びくりとして振り返ると、そこに、如月くんが立っていました。いつの間にか、教室には私と彼の二人だけになっていました。
「……如月、くん」
「少し、話がある。……昨日の、現象についてだ」
彼の声は、どこまでも冷静で、事務的でした。その、あまりにも落ち着き払った態度に、私の方が、かえって戸惑ってしまいます。
「……うん。……私も、気になってた」
「まず、現状の整理からだ」
彼は、私の前の席の椅子を引き、ごく自然に腰を下ろしました。そして、まるで数学の問題を解くかのように、淡々と話し始めます。
「昨日、我々が遭遇した現象――仮に〈厄〉と呼称するが――は、祠の崩落をトリガーとして発生した可能性が高い。そして、その〈厄〉は、我々のスマートフォンに強制インストールされた『縁』アプリのミッションを遂行することで、収束した。以上の事実関係に、相違はないな?」
「……う、うん」
彼の、そのあまりにも非人間的なまでの冷静さに、私はただ頷くことしかできません。まるで、他人事のように、昨日の出来事を分析しています。
「問題は、この〈厄〉が、今後も発生するかどうかだ。そして、もし発生した場合、その都度、我々はミッションを遂行する必要があるのかどうか。……その点を明確にするためにも、我々は協力し、情報を共有すべきだと俺は考える。どうだろうか?」
彼の、深い瞳が、真っ直ぐに私を射抜きます。その瞳には、何の感情もありません。ただ、純粋な、知的な探求心だけが、宿っているように見えました。
「……きょ、協力……って……」
「ああ。この現象は、現状、我々二人にしか関係していない。ミッション内容も、俺と君の二人が不可欠なものだった。ならば、単独で行動するよりも、連携した方が、遥かに合理的だ」
彼の言葉は、全てが正論でした。反論の余地など、どこにもありません。でも……。
「……でも、昨日の、あのミッション……。あんな、こと……」
私の声が、震えます。あの、恥ずかしくて、屈辱的で、そして、どうしようもなく心を掻き乱された、あの行為。それを、また繰り返すかもしれない、と?
私の、その内心の動揺を、彼はどう受け取ったのでしょうか。彼の表情は、全く変わりません。
「ミッション内容が、常に昨日のようなものであるとは限らない。それに、仮にそうであったとしても、それはあくまで、〈厄〉を鎮めるための『手段』に過ぎない。目的と手段を混同するのは、非合理的だ」
きっぱりと、彼は言い放ちました。その、あまりにもドライな物言いに、私は、なんだか、カチンときてしまいました。
「……あなたにとっては、そうかもしれないですが……! 私にとっては、大問題です!」
思わず、声が大きくなります。彼は、私のその感情的な反応に、少しだけ、本当に少しだけ、眉をひそめたように見えました。
「……君の心情を、考慮していなかった点は謝罪する。だが、我々の身の安全を確保することが、最優先事項であることに変わりはない。違うか?」
「……それは、……そう、ですが……」
ぐうの音も出ません。彼の言う通りです。あの、得体の知れない〈厄〉から身を守るためには、彼の協力が不可欠なのかもしれません。
その、まさに、その時でした。
突然、教室の机や椅子が、一斉に激しく揺れ始めたのです。まるで、地震が起きたかのように。でも、これは地震ではありません。もっと、粘り気のある、悪意に満ちた揺れ。
「……っ!」
思わず、小さく息を呑みます。
「来たか……!」
如月くんが、低い声で呟きました。彼の表情には、初めて、わずかな緊張の色が浮かんでいます。
昨日と同じ、あの重苦しい空気が、教室を満たしていきます。窓の外の景色が、ぐにゃり、と歪んでいるように見えます。
そして、私のスカートのポケットの中で、スマートフォンが、ぶ、と短く振動しました。彼もまた、自分のズボンのポケットに手を入れています。
おそるおそる、画面を確認する。そこには、やはり、あの赤い糸が結ばれた、二つの掌のアイコンが表示されていました。
『ミッション:理人が暦の髪を優しく撫でる』
「……今度は、これか」
如月くんが、私のスマートフォンの画面を覗き込みながら、淡々と呟きました。
「……か、髪を、撫でる……?」
昨日のミッションに比べれば、スキンシップのレベルは格段に低いものです。でも、それでも、この、二人きりの教室で、彼に、髪を触られる……? 想像するだけで、顔が熱くなるのを感じます。
ガタガタという机の揺れは、さらに激しくなっています。黒板消しが、ひとりでに床に落ち、チョークがカタカタと音を立てています。このままでは、本当に、何か物理的な被害が出てしまうかもしれません。
「……神凪」
彼が、私の名前を呼びました。私は、びくりとして顔を上げます。彼は、いつの間にか、私のすぐ目の前に立っていました。
「……悪いが、また、協力してもらう」
有無を言わせぬ、きっぱりとした口調。彼は、そっと、私の方へ手を伸ばしてきました。
私は、思わず、ぎゅっと目を閉じてしまいました。心臓が、早鐘のように鳴っています。
彼の、少しだけごつごつした、大きな指先が、私の髪に、そっと触れるのがわかりました。その、思いがけない、優しい感触に、身体が、びくりと震えます。
彼の指が、まるで壊れ物にでも触れるかのように、ゆっくりと、私の髪を、梳いていきます。頭のてっぺんから、毛先へと。その、丁寧で、優しい手つき。それが、なんだか、すごく……。
どれくらいの時間、そうしていたのでしょうか。数秒だったのかもしれませんし、数分だったのかもしれません。
やがて、彼の指が、名残惜しそうに、私の髪から離れていきました。
その瞬間、嘘のように、教室の揺れが、ぴたり、と収まったのです。
重苦しかった空気は消え、窓の外の景色も、元の、穏やかな放課後のそれへと戻っていました。
「……やはり、ミッションの遂行が、解決のトリガーで間違いなさそうだな」
彼の、冷静な分析の声で、私は、はっと我に返りました。
「……はい……」
まだ、ドキドキと鳴りやまない心臓を押さえながら、私はかろうじて頷きます。髪に残る、彼の指の感触が、まだ生々しく感じられて、顔が熱い。
「これで、わかっただろう?」
彼が、改めて、私に向き直りました。
「この現象が、何がトリガーで発生するのかは、まだわからない。だが、対処法は明確だ。そして、その対処には、今のところ、俺と君の二人が不可欠だ。……改めて、提案する。俺と、協力関係を結んでほしい。これは、俺たち二人の、身の安全のためだ」
彼の、真っ直ぐな瞳。そこには、やはり何の感情もありません。ただ、純粋な、合理的な判断だけが、そこにはありました。
その、あまりにも冷静すぎる態度に、私は、まだ少しだけ、反発したい気持ちがありました。でも、さっきの出来事を経て、もう、彼の提案を拒絶することはできませんでした。
この、得体の知れない、恐ろしい現象。それに対抗するためには、彼の、この非人間的なまでの冷静さと、論理的な思考力が、必要不可欠なのかもしれない。そう、認めざるを得なかったのです。
「……不本意、ですけど……」
私は、小さな声で、しかし、はっきりと、答えました。
「……身の安全のため、ですものね。……わかりました。あなたと、……協力、します」
その、私の返事を聞いて、彼は、初めて、ほんの少しだけ、口元を緩めたように見えました。
「……合理的な判断だ。感謝する」
彼は、それだけ言うと、椅子を元の場所に戻し、自分の鞄を手に取りました。
「それから、もう一つ」
彼が、教室のドアの前で、振り返ります。
「この現象の、原因も突き止めたいと、俺は思っている。……単に、毎回ミッションをこなして対処するだけでは、根本的な解決にはならないからな。……その点についても、何か気づいたことがあれば、情報を共有してほしい」
彼の、その探究心に満ちた瞳。彼は、この異常事態を、ただ乗り切るだけでなく、その根源まで、解き明かそうとしている。
その、どこまでも真摯で、ストイックな姿勢に、私は、少しだけ、本当に少しだけ、感心してしまいました。
「……わかりました」
こうして、私と如月理人くんの、奇妙で、不本意で、そして、少しだけ心臓に悪い、「協力関係」が、始まったのです。
これから、一体どうなってしまうのでしょう。彼の隣で、私は、平常心を保ち続けられるのでしょうか。
教室から去っていく、彼の、背筋の伸びた後ろ姿を見送りながら、私は、これから始まるであろう、波乱の日々に、大きな、大きなため息をつくことしかできませんでした。
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