世界のバグを修正する唯一の方法が、クールな神社の娘といちゃつくことだった

タツキ屋

第1話

 放課後を告げるチャイムの音は、俺、如月理人きさらぎりひとにとって、思考を分断する無機質な記号に過ぎない。喧騒に包まれる教室を背に、俺はいつも通り、誰に声をかけるでもなく、目的の場所へと足を向けた。


 今日の目的地は、学校の裏手にひっそりと佇む小さな神社だ。別に信仰心があるわけではない。ただ、被写体として、極めて合理的で、興味深い対象だったからだ。古びた鳥居が作る額縁の構図、木漏れ日が苔むした石畳に落とす複雑な陰影、そして、人の手があまり入っていないことで保たれている、静謐な空気。それら全てが、俺の趣味であるスケッチの対象として、完璧な条件を満たしていた。


 愛用のスケッチブックと、硬度の違う数本の鉛筆だけを詰めたシンプルなトートバッグ。それだけが、俺の放課後の相棒だ。友人たちとの他愛ない会話も嫌いではないが、こうして一人、緻密な観察眼と正確なストロークだけで世界を切り取っていく時間は、俺にとって何よりも思考が整理される、貴重なひとときだった。


 校舎の裏口を抜け、数分も歩けば、目的の神社へと続く短い石段が見えてくる。周囲を背の高い木々に囲まれ、まるで街の喧騒から切り離されたかのような、静かな空間。鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけが、鼓膜を優しく震わせる。


 石段を上り、境内へと足を踏み入れる。予想通り、誰の姿もない。俺は最も構図のバランスが良いと思われる、少し離れた手水舎ちょうずやのそばに腰を下ろし、スケッチブックを開いた。


 今日のターゲットは、境内の中央に鎮座する、古びた木造のほこらだ。長年の風雪に耐えてきたであろう、その歪みや木目の掠れ具合。屋根の縁に生えた、鮮やかな緑色の苔。それらが織りなす、計算され尽くした作為では決して生み出せない、自然な造形美。それを、一本の鉛筆だけで、この二次元の紙の上にいかに再現するか。それは、数学の難問を解くのに似た、知的な挑戦だった。


 HBの鉛筆で大まかな輪郭を取り、次に2Bで濃い影の部分を塗りつぶしていく。思考を無にし、ただ目の前の光景を、見たままに、正確に、紙の上へと転写していく。この作業に没頭していると、時間の感覚が曖昧になっていく。


 カリカリ、という鉛筆の芯が紙を擦る音だけが、静寂の中に響いていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。祠の全体像が、徐々に紙の上に姿を現し始めた、まさにその時だった。


「……あの……」


 不意に、背後からかけられた、鈴を転がすような、という陳腐な表現では足りない、どこまでも澄んだ声。俺は、集中を破られたことにわずかな苛立ちを覚えながらも、ゆっくりと振り返った。


 そこに立っていたのは、神凪暦かんなぎこよみだった。


 艶やかな黒髪が、木漏れ日を浴びて、天使の輪のように淡い光を帯びている。白いブラウスに、ネイビーのスカート。見慣れた制服姿のはずなのに、この神社の持つ神聖な空気と相まってか、彼女の存在そのものが、どこか現実離れした、神秘的な輝きを放っているように見えた。


 容姿端麗、というありふれた言葉では到底足りない。けれど、その完璧すぎるほど整った顔立ちと、どこか人を寄せ付けないクールな雰囲気は、彼女の周りに見えない壁を作っているようにも見えた。クラスは同じだが、まともに言葉を交わした記憶はない。俺が府外からの受験組で、彼女が市内の由緒正しい神社の娘であるという、属性の違いも、その壁をさらに厚くしている一因かもしれない。


「……神凪」


 俺が、訝しむように彼女の名前を呼ぶと、彼女は少しだけ困ったような、それでいて何かを探るような、複雑な表情で口を開いた。


「……ごめんなさい、スケッチの邪魔だったかしら。……ただ、……なんだか、ここに、呼ばれたような気がして……」


 呼ばれた気がした?


 その、あまりにも非論理的で、詩的な表現に、俺は思わず眉をひそめた。偶然、同じ場所に来た。ただ、それだけのことだろう。それを「呼ばれた」と表現する彼女の感性が、俺には理解できなかった。


「……別に。邪魔というわけではないが」


 俺は素っ気なく答え、再びスケッチブックへと視線を戻す。だが、もう先ほどまでの集中力は戻ってこない。すぐ近くに彼女がいる。その事実が、俺の思考に、無視できないノイズとして混入してくるのだ。彼女の、微かなシャンプーの香り。制服の衣擦れの音。そして、俺に向けられているであろう、その視線。


 気まずい沈黙が、重くのしかかる。早く、どこかへ行ってくれないだろうか。そう思いながらも、それを口に出すほどの勇気も、理由もない。


 やがて、彼女は諦めたように、俺の隣を通り過ぎ、俺が描いていた、あの古い祠の前へと歩み寄った。そして、深く、丁寧な一礼をすると、静かに目を閉じ、両手を合わせた。その、背筋の伸びた、祈る姿は、一枚の絵画のように美しく、そして神々しかった。神社の娘、という彼女の属性が、その所作の一つ一つに、説得力を持たせている。


 彼女が、ゆっくりと目を開け、もう一度、深く頭を下げた、その瞬間だった。


 ―――ミシリ、と。


 今まで聞いたことのないような、木が軋む、嫌な音が響き渡った。


 見ると、彼女が参拝していた、あの古い祠が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の頭上へと傾ぎ始めていた。長年の風雨による腐食が、限界に達したのだろう。


「……っ! 危ない!」


 思考よりも先に、身体が動いていた。危険回避のための、脊髄反射。それが、最も合理的な判断だった。


 俺は、腰を下ろしていた手水舎の縁を蹴り、数歩で彼女との距離を詰め、その細い腕を掴むと、力任せに自分の方へと引き寄せた。


 俺の腕の中で、彼女が小さく息を呑むのと、祠が完全に崩れ落ち、木材と土埃を撒き散らす轟音が響き渡ったのは、ほぼ同時だった。


 俺は、彼女を庇うように、きつく抱きしめる形になっていた。舞い上がった土埃が、俺たちの周囲を覆い尽くす。


 数秒間の、耳鳴りのような静寂。やがて、土埃がゆっくりと晴れていく。


 俺の腕の中には、彼女の、驚くほど柔らかく、そして温かい身体があった。抱きしめた肩は華奢で、力を入れれば折れてしまいそうだ。鼻腔をくすぐるのは、土埃の匂いと、そして、彼女の髪から香る、清潔で、少しだけ甘い、シャンプーの香り。


 彼女の心臓が、俺の胸に、どく、どくと、速いリズムで伝わってくる。それは、俺自身の心臓の音だったのかもしれない。


 状況を、冷静に分析しようとする。俺は、神凪を助けた。彼女は、無事だ。俺も、怪我はない。祠は、崩壊した。原因は、経年劣化。すべて、論理的に説明のつく、偶然の出来事。


 そう、頭では理解しているはずなのに。


 腕の中にいる、彼女の存在が、俺の思考を、ぐちゃぐちゃにかき乱す。


「……あ……」


 彼女が、か細い声を漏らした。そして、顔を上げる。至近距離で、彼女の、大きな琥珀色の瞳と視線がぶつかった。その瞳には、恐怖と、驚きと、そして、俺の腕の中にいることへの、明らかな戸惑いの色が浮かんでいる。


 その白い頬が、じわり、と綺麗な桜色に染まっていくのを、俺は、見てしまった。


 その瞬間だった。


 ポケットの中のスマートフォンが、ぶ、と短く、しかし力強く振動した。まるで、心臓が直接、震えたかのような、奇妙な感覚。


 彼女もまた、同じように自分のスカートのポケットを押さえている。彼女のスマートフォンも、同じタイミングで振動したのだろう。


 何事かと、俺は彼女から身体を離し、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、見慣れないアイコンが表示されている。赤い糸が結ばれた、二つの掌が描かれた、奇妙なデザイン。アプリの名前は、『えにし』。


 インストールした覚えは、全くない。ウイルスか? それとも、高度なハッキングか? 不審に思いながらも、俺は、そのアイコンをタップしてしまった。


 画面が、一瞬、真っ白に明滅する。そして、次に表示されたのは、あまりにも、非現実的で、意味不明な文字列だった。


 その変化は、スマートフォンの画面の中だけではなかった。


 ざわ……。


 風もないのに、俺たちの周囲の木々が、一斉に葉を揺らし始めたのだ。それは、自然な風で揺れる音とは明らかに違う。もっと、不快で、意志を持ったような、擦れ合う音。まるで、無数の何かが、こちらを嘲笑っているかのような……。


 影が、おかしい。地面に落ちる木々の影が、陽の光の角度とは無関係に、まるで生き物のように、伸びたり、縮んだり、蠢いている。


 空気が、重い。さっきまでの、澄んだ空気が嘘のように、よどんで、粘り気を帯びている。呼吸をするたびに、肺に冷たい何かが流れ込んでくるような、嫌な感覚。


「……な、……なに、これ……」


 隣で、神凪が、震える声で呟いた。彼女の顔は、先ほどの赤みは完全に消え失せ、恐怖で真っ青になっている。彼女の、その大きな瞳が、何か、俺には見えないものを捉えているかのように、虚空の一点を見つめている。


「……何か、……来る……。……すごく、嫌な、感じが……」


 彼女の、その言葉。それは、彼女が持つという、強い霊感から来るものなのだろうか。俺には、見えない。聞こえない。けれど、肌で感じるこの異常な雰囲気は、紛れもなく本物だった。


 俺は、再び、スマートフォンの画面に視線を落とした。そこに表示されている、理解不能な文字列。それが、この異常事態の、唯一の手がかりであるかのように。


『ミッション:理人が暦を背後から抱きしめ、首筋にキスマークをつけなさい』


 ――は?


 一瞬、思考が停止した。ミッション? 理人が暦を? 背後から抱きしめ、首筋に、キスマーク?


 馬鹿げている。悪趣味な悪戯だ。誰が、何のために、こんなものを。


 だが、周囲で起こっている、この物理法則を無視した怪奇現象――〈厄〉とでも呼ぶべきか――は、紛れもない現実だ。ざわざわという木々の不快な音は、さらに大きくなっている。影の蠢きも、より激しくなっている。このままでは、何か、本当にまずいことが起こる。そんな、本能的な恐怖が、背筋を駆け上がった。


 困惑と、恐怖に震える神凪。蠢く影。ざわめく木々。そして、スマートフォンに表示された、あまりにも非合理的な「指示」。


 俺の頭脳が、高速で回転を始める。


 この状況を、どう分析し、どう対処すべきか。


 これは、何者かによる、大規模なドッキリ、あるいはVR技術を駆使した体感型ゲームである。違う。この、肌で感じる空気の重さ、五感を直接刺激する異常現象は、現在のVR技術で再現できるレベルを遥かに超えている。


 俺と神凪は、何らかの薬物や催眠術によって、集団幻覚を見せられている。可能性は否定できない。だが、動機が不明だ。


 これは、未知の、超常的な現象である。最も非論理的だが、現状、最も可能性が高い選択肢。


 ならば、この超常現象を解決するための、唯一の手がかりは、このスマートフォンに表示された「ミッション」と考えるのが、合理的だ。


 原因は不明。目的も不明。だが、この異常事態――〈厄〉は、祠が壊れた直後に発生した。そして、この「ミッション」も、壊れた直後に発生している。


 つまり、この〈厄〉の発生と、「ミッション」の提示には、明確な因果関係が存在する可能性が高い。そして、この「ミッション」を遂行することが、この異常事態を収束させるための、唯一の解決策である、と。そう、結論付けるのが、最も合理的だ。


 馬鹿げている。非科学的だ。だが、他に選択肢はない。


「……神凪」


 俺は、震える彼女に向かって、できるだけ冷静に、事務的に、声をかけた。


「……大丈夫だ。落ち着け」


「で、でも……! 何なの、これ……! 気持ち悪い……!」


「……これは、何らかの現象だ。原因はわからない。だが、解決方法は、おそらく、一つしかない」


 俺は、自分のスマートフォンの画面を、彼女に見せた。彼女の、恐怖に見開かれた瞳が、そこに表示された文字列を、ゆっくりと、なぞっていく。


「……え……?……これって……」


 彼女の顔が、恐怖から、今度は信じられない、というような、困惑と羞恥の色へと変わっていく。


「……な、……何、言ってるの……?……で、できるわけ、ないじゃない……! こんな、こと……!」


 彼女が、涙声で叫ぶ。当然の反応だ。だが、俺の決意は、もう固まっていた。


「……悪いが、選択肢はないようだ」


 俺は、スマートフォンをポケットにしまい、一歩、彼女に近づいた。彼女は、びくりと肩を震わせ、後ずさる。


「……これは、治療行為のようなものだと考えてくれ。この、異常な現象を解決するための、唯一の、合理的な手段だ」


 俺は、自分に言い聞かせるように、そう言った。感情を、挟むな。これは、ただの、タスクの遂行だ。


 俺は、彼女の抵抗を無視し、その震える身体を、背後から、そっと、抱きしめた。


「……っ!」


 彼女の身体が、硬直する。その、小さな、震える身体の感触。腕の中にすっぽりと収まってしまう、その華奢さ。それが、俺の、冷静であるはずの思考を、またしても、かき乱そうとする。


 ダメだ。これは、治療行為だ。


 俺は、彼女の、白い、うなじに、顔を近づけた。シャンプーの、甘い香りが、鼻腔をくすぐる。その、あまりにも無防備で、柔らかそうな肌に、俺は、一瞬、ためらった。


 だが、周囲の〈厄〉は、さらにその勢いを増している。もう、迷っている時間はない。


 俺は、意を決して、彼女の首筋に、唇を、押し付けた。


 その、柔らかく、温かい、肌の感触。彼女が、ひっ、と息を呑む音。


 俺は、目を閉じ、そして、強く、その白い肌を、吸った。


 その、背徳的な行為が、完了した、瞬間だった。


 嘘のように、周囲のざわめきが、ぴたり、と止んだ。


 蠢いていた影は、元の、静かな木々の影へと戻り、重くよどんでいた空気は、再び、澄んだ、神社のそれへと変わっていた。


 まるで、悪夢から覚めたかのように。


 後に残されたのは、腕の中で、呆然と、そして小さく震え続ける、神凪暦の、か細い身体と。


 彼女の、白い首筋にくっきりと刻まれた、生々しい、赤い痕。


 そして、俺の心の中に芽生えた、論理では到底説明のつかない、彼女に対する、強烈な、あまりにも強烈な、「意識」だけだった。


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