第3話

 神凪との「合理的協力関係」が成立してから数日が経過した。といっても、俺たちの日常に劇的な変化があったわけではない。教室ではこれまで通り、必要最低限の会話しか交わさない。ただ、互いのスマートフォンにインストールされた『縁』という名のアプリだけが、俺たちの間に存在する奇妙な共犯関係を、静かに、しかし雄弁に物語っていた。


 幸いなことに、あの教室での一件以来、〈厄〉と呼ばれる怪奇現象は発生していない。平穏な日常。それは、本来であれば歓迎すべき状況のはずだった。だが、俺の思考は、常にあの現象の分析と、次なる発生への備えに占められていた。


 原因不明、発生条件不明、対処法はミッションの遂行のみ。あまりにも情報が少なすぎる。このまま、いつ起こるとも知れない現象に、ただ受動的に対処し続けるのは、あまりにも非合理的だ。能動的に情報を収集し、法則性を見出す必要がある。


 そして、そのための最も合理的な場所として、俺が選んだのが、府立図書館だった。


「……図書館、ですか?」


 放課後、俺が声をかけると、神凪は怪訝そうな顔で小首を傾げた。その仕草が、普段の彼女のクールな印象とは少しだけ異なり、妙に……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。


「ああ。あの現象について、何らかの手がかりがないか、調査するためだ」


「手がかり、と言いましても……。あれは、科学で説明できるような現象ではないと思いますけど」


「わかっている。だからこそ、非科学的なアプローチが必要になる」


 俺がそう言うと、彼女はさらに訝しげな表情を浮かべた。無理もない。常に論理と合理性を重んじる俺が、「非科学的アプローチ」などという言葉を口にするのだから。


「古今東西の神話、伝承、あるいはオカルトや都市伝説。そういった、一見すると非合理的な情報の集合体の中に、今回の現象と類似した事例や、何らかの法則性を示唆する記述が存在する可能性がある。もちろん、可能性は低い。だが、他に有効な手段がない以上、試してみる価値はあると判断した」


 我ながら、苦しい理屈だとは思う。だが、事実、他に打つ手がないのだ。警察に相談するわけにも、科学者に分析を依頼するわけにもいかない。ならば、残された選択肢は、先人たちが遺した、膨大な「物語」の中に、答えの断片を探すことだけだった。


「……わかりました。あなたがそこまで言うのなら」


 神凪は、まだどこか納得しきれていない様子だったが、それでも俺の提案を受け入れてくれた。彼女にとっても、この不可解な現象は、一刻も早く解決したい問題なのだろう。


 学校からバスで数十分。目的の図書館は、古い洋館のような、重厚で威厳のある佇まいで俺たちを迎えた。高い天井、アーチ状の窓、そして、建物全体を包み込む、古い紙とインクの、どこか懐かしい匂い。しんと静まり返った館内には、本のページをめくる微かな音と、利用者の潜めた話し声だけが響いている。思考を深めるには、これ以上ない環境だ。


「……すごいですね、ここ」


 神凪が、感嘆の声を漏らす。その琥珀色の瞳が、高い天井を見上げ、きらきらと輝いている。その、普段は見せない、少女のような無邪気な反応に、俺の心臓が、ほんの少しだけ、不規則なリズムを刻んだ気がした。……気のせいだ。


「目的のコーナーは、郷土史と民俗学、それから、いわゆる『その他』に分類される棚だ。手分けして探そう」


 俺は、内心の動揺を悟られぬよう、事務的な口調で指示を出す。彼女も、こくりと頷き、俺とは別の書架へと向かった。


 俺が向かったのは、オカルトや都市伝説関連の書籍が集められた、図書館の中でもひときわ異彩を放つ一角だった。『世界UMA大百科』『本当にあった怖い話』『失われた古代文明の謎』……背表紙に並ぶ、扇情的なタイトル。普段の俺なら、眉をひそめて通り過ぎるような、非論理的な情報の集合体。だが、今は、その一つ一つが、貴重なデータソースに見えた。


 俺は、片っ端から本を抜き取り、目次と索引に目を通していく。「ポルターガイスト」「神隠し」「集団幻覚」「呪い」。今回の現象と関連付けられそうなキーワードを、頭の中で高速で検索し、該当するページを読み進める。だが、どれもこれも、信憑性に欠ける体験談や、根拠の薄い憶測ばかり。法則性を見出すための、客観的なデータとしては、あまりにも脆弱すぎた。


「……やはり、無駄骨だったか」


 数冊の本を読み終え、俺が小さくため息をついた、その時だった。


「……如月くん」


 声のした方を見ると、神凪が、数冊の古びた本を抱えて、こちらへ歩いてくるところだった。彼女が手にしているのは、この地域の古い伝承や、神社の由来について書かれた、郷土史関連の書籍のようだ。


「何か、見つかりましたか?」


「いや、今のところは。そっちはどうだ?」


「こちらも、直接的な記述は……。ただ、少しだけ、気になる一文が」


 彼女は、抱えていた本の一冊を開き、俺にそのページを示した。それは、この土地に古くから伝わる、ある「縁結び」の神様に関する記述だった。


「……『二つの魂、強く惹かれ合う時、ことわりを超えし奇跡、あるいは災いを生む』……」


 俺は、その一文を、声に出して読み上げた。理を超えし奇跡、あるいは災い。あまりにも抽象的で、詩的な表現だ。これを、俺たちの現象と結びつけるのは、あまりにも飛躍しすぎている。


「……確かに、示唆的ではあるが。これだけでは、証拠としては弱いな」


「そう、ですよね……。ごめんなさい、変なこと言って」


 彼女は、少しだけ残念そうに、視線を落とした。その、しゅんとした子犬のような姿に、俺は思わず、フォローの言葉を口にしていた。


「いや、そんなことはない。どんな些細な情報でも、今は重要だ。ありがとう、神凪。これも、可能性の一つとして、記録しておく」


 俺の言葉に、彼女の表情が、ぱっと明るくなった。その、あまりにも素直な反応に、またしても、俺の心臓が、小さく、しかし確実に、特別な音を立てる。


(……まずいな。完全に、ペースを乱されている)


 俺は、内心の動揺を隠すように、再び書架へと向き直った。


 それから、一時間ほどが経過しただろうか。俺と神凪は、書架の間の、狭い通路に設置された小さな閲覧用の机で、めぼしい本を積み上げ、黙々と読み進めていた。時折、どちらかが「これはどうだろう?」と相手にページを示し、それについて短い意見を交わす。その、ぎこちないながらも、確かな協力関係。それが、不思議と、悪くない、と感じている自分がいた。


 彼女が、長い髪を耳にかける仕草。真剣な眼差しで、古い活字を追う横顔。時折、難しい箇所にぶつかったのか、小さく、ん、と唸る声。その一つ一つが、俺の意識の片隅に、鮮やかな印象を残していく。


 その、静かで、穏やかな時間が、唐突に破られたのは、本当に、何の前触れもなかった。


 ひゅっ、と。


 風もないのに、俺たちのすぐ隣の書架から、一冊の本が、まるで誰かに引き抜かれたかのように、ひとりでに滑り落ちたのだ。


 バサリ、という乾いた音を立てて、本は俺たちの足元に落ち、開かれたページを晒した。


「……っ!」


 隣で、神凪が息を呑む気配がした。彼女の肩が、微かに震えている。


 来たか。――〈厄〉だ。


 俺は、即座に周囲を見渡した。だが、俺たちの近くにいた、他の図書館の利用者は、誰一人として、今の現象に気づいた様子はなかった。ヘッドフォンで音楽を聴いている学生、分厚い専門書に没頭している老人、静かに雑誌をめくっている主婦。彼らの世界は、何も変わらず、穏やかに続いている。


「……やはり、影響範囲は、俺と君の、二人だけに限定されている、ということか」


 俺が、冷静に分析の言葉を口にすると、神凪は、まだ少し怯えたように、しかし、こくりと頷いた。


 その時だった。


 バサ、バサ、バサッ!


 今度は、一冊どころではない。俺たちの周りの書架から、まるで意志を持ったかのように、次々と本が滑り落ちてくる。それは、まるで、見えない誰かが、無言の抗議をしているかのような、不気味な光景だった。


「……きゃっ……」


 神凪が、小さな悲鳴を上げた。無理もない。この、静寂に包まれた神聖な空間で、こんなポルターガイスト現象に遭遇すれば、誰だって恐怖を感じるだろう。


 俺は、ポケットの中のスマートフォンが、ぶ、と短く振動したのを感じた。隣の神凪も、同じように自分のスカートのポケットを押さえている。


 意を決して、画面を確認する。そこに表示されていたのは、やはり、あの『縁』のアイコン。そして、新たなミッション。


『ミッション:二人で一つのイヤホンを使い、同じ音楽を聴く』


「……今度は、これか」


 俺は、画面を神凪に見せながら、静かに呟いた。彼女も、その文字列を読み、わずかに眉をひそめた。


「……イヤホンで、音楽を……?」


 一つのイヤホンを、二人で。それは、必然的に、互いの顔と身体が、かなり近い距離になることを意味する。意識せざるを得ない、親密な行為。


 だが、今はそんなことを躊躇している場合ではない。周囲では、まだ本が落ち続けている。このままでは、図書館の職員に気づかれ、騒ぎになる可能性もある。


 俺は、即座に、最も合理的で、効率的な解決策を実行に移した。


 トートバッグから、いつも持ち歩いている、黒いレザーのケースを取り出す。中に入っているのは、最新型の、完全ワイヤレスイヤホンだ。これなら、物理的なケーブルで繋がれることなく、ミッションを遂行できる。


 次に、スマートフォンを取り出し、音楽アプリを起動する。ライブラリの中から、俺が好んで聴く、クラシックのプレイリストを選択した。選んだのは、ドビュッシーの『月の光』。この、静かで、幻想的な雰囲気には、ぴったりの曲だろう。


「……神凪」


 俺が声をかけると、彼女は、びくりと肩を震わせ、こちらを見た。その、少し怯えたような、子鹿のような瞳。


「……右と左、どっちがいい?」


 俺の、あまりにも事務的で、実践的な問いかけに、彼女は一瞬、きょとんとした顔をした。そして、すぐに意味を理解したのか、顔を、じわりと赤らめた。


「……え、……あ、……じゃあ、……右、で……」


 しどろもどろに答える彼女に、俺はこくりと頷き、ケースから右耳用のイヤホンを取り出すと、そっと、彼女の小さな手のひらの上に乗せた。


「……悪いが、頼む」


「……は、はい……」


 彼女は、おそるおそる、その白いイヤホンを、自分の右耳へと装着した。その、少しだけぎこちない仕草。長い黒髪が、さらり、と揺れる。


 俺もまた、左耳用のイヤホンを、自分の耳に装着した。そして、スマートフォンの再生ボタンを、静かにタップする。


 瞬間、世界から、周囲の雑音が消えた。


 代わりに、俺の左耳と、そして、彼女の右耳に、同じ、澄み切ったピアノの旋律が、流れ込み始めた。


 ドビュッシーの『月の光』。静かで、優しく、そしてどこか切ない、幻想的なメロディ。それが、ノイズキャンセリング機能によって、片耳だけが外部の音から完全に遮断された、俺と彼女だけの、二人だけの認知の中に響き渡る。


 隣に座る彼女の、わずかな呼吸音。俺自身の、心臓の鼓動。そして、二人を繋ぐ、同じ音楽。


 ふと、隣の彼女に視線を送る。彼女もまた、こちらを見ていた。大きな琥珀色の瞳が、少しだけ潤んで、揺れている。その瞳には、困惑と、戸惑いと、そして、ほんの少しの……安らぎのような色が、浮かんでいるように見えた。


 彼女は、何かを考えているようだった。俺の顔を、じっと見つめている。その、真剣な眼差し。俺は、その視線から、目を逸らすことができなかった。


 ピアノの旋律が、クレッシェンドし、そして、デクレッシェンドしていく。寄せては返す、波のように。俺たちの間に流れる、言葉のない、しかし雄弁な沈黙。その中で、俺は、ただ、彼女の横顔を、見つめていた。


 長い黒髪。白い肌。形の良い、小さな鼻。そして、少しだけ開かれた、桜色の唇。その、あまりにも完璧な造形。俺が、いつもスケッチブックに描こうとしている、理想の美が、そこにはあった。


 時間は、どれくらい経ったのだろうか。数分間の、永遠のような時間。


 やがて、曲が終わり、静寂が訪れる。


 その瞬間、嘘のように、俺たちの周りで続いていた、本が落ちる音も、ぴたり、と止んだ。


 〈厄〉は、収束したのだ。


 俺は、自分の耳からイヤホンを外し、彼女もまた、ゆっくりと、自分の耳からイヤホンを外した。


「……終わった、みたいですね」


 彼女が、小さな声で呟いた。その声には、まだ、夢から覚めきらないような、そんな響きが混じっている。


「ああ。……どうやら、音楽のジャンルは、ミッションの成否には関係ないらしいな。それと、完全ワイヤレスイヤホンであれば、物理的な接触を最小限に抑えつつ、ミッションを遂行可能であることも確認できた。本来は有線イヤホン想定だったんだろうか。……有益なデータだ」


 俺は、自分に言い聞かせるように、冷静に、分析結果を口にした。そして、ノートを取り出し、今の考察を、箇条書きで書き留めていく。


 隣で、神凪が、少しだけ呆れたような、それでいて、どこか感心したような、複雑なため息をついたのが、わかった。


 俺は、ノートから顔を上げず、ペンを走らせ続ける。そうでもしないと、さっきまで、俺の心を支配していた、あの、論理では到底説明のつかない、甘く、そして静かな高揚感を、隠しきれそうになかったからだ。


 彼女と共有した、あの数分間の音楽。そして、その間、ずっと見つめていた、彼女の横顔。その、あまりにも美しい残像が、俺の脳裏に、まだ、鮮明に焼き付いて離れないでいた。

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