2話 名前を持たない来訪者
風が吹き抜けた。
羊たちは、のんびりと遠くの草地へ移動していく。
剣を構えていた男は、ほんの少しだけ刃先を下げた。
けれどその表情からは、いまだ緊張が消えていない。
私は両手を合わせたまま、彼の顔を見上げていた。
——殺されなかった……
でも、それだけ。
ここから先、どうすればいいのかなんて、まるで分からない。
彼は、短く息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「מה שמך?」
(マ シムハ?)
その声は穏やかだった。
先ほどまでの怒声とは違って、低く、柔らかい——けれど、私はまた凍りついた。
「えっ……? え、なに?」
彼は、もう一度繰り返した。
今度は少しゆっくり、私の目をしっかり見ながら。
「……מה שמך?」
(マ シムハ?)
——名前。
たぶん、名前を聞かれてるんだ。
けれど、確信は持てなかった。
英語ですらない、聞いたことのない響き。
私は自分の胸を指さしてみた。
「たかなし……澪。たかなし、みお」
恐る恐る口にする。だが彼は、首をかしげた。
「מיו?」
(ミオ?)
私を指さしながらこぼれたその音は、名前に近い気がした。
私は慌てて、何度もうなずいた。
「うん、そう……ミオ。たかなしは名字……じゃなくて……そう、ミオでいい、と思う……」
胸元に手を置きながら、必死に言葉を重ねる。
彼はしばらく私をじっと見つめたあと、つぶやくように繰り返した。
「מיו」
『ミオ』
——あ、伝わった
たった一言。
でも、その一言が、私を少しだけ救ってくれた気がした。
私はおずおずと彼の顔を見つめ返し、今度はそっと右手を差し出してみた。
「えっと……あなたは? あなたの、名前は……?」
ゆっくり、はっきりと。通じるはずがなくても、思わず問いかけてしまう。
彼は私の手を見て、少し困ったように眉を動かし、それから自分の胸を指差した。
「אליהו」
(エリヤフ)
「エ……リ、ヤ……フ? エリヤフ?」
私はその音を何度も繰り返す。
うまく言えたか自信はなかったけれど、彼は黙って頷いた。
その時間が、少しだけ温かかった。
だけど——そのあとが、続かない。
エリヤフが何かを聞く。私は首をかしげる。
私が言葉を返す。彼の顔は険しくなる。
私が草を指差す。彼は空を指す。
私がお茶を飲む仕草をしながら、「水」と言ってみる。
彼は、長くて複雑な言葉で返してくる。
まるで幼稚園児と外国人が、ジェスチャーだけで遊んでいるようだった。
——いや、それ以下かもしれない……
「なんにも、わからない……」
私は力なく笑いながらつぶやいた。
エリヤフは何かを言った。今度は少し笑ったような顔で。
でもやっぱり、言葉は分からなかった。
試しに「ハロー」と言ってみても、彼はきょとんとするだけ。
私は、手元のスカートのすそを握った。
——どうしよう……
言葉が通じない。
どうやって——
この知らない世界で。
名前以外、何ひとつ分からない場所で、生きていけばいいの?
そのとき、1頭の羊が鳴いた。
エリヤフが鞄のようなものをごそごそとあさり、小さな木片を取り出す。
そして地面に膝をつき、短剣の柄の先で、木の表面に何かを刻みはじめた。
やがて、それを私に差し出してきた。
私はおそるおそる受け取り、目を凝らす。
そこには、簡素な線で描かれた羊のような絵があった。
子どもが描いたような、でも不思議とあたたかい線。
エリヤフはその羊を指差し、ゆっくりと口を開いた。
「כבש」
(ケヴェス)
——あ……
私の中に、小さな光が灯った。
それはかすかな、ほんのかすかな希望。
この世界で、なんとか生きていくための、最初のかけら。
ほんのひとつ。たったひとつだけど——
理解できた。
その手応えが、こんなにも心を震わせるなんて。
私はそっと息を吸い込む。
乾いた空気が肺を満たし、土と草と家畜の混じった匂いが鼻をくすぐる。
それはもう、異世界の匂いなんかじゃなかった。
ほんの少しずつ、現実になりはじめていた。
「ケベス……」
口の中で繰り返す。何度も、何度も。
エリヤフは黙って私を見ていた。
無表情な顔のまま、けれど——ほんのわずかだけ、目元が和らいで見えた。
たった一語で、言葉が通じるわけじゃない。
でも、それでも私は、この木片を手放したくなかった。
「エリヤフ」「ケベス」——何度も心の中で呟きながら、私はそれを胸元にそっと抱きしめた。
それは、彼と私が初めて、同じものを見て、同じ音で呼んだ——たったひとつの証だった。
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