3話 火のそばの沈黙
太陽が傾きはじめていた。
影が長くのび、乾いた草が金色からくすんだ灰色に変わっていく。
私は放牧地の端に座っていた。
背後にはごつごつした岩。
埃っぽい風が頬を撫でるたびに、さっきまでの会話未満のやりとりが思い出されて、胸の奥にざわめきを残す。
スーツの胸元に、小さなメモ帳とペンを入れていたことを思い出し、探る。
あった。
仕事のスケジュールがびっしりと書き込まれたページの横に、理解できた単語を書き出す。エリヤフ:彼の名前、ケベス:羊。
このメモ帳が私の唯一の生きていく術。
そう思えた。
エリヤフは少し離れた丘の斜面で何かを拾い集めている。
しゃがみ込み、草をかき分けては手に取り、確認していた。
なにかの実だろうか。
とげのある枝にぶら下がった、小さなオリーブかナツメの実みたいなものを、手の中で転がしている。
私はそっと木片とメモ帳を握りしめたまま、エリヤフの背中を見つめた。
声はかけない。
言葉が通じないのもあるけれど、それ以上に、この沈黙を破るのが怖かった。
やがて、エリヤフが戻ってきた。
腰の革袋が重くなっているのが、歩き方でわかった。
そのまま私の前を通りすぎ、地面にしゃがみ込むと、小枝で土の表面をなぞり始める。
何を——と思った瞬間、その線の意味に気づく。
四角い枠の中に長方形。
端には煙突のような突起。
子どもが描くような、家の絵だった。
エリヤフは描き終えると絵を指さし、それから私を指さす。
「……え?」
戸惑って顔を上げると、彼がつぶやいた。
「בואי הביתה, מיו」
『——、ミオ』
(ボーイ ハバイタ, ミオ)
エリヤフは私の胸を指差し、次に絵を指す。
——もしかして……
「泊めてくれる……の?」
もちろん、答えは返ってこない。
けれど、たぶん、そういうことだ。
この絵と仕草だけで、伝わる。
「ありがとう……エリヤフ」
名前を呼ぶのが少し気恥ずかしくて、スカートの裾をはたく。
私はゆっくり立ち上がる。
エリヤフは何も言わず、くるりと背を向けて歩き出した。
私はあわてて、その後を追いかけた。
日が暮れるころ、小さな石造りの家が見えてきた。
丘の中腹、オリーブ畑の先にひっそりと建つその家は、まるで土地に埋もれるように低く、古く、でも不思議と安心感があった。
家の脇には羊小屋があり、エリヤフが声をかけると、群れは自然とそちらへ流れていく。
私はその光景を見て、はじめてエリヤフが羊飼いであることを実感した。
家の中は、質素だった。
石壁に囲まれた空間の中、木の机と椅子がひとつ。
かまどの残り火の香り。
壁際には藁を詰めた寝台がひとつ、小さな棚に土器のような器が並んでいた。
エリヤフは袋から実を出して水で洗い、手際よく鍋に入れて煮はじめた。
オリーブ、豆、刻んだ何かの根菜……それに少しの塩。
他の調味料らしいものは見えなかったけれど、火にかけるとすぐに、ほのかな香ばしさと油の匂いが立ち上った。
私は遠慮がちに隅に座り、火を見つめた。
ぱち、ぱちと薪のはぜる音が、この空間で唯一の会話だった。
火に照らされたエリヤフの横顔が、さっきより少しだけ柔らかく見えた。
エリヤフは食事の準備を終えると、扉の外に出て、夕陽の沈む方角へと静かに立った。
そして、何かを唱えはじめた。
「ה׳ אלהינו ה׳ אחד」
(アドナイ・エロヘイヌ、アドナイ・エハド)
その響きは言葉としてではなく、儀式として心に届くもので——
夕日に照らされたエリヤフの姿は、神々しくも見えた。
——きっと祈り、だ
祈りを終えると、エリヤフは火のそばに戻り、器をふたつ並べた。
「בתיאבון」
(ベテアヴォン)
——いただきます、かな……? それとも召し上がれ……?
聞いた音をそのまま言葉にする。
「ベテアボン……」
食事は静かだった。
無言のまま、スプーンのような木の匙で煮込みを口に運ぶ。
味は——驚くほど、ちゃんとしていた。
豆のコクと、オリーブのまろやかさ。塩が控えめで、でも優しい風味。
エリヤフはちらりと私の様子を見たが、何も言わなかった。
私は「おいしい」とそっと呟いて、また匙を動かした。
言葉は通じない。
でも、この食卓の沈黙が、なぜか嫌じゃなかった。
夜になった。
家の灯は、油を注いだ素焼きの小さなランプひとつだけ。
低い天井。
風の音だけが屋根の上を這っていく。
エリヤフは寝台を指差し、私に向かってうなずいた。
私はためらいながらも、そこに腰を下ろす。
——言葉の通じない男性と、同じ屋根の下で夜を過ごすなんて……
けれど、野宿よりはまし。
——それにエリヤフはきっと……乱暴な人じゃない、と思う……
藁の寝床は、ざらざらしているけれど、あたたかかった。
毛布は古くて薄いけれど、それでも嬉しかった。
エリヤフは少し離れた場所に腰を下ろし、壁にもたれて目を閉じる。
——まるで、番をするみたいに。
私は毛布を握りしめながら、エリヤフの背を見つめた。
火。
言葉。
祈り。
家。
そして、眠り。
何もかもが違う。でも、ここにいる。
そう思うと、胸の奥がすこしだけ、あたたかくなった。
——澪のことばメモ——
エリヤフ:彼の名前
ケベス:羊
ベテアボン:いただきます? 召し上がれ?
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