思いを届けるまで、いくつの言葉が必要ですか?

白蛇

第1章 出会いの地にて

1話 言葉のない出会い

——ちくちくとした刺激が頬を撫でる。

——乾いた風の音が耳に触れる。


 それはまるで、遠いどこかの夢の続きをなぞるような——乾いた紙をめくる音に似ていた。


 私は、ゆっくりと目を開けた。


 青くもなく、灰色でもなく、言葉にしづらいほど澄みきった空が広がっていた。

 視界の端には、金色の草が風に揺れている。

 太陽は高く、刺すようなまばゆさに、まぶたが閉じそうになる。


——あれ、私なんでこんなところに?


 体を起こそうとした瞬間、背中が固い石に当たり、びくりと震えた。

 草の間に、点々と岩が転がっている。


——私はどうして、こんな場所で寝ていたんだろう?


 記憶を辿る。

 仕事の帰り道、疲れ切って横断歩道の前で立ち止まった。

 その時——


衝撃。

 ブレーキ音。

 黒いタイヤが迫ってきて——


「——あ」


 声が漏れた。


——私、きっと死んだんだ……


——じゃあ、ここは天国? それとも……異世界? 漫画や小説みたいな、あの?


 いや、知ってる。こういうの。

 異世界転生ものとか、悪役令嬢とか、ネットで散々見てきた。

 ……でも、まさか自分が、ってやつ。


——転生したなら、女神様とかが来て説明してくれるんだよね……?

——私、勇者になるのかな……?


 そんな混乱の中、風とは違う音が近づいてきた。

 重い足取り。石を踏む音。

 私は首を回す。


——女神様?


 けれど、視界に映ったのは女神ではなかった。


 背の高い男がひとり、斜面をゆっくりと登ってきていた。


 太陽を背に、十数頭の羊を従えて。

 腰には剣のようなものを下げていた。

 深い色のチュニックに、革の帯。

 焦げ茶の長髪を後ろで束ねて、じっとこちらを見ている。


 怖い——というより、現実味がなかった。

 絵画の中から抜け出してきたみたいな存在感だった。


「……あの、すみません、ここ——」


 言い切る前に、言葉が空を滑った。


 その男——彼は私に近づき、鋭い目つきで一歩、また一歩と近づいてくる。

 羊たちは、少し離れたところで草を食んでいる。


「מי זה!?」

(ミー ゼ!?)


——え……?


 はっきりした発音、でも意味は分からない。

 彼の声は低く、乾いた風に混じるように響いた。


 私は首をかしげるしかなかった。


「え……あ、すみません、日本語しか……」


 彼の眉がぴくりと動いた。

 警戒と敵意が、その表情に色濃く刻まれていく。


「זוזי! תעופי מפה! עכשיו!」

(ズーズィ! タオーフィ ミッポー! アフシャヴ!)


 怒鳴るような声。

 私のすぐ脇に石が落ちる。

 彼は手で追い払うような仕草をしている。


——怖い。逃げなきゃ……


——でも……どこへ?


 立ち上がろうとして、足がもつれ、倒れ込んだ。

 スーツのスカートはすでにほこりまみれ。

 腕には小さな擦り傷。


 私は、手をついて起き上がろうとする。

 膝が震えて立てない。

 恐怖というより、正体の知れない不安が体を支配していた。


 それでも、必死に声を出す。


「ま、待って……っ。わたし、あの、ちが……!」


 彼が腰の剣を構え、再び何かを叫んだ。

 鋭く、断固とした声音。


「את לא שייכת לפה. לכי! עכשיו!」

(アット ロ シャイェヘット レポー. レヒ! アフシャヴ!)


 やはり、言葉はわからない。

 けれど、その表情は明らかな拒絶を示していた。


 深くしかめた眉。

 剣を握る指先にまで力がこもっている。


 私は本能的に、咄嗟に両手を胸の前で合わせる。


「ちがうの……わたし、敵じゃないんです……お願い、信じて、ここにいる理由は……わたしにも分からないんです……」


 涙が込み上げる。


 でも、泣いても仕方がない。

 私は思い出す——昔、取引先へ謝罪に行かされたあの日。

 うまく言葉が出なくて、ただ頭を何度も下げた。


 だから私は、ここでも同じようにした。


 頭を、下げた。


 額が土に触れる。

 痛かった。

 でも、それでよかった。


「ごめんなさい……ほんとに、悪気はなくて……ただ、目が覚めたらここにいて……お願い、殺さないで……」


 涙と土の匂い。

 震える声。

 それでも、必死だった。


 言葉が通じなくても、姿勢だけは伝わってほしい。

 そう、願った。


 ——沈黙。


 彼の足音が止まる。


 頭を上げる勇気はなかった。


 風が吹く。

 擦れ合う草葉の音が耳に優しく触れる。

 羊たちの足音が、かすかに近づいてきた。


——やっぱり、ダメだったかな……また、死んじゃうのかな……


 そう思った、そのとき——。


「את…… לבד?」

(アット……レヴァッド?)


 低く、けれどさっきまでの怒気とは違う音が耳に届いた。


 おそるおそる顔を上げた。


 彼は、剣を構えたまま私を見下ろしていた。

 目はまだ険しかったけれど、その奥にわずか——ほんのわずかだけど、迷いのようなものが見えた、気がした。


 言葉は、わからない。


 でも。


——きっと、わかってくれる……


 そう、感じた。

 彼の迷いに、すがるしかなかった。


「お願い……助けて……」


 胸の前で手を合わせ、もう一度、深く頭を下げた。


 先ほどよりもほんの少しだけ——


彼の怒りが、遠のいていった気がした。

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