第六話 魔球スライダーの洗礼
ベンチに戻ると、手のひらの熱がまだ抜けなかった。初登板の一回を無失点で切り抜けた余韻が、指先の痺れとして残っている。
「悪くない立ち上がりだ、如月」
山根がタオルを肩にかけ、短く言う。言葉少なだが、目は満足そうだ。
「相手、二巡目で間違いなく触りに来る。スライダーを“見切る”準備をしてる」
「分かってる。だから——」
「だから“見切らせない”。トンネルを作る」
山根はベンチの砂に指で線を引いた。外角に一本、内角に一本。
「外スラと外真っ直ぐの“見え始め”を揃える。シュートは同じ軌道から内に寄せる。三本の線を一本に見せて、最後の十センチだけ別々に散らす。できるか?」
「できる」
即答すると、山根の口元に薄い笑みが浮かんだ。
「——二巡目の洗礼、こっちからやるぞ」
相手ベンチのざわつきは、フェンス越しにも伝わってくる。強豪・鳳栄(ほうえい)高校。県内有数の打撃集団。彼らは俺のスライダーを“魔球”と呼ぶより先に、どう攻略するかを冷静に並べているはずだ。俺は帽子の庇を指で軽く整え、再び土のマウンドへ上がった。
◆
五回表。先頭は一番の左打者。初回は手も足も出ずに三振だった。
(外スラ一辺倒は捨てる。まずは外直球で目慣らし)
セットから、七割の力で外へ真っ直ぐ。
——スパッ。
ミットに伸びる音。打者の眉がわずかに動く。二球目、同じ軌道のように見せたスライダー。最後の十センチで逃がす。
「ストライク!」
見逃し。カウントを楽に作る。三球目、今度は“逆”だ。外に見せて——インにシュート。踏み込んだ足元へ食い込ませる。
——コツン。
詰まった打球が三塁前で弾み、篠原が一歩で掴む。一塁へダーツのような送球、アウト。
「よっしゃ一つ!」
内野に軽い安堵が走る。
二番は右の器用屋。前の打席でセーフティを匂わせた選手だ。
(初球バントはケア。クイックで外直球)
投げ急がず、呼吸を合わせて——クイック。外の真っ直ぐに合わせてバントの構えがほどける。二球目、今度は前に出てきた足元へシュート。
バットの根元、ファウル。
「0-2」
山根のミットが外低め、砂粒の上に沈む。三球目、外スラで空を切らせ——
バットは出ず、見逃し。
(我慢してきたな)
四球目、同じ外スラだがもう半個外。誘う。
振らない。フルカウントまで粘られる。
(粘るタイプに正面から真っ直ぐは危険。——見慣れた線をもう一度)
六球目、外直球。ぎりぎりボール。歩かせた。内野が一瞬だけ静まる。
「落ち着け、如月」
山根の声が低く、しかし芯がある。「盗塁の気配、強い」
一塁ランナーが大きく揺さぶる。
(タイム——クイックの刻みを半歩、詰める)
モーションに入る直前の“間”を潰す。牽制を一発、鋭く挟む——戻った。
初球、外直球。ボール。二球目、さらに早いクイックから外スラでストライク。走らない。
(読んでる。三球目、投げ始めのタイミングでスタートが来る)
山根の目が「来るぞ」と言った。
——スタート。
俺は小さく足を引く“スライドステップ”。腰を落として最短距離でボールを前へ押し出す。
「——今!」
山根の送球は一直線。二塁ベースの前で砂が弾け、タッチ。
「アウト!」
観客席がどよめく。鳳栄ベンチから舌打ちが聞こえ、内野に薄い笑い声が波紋のように広がった。
(——クイック、掴めてきた)
胸骨の内側で、違う手応えが一つ灯る。
改めて打者に向き合う。カウントは1-1。三球目、外スラで空振り。四球目、外直球で見せて、五球目は内シュート。
バットが居場所を失い、詰まったゴロが二遊間へ。山根の声に合わせ、二塁・遊撃の連携がカチリと噛み合う。アウト。
五回を零で切った。
◆
ベンチの空気が一段明るい。高城が水を飲みながら、ふと視線を寄越す。
「クイック、さっきの一球で化けたな」
「まだまだ。今のは山根が刺してくれた」
「いや、送球タイムは確かに良かったが、お前の“間”が消えた。苦手を一つ消せば、得意が二つに見える。そういう投球だった」
高城はそれだけ言うと立ち上がり、ベンチ先の柱に肩を預ける。褒め言葉にも見えるが、そこにあるのは“評価”だ。評価の先に、競争がある。
「如月」
山根がタブレットを開き、簡易の球軌道アプリを指で動かす。
「外直球とスライダーの“入口”が五センチずれた。入り口を揃え切れば、三巡目まで見切られない」
「揃えるには?」
「体が開く前、左膝の“返し”を半テンポ遅らせる。肩は開かず、腕だけ走らせる。やりすぎると高めに抜ける。——やれるか?」
「やる」
即答した。答える前に、体のどこを修正するか、イメージが出来ていた。
◆
六回表。三番からの好打順。ここが“洗礼”の本番だ。
三番は長身の右。初回は空振り三振。二打席目は見逃し三振。三度目は、必ずバットを出してくる。
初球、外直球。ストライク。
(二球目、外スラを“入口”同じで)
肩を我慢し、左膝の返しを遅らせ、手元でだけ回転を強く——。
——スパァン。
ミットが鳴る。打者の体が前へ泳いだ。空振り。
「0-2」
山根が珍しく頷くのが見えた。三球目、内シュートで詰まらせ——。
小飛球。篠原が半歩下がって、難なく掴む。
「ワンナウト!」
四番、右の強打者・天草。前の打席、外真っ直ぐを狙ってセンターへライナーを飛ばした男だ。
初球、外直球。空振り。
(二球目、外スラは待ってる。——“前倒し”のスライダー)
俺は同じフォームから、球の出どころだけほんの少し早くし、変化の“始点”を手元に寄せる。
——ズバッ。
天草のバットがボールの下を切る。二球で追い込んだ。
(ここで内に寄せると読まれる。外直球を“見せて”、内のシュートで終わり)
三球目、外直球を高めにハズす。天草の目が外へ滑った瞬間、四球目——内、膝。
シュートが骨に刺さるように食い込み、バットが折れかけの音を立てる。
——カツン。
弱いゴロが投手正面。俺は一歩前に出て、慌てず一塁へ。アウト。
天草はバットの先を見つめ、舌打ち一つ。(打ち取った感触は、こっちの“二段構え”にある)
五番、左のパワー。ここは“洗礼”を叩き込む。
初球、外直球でストライク。二球目、同じ“入口”からのスライダー。見逃し。0-2。
(最後は、同じフォームのシュート。内へ寄せる勇気)
腕を最後まで走らせる。
——ゴンッ。
詰まった打球が三遊間へ転がり、遊撃が前へ。送球、アウト。
鳳栄ベンチから、低い唸りが漏れる。
六回終了。俺の胸は高鳴っているのに、呼吸は静かだ。さっき山根と描いた三本の線が、一本の道に重なり始めている感覚。これは“魔球”の威力ではない。重ねた意図が、最後の十センチで結果になる感触だ。
◆
味方の攻撃。二死から篠原が四球を選び、二盗を決め、七番がセンター前へ転がす。ホーム突入——際どいタイミング、セーフ!
「よし、先制!」
ベンチが総立ちになる。高城も拳を軽く握り、俺の背中を一度だけ押すように叩いた。
(一点。守る。守らせる)
この一点は、ただの数字以上の意味を持つ。投手にとって、味方がくれた一点は、投げる理由を明確にする。
◆
七回表。先頭は八番の左。
初球、外直球。二球目、外スラを見せる。三球目、内シュート。詰まらせた打球は一塁線ふらふらと落ち——内野安打。
(足が速い。次、間違いなく走る)
山根がマスクの奥で目を細める。「刺す準備はできてる。——お前は“投げるタイミング”を壊せ」
頷き、モーションのリズムを崩す。スライドステップと通常のクイック、そして“ノールックの一塁牽制”を一本混ぜる。ランナーの足が硬くなるのを、後頭部で感じる。
打者九番。送りの構え。初球、外高めに外して探る。二球目、内角にシュートをフロントドア気味に入れて、バットを引っ込めさせる。三球目、外スラ。小さく転がしたバントはピッチャー前。
(取って、二塁——いや、待て)
俺は一瞬だけ動きを遅らせ、二塁へ投げるふりだけしてから一塁に送る。ランナーは躊躇して戻っただけ。アウト。
「ワンナウト二塁」
篠原が声を張る。
一番に戻る。ここで一本出れば、相手は勢いに乗る。
初球、外直球を見せる。二球目、外スラに手を出させない。カウントは1-1。
(三球目、前倒しスライダー。見てから振れない速度変化)
肩を残し、腕だけ走らせ——。
——スパアン。
空振り。1-2。
(四球目、内シュートで詰ませるか、外直球で見せて外スラで決めるか——)
山根のミットは外直球、胸の上。
投げる。
打者は読み切ったかのようにファウルで粘る。四球目、五球目、六球目もファウル。
(しぶとい。なら、もう一段)
七球目。外直球を半個高く、強めに。視線を上へ。
八球目——外スライダー。最初の五センチは全く同じ。最後の十センチで斜めに消える。
バットが空を切った。
「スリー!」
ベンチが弾ける。スタンドの保護者席からも拍手が起きる。
二番。ランナー二塁、二死。得点圏。対ピンチ○のスイッチが、自然と入る。
初球、外直球を見せる。二球目、内シュートで詰まらせる。三球目、外スラ——見逃し。1-2。
(最後、もう一つ“見せてから”)
四球目、外直球をギリギリのボールで外す。
五球目、外スラ。振った。
——空振り三振。
マウンド上で右拳を握る。七回を終えてもゼロのまま。客席のざわめきの温度が、目に見えるように上がっていく。
◆
ベンチへ戻ると、藤堂監督が目尻だけを下げて言った。
「如月。あと一回、行けるか」
「行けます」
迷いはない。スタミナの数字はまだ“C+”だが、呼吸は乱れていない。体の芯が燃えていても、揺れていない。
山根がペットボトルを渡しながら、いつもの調子で締める。
「クイック、評価A。今の一回で“武器”になった。最後は低めを徹底。低め低め——下から外へ、外から下へ」
「了解」
◆
八回表。三番から。
初球、外直球。二球目、外スラを見せて、三球目、内シュート。詰まらせて二ゴロ。ワンナウト。
四番・天草。
(ここで長打は絶対避ける。低め徹底)
外直球を膝に、見逃し。二球目、外スラで空振り。0-2。
(最後は——“背中側から入る”後ろスラ)
外に見せた後、同じ初速で手元だけ回転を強め、膝裏を掠めるラインに落とす。
——ブンッ。
空を切る音。三振。天草の表情が初めて歪む。鳳栄ベンチの声が小さくなる。
五番。初球、外直球。二球目、内シュート。三球目、外スラ。
打者は必死のカットでファウルを重ねるが、最後は外スラにバットが届かない。三振。
八回を零で切ったところで、監督がベンチ前に歩み出る。
「——交代だ。十分だ、如月」
その言葉は、肩を軽くするのではなく、背中を押し上げるタイプの称賛だった。ベンチへ戻る途中、鳳栄の三塁コーチが小さく呟くのが聞こえた。
「手元で消える……本当に消えるな、あのスライダー」
“魔球”という言葉が、敵陣の口から初めて漏れた瞬間だった。
◆
試合はそのまま一点を守り切り、勝利。握手の列で天草が俺の手を強めに握る。
「次は、打つ」
「次も、抑える」
短い会話。けれど、互いにちゃんと届いた。
ベンチに戻ると、篠原が吠え、水島が跳ね、玲奈が涙目で拍手していた。高城はいつもの無表情のまま、ただ親指を一度だけ立てる。
「如月」
山根がボールを一個、手渡してくる。今日の最初の三振のボール。
「“入口を揃える”は、今日で体に入った。明日からは“出口を増やす”。球持ち、低め、緩急——やることは多い」
「上等だ」
俺はボールを握り直し、掌の真ん中にその重さを刻み込んだ。
夕暮れ。スタンドの影が長く伸びる。今日、俺は“魔球スライダーの洗礼”を与えた——つもりだった。だが、実のところ洗礼を受けたのは、俺自身かもしれない。
狙いと結果が結びつく感覚。意図が球になる瞬間。
この快感こそ、俺がもう一度、野球に恋をするために必要だったものだ。
現在の能力表(如月 隼人)
球速:135km/h(+1)
コントロール:C+
スタミナ:B−(イニング跨ぎで集中維持が安定)
変化球:スライダー4/シュート3
特殊能力:奪三振◎/対ピンチ○(発動)/キレ○(発動)/打たれ強さ○/逃げ球/クイック○(新)
メモ:外直球と外スライダーの“入口”同期が進む。三巡目対応の兆しあり。
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