第六話 魔球スライダーの洗礼

 ベンチに戻ると、手のひらの熱がまだ抜けなかった。初登板の一回を無失点で切り抜けた余韻が、指先の痺れとして残っている。

 「悪くない立ち上がりだ、如月」

 山根がタオルを肩にかけ、短く言う。言葉少なだが、目は満足そうだ。

 「相手、二巡目で間違いなく触りに来る。スライダーを“見切る”準備をしてる」

 「分かってる。だから——」

 「だから“見切らせない”。トンネルを作る」

 山根はベンチの砂に指で線を引いた。外角に一本、内角に一本。

 「外スラと外真っ直ぐの“見え始め”を揃える。シュートは同じ軌道から内に寄せる。三本の線を一本に見せて、最後の十センチだけ別々に散らす。できるか?」

「できる」

 即答すると、山根の口元に薄い笑みが浮かんだ。

 「——二巡目の洗礼、こっちからやるぞ」


 相手ベンチのざわつきは、フェンス越しにも伝わってくる。強豪・鳳栄(ほうえい)高校。県内有数の打撃集団。彼らは俺のスライダーを“魔球”と呼ぶより先に、どう攻略するかを冷静に並べているはずだ。俺は帽子の庇を指で軽く整え、再び土のマウンドへ上がった。



 五回表。先頭は一番の左打者。初回は手も足も出ずに三振だった。

 (外スラ一辺倒は捨てる。まずは外直球で目慣らし)

 セットから、七割の力で外へ真っ直ぐ。

 ——スパッ。

 ミットに伸びる音。打者の眉がわずかに動く。二球目、同じ軌道のように見せたスライダー。最後の十センチで逃がす。

 「ストライク!」

 見逃し。カウントを楽に作る。三球目、今度は“逆”だ。外に見せて——インにシュート。踏み込んだ足元へ食い込ませる。

 ——コツン。

 詰まった打球が三塁前で弾み、篠原が一歩で掴む。一塁へダーツのような送球、アウト。

 「よっしゃ一つ!」

 内野に軽い安堵が走る。


 二番は右の器用屋。前の打席でセーフティを匂わせた選手だ。

 (初球バントはケア。クイックで外直球)

 投げ急がず、呼吸を合わせて——クイック。外の真っ直ぐに合わせてバントの構えがほどける。二球目、今度は前に出てきた足元へシュート。

 バットの根元、ファウル。

 「0-2」

 山根のミットが外低め、砂粒の上に沈む。三球目、外スラで空を切らせ——

 バットは出ず、見逃し。

 (我慢してきたな)

 四球目、同じ外スラだがもう半個外。誘う。

 振らない。フルカウントまで粘られる。

 (粘るタイプに正面から真っ直ぐは危険。——見慣れた線をもう一度)

 六球目、外直球。ぎりぎりボール。歩かせた。内野が一瞬だけ静まる。

 「落ち着け、如月」

 山根の声が低く、しかし芯がある。「盗塁の気配、強い」


 一塁ランナーが大きく揺さぶる。

 (タイム——クイックの刻みを半歩、詰める)

 モーションに入る直前の“間”を潰す。牽制を一発、鋭く挟む——戻った。

 初球、外直球。ボール。二球目、さらに早いクイックから外スラでストライク。走らない。

 (読んでる。三球目、投げ始めのタイミングでスタートが来る)

 山根の目が「来るぞ」と言った。

 ——スタート。

 俺は小さく足を引く“スライドステップ”。腰を落として最短距離でボールを前へ押し出す。

 「——今!」

 山根の送球は一直線。二塁ベースの前で砂が弾け、タッチ。

 「アウト!」

 観客席がどよめく。鳳栄ベンチから舌打ちが聞こえ、内野に薄い笑い声が波紋のように広がった。

 (——クイック、掴めてきた)

 胸骨の内側で、違う手応えが一つ灯る。


 改めて打者に向き合う。カウントは1-1。三球目、外スラで空振り。四球目、外直球で見せて、五球目は内シュート。

 バットが居場所を失い、詰まったゴロが二遊間へ。山根の声に合わせ、二塁・遊撃の連携がカチリと噛み合う。アウト。

 五回を零で切った。



 ベンチの空気が一段明るい。高城が水を飲みながら、ふと視線を寄越す。

 「クイック、さっきの一球で化けたな」

 「まだまだ。今のは山根が刺してくれた」

 「いや、送球タイムは確かに良かったが、お前の“間”が消えた。苦手を一つ消せば、得意が二つに見える。そういう投球だった」

 高城はそれだけ言うと立ち上がり、ベンチ先の柱に肩を預ける。褒め言葉にも見えるが、そこにあるのは“評価”だ。評価の先に、競争がある。


 「如月」

 山根がタブレットを開き、簡易の球軌道アプリを指で動かす。

 「外直球とスライダーの“入口”が五センチずれた。入り口を揃え切れば、三巡目まで見切られない」

 「揃えるには?」

「体が開く前、左膝の“返し”を半テンポ遅らせる。肩は開かず、腕だけ走らせる。やりすぎると高めに抜ける。——やれるか?」

 「やる」

 即答した。答える前に、体のどこを修正するか、イメージが出来ていた。



 六回表。三番からの好打順。ここが“洗礼”の本番だ。

 三番は長身の右。初回は空振り三振。二打席目は見逃し三振。三度目は、必ずバットを出してくる。

 初球、外直球。ストライク。

 (二球目、外スラを“入口”同じで)

 肩を我慢し、左膝の返しを遅らせ、手元でだけ回転を強く——。

 ——スパァン。

 ミットが鳴る。打者の体が前へ泳いだ。空振り。

 「0-2」

 山根が珍しく頷くのが見えた。三球目、内シュートで詰まらせ——。

 小飛球。篠原が半歩下がって、難なく掴む。

 「ワンナウト!」


 四番、右の強打者・天草。前の打席、外真っ直ぐを狙ってセンターへライナーを飛ばした男だ。

 初球、外直球。空振り。

 (二球目、外スラは待ってる。——“前倒し”のスライダー)

 俺は同じフォームから、球の出どころだけほんの少し早くし、変化の“始点”を手元に寄せる。

 ——ズバッ。

 天草のバットがボールの下を切る。二球で追い込んだ。

 (ここで内に寄せると読まれる。外直球を“見せて”、内のシュートで終わり)

 三球目、外直球を高めにハズす。天草の目が外へ滑った瞬間、四球目——内、膝。

 シュートが骨に刺さるように食い込み、バットが折れかけの音を立てる。

 ——カツン。

 弱いゴロが投手正面。俺は一歩前に出て、慌てず一塁へ。アウト。

 天草はバットの先を見つめ、舌打ち一つ。(打ち取った感触は、こっちの“二段構え”にある)


 五番、左のパワー。ここは“洗礼”を叩き込む。

 初球、外直球でストライク。二球目、同じ“入口”からのスライダー。見逃し。0-2。

 (最後は、同じフォームのシュート。内へ寄せる勇気)

 腕を最後まで走らせる。

 ——ゴンッ。

 詰まった打球が三遊間へ転がり、遊撃が前へ。送球、アウト。

 鳳栄ベンチから、低い唸りが漏れる。


 六回終了。俺の胸は高鳴っているのに、呼吸は静かだ。さっき山根と描いた三本の線が、一本の道に重なり始めている感覚。これは“魔球”の威力ではない。重ねた意図が、最後の十センチで結果になる感触だ。



 味方の攻撃。二死から篠原が四球を選び、二盗を決め、七番がセンター前へ転がす。ホーム突入——際どいタイミング、セーフ!

 「よし、先制!」

 ベンチが総立ちになる。高城も拳を軽く握り、俺の背中を一度だけ押すように叩いた。

 (一点。守る。守らせる)

 この一点は、ただの数字以上の意味を持つ。投手にとって、味方がくれた一点は、投げる理由を明確にする。



 七回表。先頭は八番の左。

 初球、外直球。二球目、外スラを見せる。三球目、内シュート。詰まらせた打球は一塁線ふらふらと落ち——内野安打。

 (足が速い。次、間違いなく走る)

 山根がマスクの奥で目を細める。「刺す準備はできてる。——お前は“投げるタイミング”を壊せ」

 頷き、モーションのリズムを崩す。スライドステップと通常のクイック、そして“ノールックの一塁牽制”を一本混ぜる。ランナーの足が硬くなるのを、後頭部で感じる。

 打者九番。送りの構え。初球、外高めに外して探る。二球目、内角にシュートをフロントドア気味に入れて、バットを引っ込めさせる。三球目、外スラ。小さく転がしたバントはピッチャー前。

 (取って、二塁——いや、待て)

 俺は一瞬だけ動きを遅らせ、二塁へ投げるふりだけしてから一塁に送る。ランナーは躊躇して戻っただけ。アウト。

 「ワンナウト二塁」

 篠原が声を張る。


 一番に戻る。ここで一本出れば、相手は勢いに乗る。

 初球、外直球を見せる。二球目、外スラに手を出させない。カウントは1-1。

 (三球目、前倒しスライダー。見てから振れない速度変化)

 肩を残し、腕だけ走らせ——。

——スパアン。

 空振り。1-2。

 (四球目、内シュートで詰ませるか、外直球で見せて外スラで決めるか——)

 山根のミットは外直球、胸の上。

 投げる。

 打者は読み切ったかのようにファウルで粘る。四球目、五球目、六球目もファウル。

 (しぶとい。なら、もう一段)

 七球目。外直球を半個高く、強めに。視線を上へ。

 八球目——外スライダー。最初の五センチは全く同じ。最後の十センチで斜めに消える。

 バットが空を切った。

 「スリー!」

 ベンチが弾ける。スタンドの保護者席からも拍手が起きる。


 二番。ランナー二塁、二死。得点圏。対ピンチ○のスイッチが、自然と入る。

 初球、外直球を見せる。二球目、内シュートで詰まらせる。三球目、外スラ——見逃し。1-2。

 (最後、もう一つ“見せてから”)

 四球目、外直球をギリギリのボールで外す。

 五球目、外スラ。振った。

 ——空振り三振。

 マウンド上で右拳を握る。七回を終えてもゼロのまま。客席のざわめきの温度が、目に見えるように上がっていく。



 ベンチへ戻ると、藤堂監督が目尻だけを下げて言った。

 「如月。あと一回、行けるか」

 「行けます」

 迷いはない。スタミナの数字はまだ“C+”だが、呼吸は乱れていない。体の芯が燃えていても、揺れていない。


 山根がペットボトルを渡しながら、いつもの調子で締める。

 「クイック、評価A。今の一回で“武器”になった。最後は低めを徹底。低め低め——下から外へ、外から下へ」

 「了解」



 八回表。三番から。

 初球、外直球。二球目、外スラを見せて、三球目、内シュート。詰まらせて二ゴロ。ワンナウト。

 四番・天草。

 (ここで長打は絶対避ける。低め徹底)

 外直球を膝に、見逃し。二球目、外スラで空振り。0-2。

 (最後は——“背中側から入る”後ろスラ)

 外に見せた後、同じ初速で手元だけ回転を強め、膝裏を掠めるラインに落とす。

 ——ブンッ。

 空を切る音。三振。天草の表情が初めて歪む。鳳栄ベンチの声が小さくなる。


 五番。初球、外直球。二球目、内シュート。三球目、外スラ。

 打者は必死のカットでファウルを重ねるが、最後は外スラにバットが届かない。三振。

 八回を零で切ったところで、監督がベンチ前に歩み出る。

 「——交代だ。十分だ、如月」


 その言葉は、肩を軽くするのではなく、背中を押し上げるタイプの称賛だった。ベンチへ戻る途中、鳳栄の三塁コーチが小さく呟くのが聞こえた。

 「手元で消える……本当に消えるな、あのスライダー」

 “魔球”という言葉が、敵陣の口から初めて漏れた瞬間だった。



 試合はそのまま一点を守り切り、勝利。握手の列で天草が俺の手を強めに握る。

 「次は、打つ」

 「次も、抑える」

 短い会話。けれど、互いにちゃんと届いた。


 ベンチに戻ると、篠原が吠え、水島が跳ね、玲奈が涙目で拍手していた。高城はいつもの無表情のまま、ただ親指を一度だけ立てる。

 「如月」

 山根がボールを一個、手渡してくる。今日の最初の三振のボール。

 「“入口を揃える”は、今日で体に入った。明日からは“出口を増やす”。球持ち、低め、緩急——やることは多い」

 「上等だ」

 俺はボールを握り直し、掌の真ん中にその重さを刻み込んだ。


 夕暮れ。スタンドの影が長く伸びる。今日、俺は“魔球スライダーの洗礼”を与えた——つもりだった。だが、実のところ洗礼を受けたのは、俺自身かもしれない。

 狙いと結果が結びつく感覚。意図が球になる瞬間。

 この快感こそ、俺がもう一度、野球に恋をするために必要だったものだ。


現在の能力表(如月 隼人)


球速:135km/h(+1)


コントロール:C+


スタミナ:B−(イニング跨ぎで集中維持が安定)


変化球:スライダー4/シュート3


特殊能力:奪三振◎/対ピンチ○(発動)/キレ○(発動)/打たれ強さ○/逃げ球/クイック○(新)


メモ:外直球と外スライダーの“入口”同期が進む。三巡目対応の兆しあり。

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