砂上の楼閣

 ファミリーレストラン『ファメリア』――いつでも食べたいときに食べられることをモットーとしているが、その利便性と引き換えに、価格帯としては決して安くはない。だが、生活が昼夜逆転している人たちには大変重宝されていた。

 彼女たちもまた、そんな夜型生活を送っている一団である。

「いらっしゃいませー……って、あ」

 深夜のファメリアに連れ立って入ってきたのは――花梨、美春、そしてあやのだった。そんな三人を、紅葉は気まずそうに迎える。彼女は、紺を基調とした夜カフェ風の制服に身を包んでいた。襟元と袖に白いラインが入ったシャツに、黒のシンプルなエプロン、胸元にはファメリアのロゴがさりげなく刺繍されている。ややゆとりのあるシルエットで、動きやすさを重視したデザインだ。

 このような形で顔見知りと出会うことに慣れていない紅葉は、マニュアルに徹しきれていない。しかし、花梨はそんな紅葉に、驚きながらもどこか嬉しそうだ。

「あ、楓さん、ここで働いてたんだー……!」

 はしゃぐ花梨に、紅葉は照れながら困ったように顔を歪める。

「こ、ここでは霧島って呼んでほしいかな……」

 そう言った矢先、厨房の方からスタッフの深見が声をかけてくる。

「楓さーん、さっきのお客さんの……っと」

 接客中と気づくと、深見は気を利かせて奥へと引っ込んでいった。そして、少しだけ流れる沈黙。

「いま、楓さん、って……」

 あやのから指摘に、紅葉は苦笑するしかない。

「……それについては、迂闊だった、というか……」

 さて。

 思えば、今年に入ってからコンビニの深夜シフトはほとんどオーナーとふたりだった。二十四時間営業の廃止を見通してのことだったのだろう。池上から『深夜営業をやめるらしい』と聞かされた直後、オーナーから正式に通告があった。『二月いっぱいで深夜営業を終了する』と。その際に、『今後どうするか』と問われた紅葉は、『辞めます』と即答した。

 そこから先は――紅葉の中でも、うっすらと考えていたことだったのかもしれない。それは、花梨から可能性を提案されたときから。紅葉はすぐさまリリザに『住み込みさせてもらえないか』と打診する。すると、条件付きで了承を得た。次回以降のライブの準備など、雑務を手伝ってもらえるのなら――その程度、紅葉には条件のうちにも入らない。しかも、家賃は不要。だからといって、喜び勇んで現在の南千住の住まいを引き払うのはいささか危うい。だが、もしこの生活が軌道に乗るようなら――生活は一気に楽になるだろう。

 同時に、紅葉は新たなバイト先として、このファミレスを選んだ。これまで様々な業種を転々としてきた彼女にとって、この手の仕事は慣れている。店側からも歓迎ムードだった。ただし、それはいつだって最初だけだと紅葉は知っている。そもそも、彼女は接客業に向いていない。それは、度重なる解雇をもって重々承知している。そしたら、また別の仕事を探すことになるのだろう。だが、ここは新歌舞伎町である。求人数は地元の比ではない。それだけは、少し気が楽だった。

 最初は気づかれずに働けるかと思っていたが――やはり、新歌舞伎町である。不覚にも、顔は知られていたらしい。たとえ、ストリップを観に来るような客だとしても、紅葉の芸名――『楓』を覚えてくれていた。これには複雑な思いが胸を過る。心の奥では『やっぱりこの街の男は下衆ばかりか』と鼻白んだが――相手は“客”である。それも、ダンサーとしての。会場の外であっても最低限の“営業スマイル”くらいは必要かもしれない。

 だが、同時に――これは、いよいよ脱げる立場ではなくなったな――やれやれと内心で肩をすくめつつも、どこか誇らしくもあった。自分のダンスを観たうえで『楓』と呼んでくれる――その事実が、心の奥で小さな炎が燻っていることも否めない。

 こんな複雑な労働環境はこれまでなかった。ゆえに、紅葉自身、いまだ慣れているとはいい難い。それでも紅葉は、ひとまずウェイトレスとして三人を客席に案内する。知人を接客するというのも、何ともむず痒い気分だ。店内はちょうど終電を控えた時間帯で、街から人が出ていく流れの中、ファミレスはひとときの静寂を取り戻しつつある。だが、やがて終電に間に合わなかった人々が仮宿を求めて引き返してくるのだろう。

「皆さん、終電は大丈夫なんです?」

 三人を奥のボックス席に通したところで紅葉が問いかけると、奥に座った花梨が軽く手を振った。

「まあ、一時間くらいのつもりだし」

 お前は車だから終電関係ないだろ、と紅葉は内心でツッコんだが、花梨のこういうところも慣れたもので、表情は変えずににこやかなまま流す。今日もどうせ、彼女の奢りなのだろう。その気前の良さには相変わらず感服するが――こんな終電直前の時間帯に入ってきたのは、案外、あまり長時間居座るとアレコレ頼んで出費が嵩むから、というのを気にしてのことかもしれない。

 そして、そんな花梨たちがここへ訪れたのは――やはり、ステージについて話し合うためか。

「次は、あやのさんと美春さんですよね」

『ハロクド・オーディション』に落選してしまったふたりの番が今度こそ回ってくる。ダンスの実力だけなら、ふたりともわずかに上だっただけに――だからこそ、心から応援したい。紅葉が水を向けると、あやのが嬉しそうにうなずく。

「はい、今度はリリザさんがチーフを務めてくれるそうでして……」

 その言葉に、紅葉の中にほのかな同情が湧いた。もしハロクドが乱入しなければ、あやのが中心となり、自分の理想とするステージを作り上げていただろう。だが、リリザがチーフとなれば、自由は利かない。

 リリザは穏やかだが、その分、理想の演出をきっちり実現させるためには妥協を許さない性格でもある。せっかくあやのが作ったエアロビ振り付けにも“別物”といえるほどの手が入るかもしれない。

 ――と思ったが。

「リリザさんは、やっぱりすごいですね。『夜明けまで』にエアロビを合わせるなんて」

 あやのが感嘆の声に、紅葉はきょとんとする。

「え? 『夜明けまで』って……古竹ふるたけ未兎みとの?」

『夜明けまで』――正式名称は『夜明けまでに終わらせて』――それは、静かで物憂げな空気を湛えたバラードだった――と紅葉は記憶している。そんな曲にエアロビのような軽快で陽気な振り付けを組み合わせるのは、どうにも違和感がある。

「まあ、コンニャンしたあとにまたポップな振り付けが続いちゃったら、お客さん、『またか~』ってなりますしね~」

 隣で花梨がにこやかに言う。その口調は軽やかだが、内容はなるほどもっともだった。

 加えて――と、紅葉は密かに思う。それは、リリザの趣味でもあるのだろう。前回のステージを見たときから感じていたが、彼女は明るく賑やかな演出よりも、陰影のある、静かな舞台を好むようだったから。

「で、その打ち合わせを、さっきまでしてたんだよ~」

 花梨のひと言に、紅葉はハッとする。

「どこで? 今日のライブは?」

 その口ぶりは、これまでノクターンで話していたかのようである。が、この時間帯なら、どこかのバンドが入っていてもおかしくないはずだ。

 これに、美春が簡潔に答える。

「ドタキャン」

 紅葉にとってはそれだけで充分だったが――いささか印象が悪いのを気にしたのか、花梨が申し訳なさそうに補足する。

「『カモメ団地』さんが……雪で茨城から出られなくなっちゃったみたいで」

「……そう」

 不運だったな、と同情は禁じ得ない。だが、その直後には別の感情が湧いてくる。

「けど、そんなことなら、私も練習したかったな」

 せっかくライブハウスが空いていたのである。今日はバイトを入れてしまっていたが、こんなことをしている場合ではなかったのかもしれない。

「次は、楓さんの出番だもんねっ」

 花梨が明るく言う。だが、その言葉に紅葉は少し困ったように眉を寄せた。

 そう、次の出番は楓――つまり紅葉自身である。だが、このローテーションだと、どうやらまた新月とスピィと組むことになりそうだ。新月のやり方――それがストリップの本質に沿っていることは、紅葉にも理解している。だが、どうしても気持ちがついていかない。心の奥で、拒むような違和感が拭えなかった。

 メンバーを交代してもらうことを考えたこともある。だが、直近でステージに立ったばかりになるであろうあやのや美春には頼みにくい。ハロクドは姿が見えたり消えたりの気まぐれで、アテにならない。カリンとピーチはどちらもエロス要員である。

 だったら。

「……カリンさん、次、私と一緒に出てみません?」

 紅葉はふと言ってみる。同じエロスなら、新月よりは花梨の方が合わせやすそうだ。

 しかし。

「いやいやっ、出番取っちゃマズイよー」

 花梨は手を振って否定する。その返事はまさに予想どおり。彼女なら、そう言うだろうと紅葉は思っていた。

「じゃあ、今日はどうして練習に?」

 やや問い詰めるような口調になってしまったかもしれない。だが、それは素直な疑問でもあった。ステージに立つ気がないのなら、なぜ練習に来るのか。花梨とて、当然出たい気持ちはあるはずだ。だがそれを正面から主張するのではなく――

「せっかくなら……もっとうまくなりたいし」

 花梨は、そう言って屈託なく笑う。その表情を見て、紅葉は胸の奥にふっと温かさが広がるのを感じた。自分と同じように、真摯にダンスと向き合っている人がここにもいる。それが、なんとも言えず嬉しかった。


 さて。

 どうやら美春はあやのの通うジムで練習しているらしい。ファメリアでの打ち合わせの後も、紅葉はふたりと会うことはなかった。ただ、花梨はライブハウスとジムの両方を行き来しているようで『なんか、カッコイイ感じになってたよ~』という、漠然としすぎて何の参考にもならない話だけは紅葉も聞いている。なお、一緒にリリザの姿は見ていない、とのこと。あの人は、基本的にデスクで事務をしている姿くらいしか見ない。一体、いつ練習しているのか――というより、普段どんな生活をしているのか――共に住み込んでいる紅葉ですら知らないのだから恐れ入る。だが、あの実力ならば、きちんとどこかで練習しているのだろう。紅葉は何の心配もしていない。

 そして、火曜日――紅葉は、いつもこの曜日にはファミレスのシフトを入れないようにしている。急に出番が回ってくる可能性があるから、ライブハウスで念のために待機しておきたい。それに、他のメンバーのステージを観ておくことも貴重な勉強になる。

 そして、今日も案の定、夜野オーナーは来ていない。顔を出せば不愉快、来なければ来ないでやる気のなさにまた不愉快。紅葉はそんな男の存在そのものに苛立たずにはいられなかった。

 一方、ステージの出来は、予想以上だったといえる。

 古竹未兎の『夜明けまでに終わらせて』――静謐で内省的なバラード。その旋律に、まさかエアロビの動きが融合するとは。にもかかわらず、不思議と違和感なく馴染んでいる。それはリリザの演出手腕に他ならない。エアロビといえばアップテンポ、という先入観があったが、スローで動くのもまた異なる筋肉を使うのだろう。憂いを含んだ所作と間合いがポップな軽やかさを抑え込み、エアロビというよりもコンテンポラリーのような重厚感を漂わせていた。あやのは当然としても、リリザもきっちりその振り付けをこなしているのだから、何気にフィジカルにも優れているのかもしれない。一方、美春はふたりと比べて、ところどころで腕や腿の上下が簡略化されてされている。どうやらラクなアレンジになっているようだ。やはり普通の初心者には、筋力的にふたりの動きについていくことは難しいのだろう。

 衣装はヒラヒラとしたロングドレス。エアロビの雰囲気など微塵も感じさせない。だが、あやのは満足そうな顔をしていた。なるほど、演出的には成功しているのだろう。

 ただ、美春の表情は終始淡々としている。まるで、任務をこなすような演技。紅葉はその無感情な舞台に、少しだけ引っかかっていた。

 なお、寸劇パートは――どうやら舞踏会で、王子様と引き裂かれる、という内容らしい。またバッドエンドかよ、と紅葉はやりきれない後味の悪さを抱く。あと、どんだけ王子様好きなの、とも。そのクセ、ハッピーエンドにはしないのだから、リリザの趣味もかなり偏っている。

 ちなみに、脱衣パートは王子様にひとりずつ肉薄していくも、結局はひとりずつ引き離され、脱がされる、というもの。リリザの脱ぎっぷりはやはり迫真だが――美春もたしかに、それっぽく溜めを作ったりしながら脱いでいる。が、どこか無機質で、芝居から切り離されているように感じられた。それでも男たちは裸になれば喜びの声を上げるのだから、本当に何でもいいのだな、と紅葉は呆れる。逆にあやのは、いつものおどおどっぷりを見せながらも、妙に嬉しそうだ。さり気なく力を込めて腕や胸を隆起させたり。だが、おそらく、今日の彼女の筋肉を褒めるコメントはないのだろう。そのとき、あやのと気持ちを一部共有できるかもしれない――などと、紅葉は淡く、そして不毛な期待を抱いていた。


 さて、紅葉が火曜日にシフトを入れないのは、代役を狙っているから以外にも――次週の出演者は、その日の公演が終わると同時に確定される。ゆえに――裸の幕が下りた瞬間から紅葉の勝負が始まるのだ。

 実のところ――紅葉の中で、前回のステージで受けたある種の敗北感が未だこびりついている。新月のエロティックな演出に、すべてを持っていかれたこと――同じステージに立っているのに、中心を持っていかれてしまった――それが悔しかった。

 ならば、自分も寄せてみよう――紅葉が出した答えは『サンバ』――際どい水着姿で、激しく腰を振る。男たちにはそうしたビジュアルが刺さるはずだ。

 実は、サンプルはすでに用意してある。新月とスピィの嗜好については、前回のステージで把握していた。それでも――もし断られたらどうしよう――紅葉には、自分の進言が拒まれるイメージしか沸かない。数々のオーディション、数々のバイトで断られ、打ち切られ――自分の善意がことごとく踏みにじられ続ける絶望感――すでに、何が正しく、何が間違っているのかもわからない。ただひとつ、自分のダンスだけは、自分の中の正しさ、自分が信じる美しさを追求してきたつもりだ。そして、今回のダンスサンプルについても。

 だが。

 批判はいつだって自分の意図しないところから飛んでくる。当然だ。自分で予見しうる欠点はすべて事前に排している。それでもなお否定されるのだから――送信ボタンをタップした後も、紅葉は動画のことが気になって仕方がない。これが花梨ならすぐに反応があるだろうが、ふたりにそれは期待しすぎというものだろう。紅葉はライブハウスとは別に、個人の動画サイト『Red Hand Moving』にアップするための別のダンスについても日々検討・着手している。相変わらず、そちらの登録者数にこれといった反応はないが、定期的に上げ続けることが肝要だと紅葉は信じている。

 次回のステージの提案はした。が、受け入れられる保証はない。そう考えれば、いまはサンバより個人サイト用の練習を確実に進めるべきだ。が、次のステージが気になって練習にも身が入らない。どこまでも中途半端で半信半疑――きっと、布団に入っても眠れないだろう。

 そんなときは――走るしかない。基礎体力は何に対しても重要である。新宿には、その雑多な街並みには似つかわしくない広い緑の公園があり――その周りをぐるりと回って――三〇分間、ずっと例の『サンバ』のことを考えていた。送った動画は前日に撮ったものなので、ところどころ変更したいところもある。それに、寸劇を考えるのは新月だ。これではやりにくい、と振り付け以前のところで躓いたらどうしよう――というか、新月も新月ですでにまったく違うテーマで脚本に着手しているかもしれない。まだ見ぬ反論に対してどう対応するか――そんなことばかり頭の中を延々と巡り続ける。

 そして、ライブハウスに戻ってきたとき――走っている最中は気づかなかったが、すでにふたりからの返信は来ていたようだ。

『めっちゃセクシー! これでいきまっしょ!』

『衣装を脱ぐのが楽しみです』

 ――はぁ~……と一気に脱力したのも束の間、逆流してきたようにやる気が漲ってくる。良かった……これで進めていいんだ……!

 細かく調整したいところはまだまだある。紅葉は自分で振り付けを撮り直すたびに、希望と不安が入り交じる。これでいいのか――もっと良いシルエットがあるのではないか――自分の持てるすべての感性を注ぎ込み、ダンスのクウォリティを上げていく。

 それに並行して、新月は脚本を。サンバの明るさとテンションを生かし、『密林に捕らえられた三人の脱出劇』というアイデアを出してきた。ストーリーは――ジャングルの奥地、原住民に捕らえられた三人のダンサー。脱出を試みるも、成功したのは紅葉だけ。新月とスピィは再び捕まり、第三パートの『儀式』へ……という流れだ。これに、紅葉が何か意見を挟む余地はない。スピィもまた同様だろう。

 会場の自由な使用が許される午前中、紅葉たちは練習を重ねていった。動線確認、タイミング、脱出の演技。熱のこもったリハーサルの末――これなら、前回を超えられる――紅葉は確信していた。

 そして、やってくる本番――珍しく夜野は会場にいたが、その目は紅葉ではなく、新月ばかりを追っている。……やはり不愉快だ、と紅葉は心中で毒づくが、自分がジロジロ見られても不愉快だ。ヤツは私を不愉快にさせることしかできないらしい――紅葉とて、このライブハウスのオーナーゆえに一定の敬意は持っているが、それ以上の感謝は難しそうだ。

 そんな視線を振り切るように、紅葉はダンスに集中する。前半戦――サンバのリズムに乗ったダンスが披露された。大胆な水着に包まれた身体が、音に合わせて跳ね、揺れ、舞う。水着はラメ入りのターコイズブルーで、胸元には金の装飾があしらわれていた。ヒップには羽飾りのような布が付き、照明の色できらきらと揺れる。観客たちの盛り上がりも、まるで南国かのように熱く、力強い。

 そして、後半戦――ここまでの陽気な展開から一転した緊迫感。この切り替えはうまく伝わったと紅葉は思う。そして、台本通りに三人が袖に捌けたところで――紅葉は思わず目を疑った。新月とスピィがそのままズルリと――水着を脱ぎだしたのである。えっ、これからまさにストリップを始めるというときに――!? 状況を受け止める間もなく、紅葉はさらに驚かされた。水着を脱いだのに、脱いでいない――どういうこと?

 その答えは――ボディペイント――!! ふたりは水着の中に地肌への彩色を仕込んでいたのである。

 脱いだはずなのに、脱いでいない――一見脱いでいないようだが、実は脱いでいる――そんな騙し絵のような光景に呆然としている紅葉をよそに、ふたりは小走りでステージへと戻っていく。

 踊り娘たちを迎えた観客たちも、まさに紅葉と同じような顔をしていた。最初は『水着のまま?』『何しに袖に戻ったの?』――そう訝しんでいたようだが――じきに、肌の上に直接描かれた色彩と、現実の布地ではあり得ない細やかな凹凸に気づいて、会場にはふわりとした熱気が広がっていく。

 そのまま前半のダンスをもう一度なぞるように披露し――終盤では、身体に貼り付いていた膜を、ペリペリと剥がし始める。……ああ、あの絵の具ってクレンジングじゃなくて、ああやって剥がせるんだー――紅葉はどうでもいい知識をひとつ得てしまったような気分だった。

 しかし何より、これは紅葉にとって歓迎できる事態ではない。同じ振り付けで踊っていたにも関わらず、自分がいないほうが盛り上がっていたのだから。

 けれど、比較演出としては成功している。客の反応も上々だ。前代未聞のペイント・ストリップ――これで良かったのだろう――紅葉は、そう思っていた。コメントを見るまでは。

 わずかな期待を込めて、公式サイトの掲示板を開く。前回は酷い有様だったが、今回は……何しろ、脱衣パートでも踊っていたのだ。少しはダンスに言及する人がいてもいいはず。

 投稿数自体は前回より多い。だが、その内容に、紅葉は言葉を失った。

『メインパート直前で、楓ちゃんが逃げ出したところで絶望した』

 ……は?

『同意』のレスが次々と並ぶ。ふざけんな、何がメインだ、何が絶望だ――と紅葉はモニタの前で小さく舌打ちする。この文脈で『逃げた』といわれると、劇としての演技ではなく、本当に逃亡したかのようではないか。

 そのうえ。

『焦らし演出じゃない?』

『事務所の都合とか?』

『ぶっちゃけ、自信ないんじゃないの?』

 どれもこれも、怒りを誘う推論ばかり。冗談じゃない。最初からしっかり観てくれ、と叫びたくなる。

 そのうえ、肝心のダンスについての言及は驚くほど少なく、しかも――

『まあ、我々は新月ちゃんの××××を愛でればいいじゃないか!』

 ……結局そこしかないのかよ――苛立ちと呆れ、そしてどこにも届かない虚しさが胸の奥からこみ上げてくる。誰のためにステージに立っているのか――その問いはあまりに重く、自分の中では答えが出ない。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、紅葉は寝袋に潜り込んだ。自宅から持ち込んだものだが、寝心地は悪くない。起きたら今日のライブの手伝いがある――どこのバンドだったか――まあ、どうでもいいけど。意識を切り替えようにも、寝苦しい。……ああ、やはり、感想なんて見るもんじゃないか――紅葉の中で、この舞台で踊る意味が揺らぎつつあった。


 その翌日――

 スタッフも観客もいないひっそりとしたステージ。夜も更け、時刻はとっくに日付を跨いでいた。だが、紅葉たちはまだ練習を続けている。

「今日も朝までやりますか?」

 紅葉が汗を拭いながら問いかける。

「うん、もっと上手く脱げるようになりたいからね」

 そんな花梨の答えに――そこは、上手く“踊れるように”と言ってほしいところだけれど、と苦笑する。だが、それがこの場所における現実でもあった。

 ローテーションに変更がなければ、次はカリンが出演する番である。そのとき、リーダーはハロクドか、それとも――少なくとも、自分はないだろう、と紅葉自身わかっていた。リリザか、それとも――

 ふと今日の参加者の顔ぶれを眺める。花梨の他には――美春がいた。順序としては、まず、カリンとピーチ、そしてもうひとりを、仮に美春かあやののいずれかから選ぶとすれば――その座を、美春は狙っているのかもしれない。何故ならば――自分で振り付けを考えられるくらいの心得はあるはずのあやのが、ほぼ初心者の花梨や美春に“肉薄された”という現実――本人の言うとおり、体育の成績は『1』か『2』ばかりだったのだろう。そこには、いかに筋肉を増やしても覆せないリズム感というか、要領というか、そういったセンスが絡んでくる。勝算あり――美春はそう踏んでいるのかもしれない。あやのにとってエアロビは得意種目だったのだろう。だが、立て続けに二度も採用するわけにはいかない。

「カリンさん、次のステージってどんなテーマです?」

 それは、ダンサーとして純粋に興味があった。その問いに、花梨が少し口を開きかけたが、言いづらそうに目を伏せる。

「でも……夜野さんが」

「オーナーが?」

 紅葉が聞き返すと、美春が代わって答える。

「来週のストリップ・ライブのことは……考えなくていい、と」

 その言葉には、落胆というより失望の色が強くにじんでいる。真剣に生活が困窮している美春にとって、これはまさに死活問題だ。

「えっ、どうして!?」

 紅葉が驚いて問い返すと、花梨は申し訳なさそうに肩を落とす。

「なんか……あんまり“伸びてない”みたいで……」

 会場はあんなに盛り上がっていたのに……。それでも足りなければ、どれだけ客を集めろというのか。

 そんな不信感を抱く紅葉よりも、美春の怒りはさらに大きい。

「役立たずなのよ、あのオーナー」

 不快感を吐き捨てる。その口調には苛立ちと、何かを諦めたような乾いた響きがあった。

「ちょっ、美春さん……っ」

 中傷じみた罵倒を、花梨は慌てて止めようとする。ここはいつ夜野が入ってきてもおかしくない場所だ。しかし、美春は止まらない。

「私たちがステージに立ってあれだけ身体張ってるのに。売り方が悪い。宣伝も踊り娘任せで、やる気が感じられない」

 その言葉に、紅葉は何も言い返せなかった。自分はダンスチーフを任されながら、宣伝どころか、そもそも脱いですらいない。“ストリップ”という興行を盛り上げるために貢献しているとはいい難かった。

 美春は、申し訳なさそうな紅葉の沈黙に気づいたのだろう。少しだけ皮肉な笑みを浮かべながら、やや口調を和らげる。

「別に、あなたひとりでどうこうしても変わるもんじゃないから。……気にしないで」

 おそらくは気遣いのつもりだったのだろう。だが紅葉には、それがまるで“あなたは無力でしょう”と告げられているように響いた。美春の言に反論の余地はない。それでも、言葉の端々に感じる“見下し”に、紅葉の胸はざらついていた。どんなに振り付けを洗練させても、脱がなければ評価されない。現実として、それを突きつけられている。

 それを承知したうえで。

「……観客のほうもクソなんですよ」

 紅葉はこれまで溜め込んできた想いを、低く、そして静かに呟いた。どこで誰が聞いているかもわからないので、もちろん大声では言えない。

 それでも。

「ええ、本当に」

 美春もまた小さく頷く。どうやら、彼女もまた紅葉と似た鬱憤を溜めていたようだ。

 思わぬ同調に、花梨は視線を泳がせながらふたりを諭そうとする。

「そっ、そんなこと言わずに……っ」

 花梨は男たちの前で脱ぐことにあまり抵抗がなさそうだ。それで、どうにか場を和ませようとする。

「ほら、こういうお仕事にも、いいところはありますし。たとえば、うーん、芸術的~っていうか!」

「……男に触らずに済むくらいのものじゃないの」

 美春の返答は冷たく、鋭い。そして、その刺々しさの奥には、どこか憎しみが滲んでいた。

 これに、紅葉は――思わず口の端を歪める。――それはまさに、言いえて妙――このままでは“男に直接身体を明け渡すしかなくなる”――それは、紅葉自身も直面したことのある危機だった。

 いい機会だ、と紅葉はふと思い出したフリを装って言葉を重ねる。

「……噂で聞いたんですが……夜野さんから、風俗店に転向しろって言われてるコもいるとか」

「ああ、あのバケ乳の小娘」

 美春は、ため息まじりに切って捨てる。紅葉は、表情を変えずにその言葉を聞き流した。しかし、胸の奥で冷たい水が一滴落ちたのを感じる。――本人のいないところでの悪態――私も、陰で何を言われているかわからない。何しろ、ダンスチーフでありながら、“身体を張っていない”のだから――少なくとも、自分は、メンバーのことを悪く言ったりはすまい――紅葉はそう心に決めた。

 そんな黒い良心を覆い隠して、紅葉はふっと表情を緩める。

「写真とか動画とかならともかく、直接相手するのは、私なら無理ですね」

 それに対して、美春は無表情のまま、短く、ひと言だけ。

「……嫌悪するわ」

 その横で、花梨も少し困ったような顔をしている。

「カリンも、そこまでは、さすがに……うーん……」

 曖昧な物言いに、紅葉は内心で“意外だ”と思いながらも、特に驚くこともなく無関心に相槌を打った。花梨でさえ『何でもあり』というわけではないらしい。

「金のためとはいえ、限度はあるし」

 そうつぶやく美春に、紅葉は即座に頷いた。

「わかります」

 ポルノ販売用の裏垢に飛んでくる肉欲まみれのDMの数々――それを思い出して、声のトーンが少しだけ上がった気がする。ほんのわずかでも、共通の認識を持てるのが嬉しかった。

「あの連中、こっちを肉の塊としか思ってないのだから、傲慢にも程がある」

 美春の言葉には苛立ちがあふれていた。その勢いのままに紅葉も続ける。

「こっちは道具じゃないっての。不愉快な目つきで舐め回される気分、味わってみてほしいですよね」

 互いの言葉が重なり、怒りで空気が張り詰める。

「男なんて、絶滅してしまえばいいのに」

 憎悪を込めて吐き出した美春に対して、花梨が小さく手を挙げる。

「で、でも、男の人たちが来てくれるから、ライブハウスも成り立ってるんだし……」

 その言葉に、美春は皮肉な笑みを浮かべて言い切った。

「なら、そんな汚いライブハウスなんて潰れちゃえばいいのよ」

 そのひと言が、紅葉の胸に鋭く突き刺さる。けれど、彼女はそれを笑い飛ばすように口元を歪めた。

「さすがにそれは困りますね。住む場所がなくなっちゃうから」

 これに、美春は皮肉めいた視線を投げる。

「よく、あんなジメっぽいところに住めるわ」

「徒歩〇分で無料レッスンできる場所なんて他にないから」

「そう」

 紅葉がこともなげに返したからか、美春は興味を失ったように、不満げな相槌を打った。

「踊りたいならいくらでも他の場所があるんじゃないです?」

「あれば、そこで踊ってるわ」

 その短い言葉のやり取りで――美春の表情がふと変わった。それは、どこか遠くを見るような、そしてわずかに哀しみを含んだ――同情の色。その瞬間――紅葉も気づいた。この人も、“不本意な形でここに流れ着いた”んだ。“ここしか働く場所がない”から――

 そして、紅葉は続けて理解する。――けれども、こんなことをダラダラと続けていくつもりもない――無言のうちに交わされた視線の奥には、似たような諦めと、どこかで燃え残る炎のようなものが揺れていた。

 紅葉は壇上に立ち――フロアのほうを眺めながらつぶやく。そこにいた客たちのことを思い出すように。

「男って、本当に露骨でわかりやすいんですよね。思い通りになると信じてる間だけ変に媚びへつらって」

 そして、思い通りにならないとわかれば途端に――もう、何度も繰り返してきたやり取りだ。

 そして美春もまた、言葉以上の思いを紅葉から受け取っている。

「しかも、“つき合ってもらってる”って感覚が皆無。減るものじゃないと思ってるから、こっちに敬意も感謝もない」

 美春の吐露に、紅葉も頷きながら応じる。

「それでいて、勝手に期待して勝手にキレるし。そんな“はした金”で何でも思い通りにできると思うなって感じ」

 一宿一飯でオフパコ希望とか、どこの一流シェフのフルコースをご馳走してくれるつもりだ、と馬鹿らしくなってくる。

「しかも、こっちがちょっとでも渋れば、まるでこっちが悪いかのようになじってくるし」

「そうそう、上司にでもなったかのように説教垂れてくるヤツ」

 ライブハウスの掲示板にも多少はいた。他の男たちからさえ無視されていたけれど。

「そういうやつに限って、ステージの“構成”だの“演出”だの、論理武装はすれども、結局はナンにも見てないのよ。ただ、脱ぐか脱がないかってだけで」

 そんなくだらないことで、よくもあんな長文を書けるものだとある意味感心する。読む気はないし、他の客たちも絡まれたくないのかスルーしていたが。

 美春もまた、あの掲示板にはうんざりしていたクチらしい。

「“ストリッパーなんだからヤらせてくれればいいのに”って連中も無理。お前らはライブハウスの客であって、ソープの客じゃないっての」

 本当に、他所へ行け、としか言いようがない。何故我々がストリップに留めているのか、その理解も及ばないのか。

「“客”という立場ってだけで、無敵になったとでも思ってるのかしら。気分次第で人ひとり買えると思ってるんだから、どんな大富豪よ」

 ふたりの苛立ちがぶつかり合うようなやりとりの末、ふと目が合う。そして、同時に小さく吹き出した。

「……まあ、お金のためと割り切るしかないですけどね」

「ええ、生活のためだから」

 やるせない笑いを交わしたとき――ふと、ふたりの視線が花梨に向けられる。ここまで肩をすぼめたまま発言らしい発言はなし。けれど――この流れの中で、無言の圧力が生じている。――ストリップなんてやってるのは、お金のためですよね? ――しかし、紅葉は――もしかしたら、美春も知っているのかもしれない。花梨の金払いの良さは、間違っても貧乏人のものではないことを。

 何か言わなくてはならない――だが、同調することはできない――そんな空気と強い意志に挟まれて、花梨はおずおずと言葉を選ぶ。

「カリンは……えーと、写真のため、ですね……」

「写真?」

 美春が問う。どうやら、花梨の兄の件は知らなかったらしい。紅葉もまた、久々に思い出した気がする。

「カリンのお兄ちゃん、写真家やってて、それで、もっと奇麗に撮ってもらえるようになりたいなー……って」

 久々に思い出したからこそ――少しだけイラつく。それは――

「……はぁ?」

 美春の怪訝なひと声に押されたからかもしれない。改めて考えてみれば、兄のために“こんなこと”までできるなんて、ブラコンだとしてもあまりに異様だ。写真家とのコネクションを狙っていた間は許容できたが、花梨にその気がないのであれば、そこには不気味さしか残らない。

「……兄は関係ないでしょ、兄は」

 それだけ呟くと花梨に背を向け、紅葉はひとりステージに立つ。自分自身のレッスンのために。

「あ……楓さん……」

 そこに含まれた拒絶を感じ、花梨は――肩を落としてかける言葉を失っていた。

 兄のために裸になる妹――裸の妹を写真に収める兄――一番近いところに、自分の生き方を応援してくれる人がいる――

 たしかに、このライブハウスに来て、多くの人に期待してもらえるようにはなった。それは主に、同僚である踊り娘たちにだけれども――しかし、紅葉には帰る場所はない。いや、ここが帰る場所になりつつある自覚はある。だが、それでも――

 ――何から何まで持っているクセに――

 そんな花梨が、何故自分と同じ場所に立っているのか――紅葉は理解が遠のいたように感じる。

 ただ、それでも――『内には、すべての不安を押し留め、外には、ただ踊るだけ』――それが、紅葉にとってのすべてだった。


       ***


 その次の火曜日――紅葉はライブハウスの異変に気づく。

「……え?」

 今日は、カリンたちのステージの予定だったはず――その準備を手伝うのも住み込みの条件だったため、紅葉はその時間にフロアの隅で目を覚ました。しかし――部屋は暗く、どこにも人の気配がない。不安になって、スマホで日付を確認する。……たしかに、火曜日だ。今日に向けて花梨も美春も練習を重ねてきたはずだし……そっ、そろそろ、ゲネプロ最終リハもしなきゃいけないんじゃない!? 花梨は……うん、よく遅れるから……。紅葉は、目の前の状況を直視できずに逃避している。その可能性は、すでに花梨や美春からも示唆されていたのに。

 混乱のなかで控室から扉が開かれたとき、紅葉の胸に一筋の光が差す。だが、それはすぐに掻き消された。出てきたリリザは――紅葉の視線から、無念そうに目を逸らす。言うべきことはわかっているのだろう。紅葉もそれを問い詰めたい。しかし――それを聞いてしまったら――すべてが終わってしまうような気がして――

 だからこそ、リリザのほうから切り出した。その表情は――これまで紅葉に対して解雇を通達してきた事務所の人間たちとは異なる。彼女もまた、同じ踊り娘だからこそ。

「次回のストリップ・ライブの予定は――」

 リリザは目を伏せたまま、伝えなくてはならない言葉を絞り出す。

「……未定です」

 それだけ告げると、呆然と立ち尽くす紅葉のすがるような視線を振り切り――そのままフロアから立ち去っていった。これに――紅葉には何を言うこともできない。ただ、胸の奥が焼け付くように傷んでいた。


 普段、ライブハウスが空いているときはいつでも練習のために使っている。けれど、今日ばかりはそんな気力も湧いてこない。恐れていたことが起きてしまった。こういうことは珍しくもない。採用はされたものの――プロジェクト自体がなくなってしまうということは。けれど、起きてほしくなかった。いまの仕事では、絶対に――

 けれど、結局はただの悪あがきだったのだろう、と紅葉は諦観する。ライブハウスとしても――ストリップで稼げれば稼ぐ。稼げなければ踊り娘の横流し――紅葉にも、本気で身の振り方を考えるときが来たのかもしれない。

 さて、これからどうしたものか、と新宿の地で紅葉は途方に暮れる。いつの間にか空は深い藍色に染まり、ビル群の窓明かりが浮かび上がっていた。通りを照らすネオンの光が濡れた路面に映り込み、歩道には煙草の吸い殻が散らばっている。酔客たちの笑い声がビルの谷間を抜けていく一方で、路地裏の影には所在なさげな男たちが寝転がっていた。やはり、新宿の夜は華やかでありながら、どこか無機質で冷たい。

 紅葉が立ち尽くしていると、寒さが頬を刺す感覚だけがやけに鮮明に感じられる。南千住に自宅はあるが、いまから自転車でそこまで帰る元気もない。そんなときは――もうひとつの職場か。ファミリーレストラン『ファメリア』――決して居場所と感じることはないが、非番のバイトがいても怒られはしないだろう。人手が必要なら手伝ってもいい。少なくとも、終電前後はそれなりに注文はあるから。

 ただし――こちらもいつまで続けられるかわからない。ファメリアでの仕事は、ノクターンの住み込みがあって初めて成立する。このままでは、あのアパートひとつ残してすべてを失ってしまう――!

 暗澹たる心持ちでファメリア店内へと足を運ぶと――紅葉が思った通り、客席も八割方埋まっている。いまから二時間くらい臨時シフトを入れてもらえれば小遣い稼ぎになるかな――いや、そんな特別扱いしてくれるはずもないか。ここでは、チーフのような立場でもないのだから――

「お疲れ様です」

 バイトの深見がレジに立っていたので、軽く挨拶だけ交わしておいた。

「お疲れ様です……って、楓さん、ステージは?」

「今日は、ちょっと……」

 紅葉が言葉を濁したことで、深見は軽く首を傾げながらも、深く言及することもなかった。

 紅葉がそのままバックに入ってみると、まるで憂鬱が伝染したかのように、店長もデスクでゲッソリしている。とてもではないが、仕事をくれ、と言える雰囲気ではない。

「お疲れ様です……」

「あれ? 楓さん、今日はいいの?」

 どうやら『火曜日は来ない』というキャラが定着していたようで、会う人会う人に不思議そうに声をかけられてしまう。

「今日は……会場のほうに色々あったみたいで……」

 私は何も知らない、という雰囲気で、さも他人事のように言い訳しておいた。しかし――これが続いたらどうなるのだろう。ダンスをやめた、と思われるのだろうか。……いや、ストリップを客として観に行くような店長である。箱自体が潰れれば、さすがに察してくれるだろう。

 いずれにせよ、今日――火曜日に紅葉がいることは、他の店員たちにとってとても不自然なことらしい。来る場所間違えたかな――紅葉は早くも居心地の悪さを感じていた。

 そこに。

「あー……霧島さん」

 店長が本名で呼び直した。これに紅葉は反射的に身構える。

「は、はい……?」

 まさか、また解雇……? あの日、コンビニで深夜営業をやめると聞いたときに感じた運命の潮流を、ことごとく逆流させるような仕打ちが……?

 ――というわけでもなさそうだ。紅葉は社交辞令に聡い。人は他人を切り捨てるとき、自分を正当化するため笑顔を作る。これは、お互いのためだ、自分は何も悪くない――そう自分に言い聞かせるように。そんな場面に何度も立ち会ってきたから紅葉だからこそわかる。これはむしろ先ほどのリリザと同じ――まるで、店長のほうが切り捨てられたような――

「……うちで、正社員として勤める気ない?」

「……は?」

 一瞬、耳を疑う。これまで、紅葉は何度もクビを経験してきた。そんな自分に対して、まさか正社員としての打診が来るとは――想像の域を超えている。

「ど、ど、どういうことですか……?」

 動揺が隠せず、どもりながら聞き返す紅葉に、店長はため息混じりに淡々と述べる。

「いやー……外食産業が不人気だってことはわかってるけど……」

 店のトップたる者が、自分の業種に対して実に後ろ向きだ。

「そりゃ、ロボット給仕が充実してるから、接客そのものは楽になったかもしれないけど……逆に人間が対応するのはクレームばかり……。笑顔を向けられるのはロボット、罵声を浴びせられるのは人間……はぁ」

「ど、どうしたんですか……本当に」

 まさか、このファミレスさえも倒産の危機……? たったいま、正社員雇用を求められたばかりなのに、それも忘れて紅葉は不安になってくる。

「そんな仕事でも、霧島さんは嫌な顔ひとつせず働いてくれるし、火曜日以外は精力的にシフト入れてくれるし」

 お金がほしいから、という理由が真っ先に挙がるが、ライブハウスで寝泊まりしている都合で出社が楽だから、ということもある。しかし――嫌な顔ひとつせず、というのが少し気になっていた。仕事を頼む側としては、頼む相手が無表情では頼みづらいものである。だからこそ、紅葉はこれまで、様々な勤務先で解雇を言い渡されてきたというのに。

 しかし、このときの紅葉は気づいていなかった。彼女が、『火曜日はライブハウスに出演している』ということを共有するくらいに、この現場に打ち解けていたことを。間接的ではあるものの、みんながダンスを支えてくれている――その姿勢が、紅葉の表情を少しだけ明るくしてくれていたのだった。

 だからこそ、紅葉が選ばれたのである。そのタイミングで偶然ここを訪れたから、ということもあるが。

「内定決まってた子がね、このタイミングで辞退って。ほんと、急で困ってるんだよ」

 ……そう――心の中で、紅葉は静かに微笑む。やはり、他にやり甲斐のありそうな就職先があるのなら、誰だってそっちに行くわよね、と。けれども紅葉にとって、仕事にそんなものは求めていない。ただ、ダンス活動を続けるために、生活を支えられればそれでいいのだから。

 この千載一遇の好機に『喜んで』と、すぐにでも返事をしたい。けれど――これまで裏切られ続けてきたトラウマが、反射的にブレーキをかける。

「え、えーと……こちらのお仕事って、副業可、でしたっけ……?」

 慎重に言葉を選ぶと、店長は頷く。

「それは大丈夫だよ。社員でもシフト制だし、掛け持ちしてる人もいるし」

 だが、どこか不思議そうな顔を浮かべて、首を傾げる。

「副業って……例の、劇場?」

 紅葉は少し身を硬くする。

「ええ、まあ」

 店長自身、ライブハウスに客として来ていた。ゆえに理解もあり、幸い、責めるような様子もない。むしろ――気遣うように。

「霧島さん、あの劇場の仕事……嫌がってなかったっけ?」

「えっ……?」

 ライブハウスの話を職場で公にしたことはない。愚痴をこぼしたことも――少なくとも、部外者の前では。けれど、自然と避けていたことは伝わっていたのだろう。――いや、普通の女であれば、あのような仕事のことを人前でベラベラ話すことはないが。

 思い返せば、美春と話していたときも、つい悪口で盛り上がってしまったばかりである。あの場では、確かに、あの仕事を嫌っているような口ぶりになっていたかもしれない。

 けれども――

「兼業しないと暮らしていけないほど、うちの給料、安くはないと思うよ。社宅もあるし」

 店長はさらりと至福の追い打ちをかける。社宅――それは、紅葉にとってまさに願ってもない好待遇だ。ライブハウスへの住み込みは、いつまで許されるかも分からない不安定な暮らし。ここで、ファミレス側から住まいを提供してもらえるのなら、それだけで大きな安定につながる。

 ようやく安堵の一歩を踏み出せる――はずだった。

 なのに――胸の奥に冷たいものが広がっていく。

 何故、自分はこんなにもノクターンのことが気になっているのか――

「あのー……ライブハウス、けっこう厳しいらしくて」

 気がつけば、紅葉の口は勝手にそう動いていた。

「……ああ。この街じゃ、よく聞く話だね」

 店長も、何の気なしに同意する。ただ、それは決して他人事ではなく――明日は我が身、という覚悟をもって。

 そんな真摯な想いは、紅葉にも伝わる。だから、正直な“諦め”を口にしていた。

「なので……最期まで、看取りたい……と思って」

 自分で言っておきながら、胸が痛む。

 その言葉が、あまりにも現実的すぎて。

 あのライブハウスが、本当に“最期”を迎えるのだと――はじめてリアルに、想像してしまった。

 それは、思った以上に紅葉の胸に重くのしかかる。

 ファメリアの正社員雇用の件については、もはや断る理由も

なかった。感謝して引き受ける旨を店長に伝え――紅葉はそのまま、店を後にする。

 そして、冬の冷たい夜の空気の中――ライブハウスへと戻ってきた。今日はステージの予定がないので、暗く静かで、寂しくなるほど広く感じる。ここで過ごせるのはいつまでになるのか。どうせなくなってしまうのなら――いまのうちに練習をできるだけやっておくべきだろう。このライブハウスがなくなっても、自分のダンスは続いていくのだから。

 気持ちを切り替えてストレッチを始めたところで――スマートフォンに通知が届く。

 発言者は、新月だった。

『明日からの合わせ、よろしくね!』

 そんな短いメッセージ――次のライブの予定なんて立たないのに。

 だが――

『いつでも出られるように、準備だけはしておかないと』

 その文面を見て――あの女、脱ぐことにしか興味がなさそうだったのに――意外だったが、それ以上に、紅葉は嬉しかった。たとえどんな形であっても、こうしてダンスの話ができる相手がいる。練習を共にする相手がいる。

 それだけで、少しだけ心が軽くなった。

 ――そして、ようやく気付く。

 自分は、この場所を――失いたくないのだと。

 もしかしたら、この先、新しい活動の場を見つけられるかもしれない。もっと条件の良い場所も、もっと評価される舞台もあるかもしれない。

 でも――

 ここは、路頭に迷っていた自分を拾ってくれた場所。

 思ったような評価はもらえなかった。罵倒や無関心に傷ついたこともある。

 それでも――舞台に立つ機会を与えてくれた場所であることには変わりはない。

 紅葉は、自分が思っていた以上に――このライブハウスに、感謝していたようだ。

 それなのに、『最期まで看取りたい』などと――まるで他人事のように、自分に言い訳していたなんて。

 本当は――最期なんて、迎えてほしくない。

 その気持ちを噛みしめながら、紅葉はそっとスマートフォンを握りしめ、今日の練習の準備を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る