楓の居場所

 深夜のコンビニ。冷たい蛍光灯だけが、人工的な光で店内を満たしている。その夜は久しぶりに、紅葉とカリンが同じシフトに入っていた。

 ここ最近、紅葉の夜勤はもっぱらオーナーとのペアだった――と“思われる”。思われる、というのは――オーナーは基本的に事務所にこもっているので、フロアに出てくることはまずない。なので、レジにひとりでいる日は、本当はオーナーとのふたりシフトなのだろう、と紅葉は勝手に察していた。入店時に挨拶でもしてくれればわかりやすいが、いつの間にかバックに入っていて、いつの間にかいなくなっていることが多い。どうやら紅葉と似たようなタイプらしく、同じコミュ障組としてやりやすいな、と感じていた。

 いずれにせよ、フロアに出るのは紅葉ひとりである。とはいえ、大した客も来ないため、ひとりでもさして問題ない。むしろ、そのほうが気も楽だ――そう思っていた紅葉だったが――それは、あくまでダンスの話をしないときに限るのだと、いまさらながら気がついた。

「ここのステップなんだけど、ふんふんふ~ん♪ ……のとこ」

 レジカウンターの中で軽くステップを踏みながら、カリンが楽しげに問いかけてくる。次の搬入が来るまで、やることなど事実上ない。だからこそ、こうしてささやかなダンスレッスンが成り立っている。レジ内という限られたスペースでは、大きな動きはできないが、それでも細かい手足の使い方や重心の位置など、確認するには十分だった。

「……ああ、カリンさんは――」

 と、紅葉はつい源氏名で呼んでしまい――

「……篠田さんは猫背気味だから体勢が前に偏ってるんです。気持ち、背中を反らすくらいの感じで……」

 そこは紅葉も気になっていたところなので、アドバイス自体は即座に返すことができた。しかし……カリンの様子が少しおかしい。何故か、ニマニマと喜んでいるような。

「こっちでも、カリン、でいいよ?」

 音だけなら本名そのままだ。とはいえ、紅葉にはまだどことなく照れくさい。しかし――ここぞとばかりに、カリンはさらに踏み込んでくる。

「さん付けもいらないし。カリン、紅葉さんのこと、尊敬してるからっ」

 そう言ってもらえるのは嬉しいが――だからといって、名前の直呼びは……というか、いま、さり気なく『紅葉』って……。訂正させるつもりもないが、誘ってきているのは明らかだ。何となく気まずくなって、紅葉はカリンから視線を外す。

 紅葉が何も言わなくなってしまったので――カリンは紅葉が好きそうな話題に戻した。それはもちろん、ダンスのこと。

「あー……練習したーい! 明日もお願いしますねっ!」

 カリンの屈託のない笑顔に、紅葉もまた笑顔で返すも――

「……はい」

 だったら、いっそ車で新宿まで連れて行ってくれないか――そんな期待が紅葉の胸をよぎる。だが――カリン自らから申し出てくれるならともかく、自分から願い出るのは求め過ぎだ、とあくまで自重していた。せめて雨でも降れば、『今日は天気悪いから』と甘える口実ができるかもしれないが、生憎、空は曇っているだけで一滴の雨も落ちてこない。数日前に降ったものの、どうやら日中だったようで、夜型生活を送る紅葉にはまったく関係のない話だった。

「それにしても……新宿までの往復って、結構厳しくて」

 ぼそりと紅葉がこぼすと、カリンが不思議そうに首をかしげる。

「そうなの? 地下鉄を使えば……」

「いえ、自転車なんで」

「わぁっ、すごい!」

 このリアクションには思わず全身の力が抜ける。そこは感心するところじゃない、と紅葉は内心でツッコんだ。わかったら、私を車に乗せていけ――そんな思いを秘めた目線を送ってみるものの。

「いっそのこと、ライブハウスに住み込んじゃったら?」

 カリンがさらりと、とんでもない提案を口にする。

「えっ?」

 紅葉の目が大きく見開かれた。なんでそうなるの? と本気で驚いている。

「だって、ほら、リリザさんだって住み込みなんでしょ? もうひとりくらい増えたって、いいんじゃないかなーって」

「…………」

 言い返そうとして、紅葉の口が止まる。確かに、それは突飛な発想ではあるけれど――それに大きな魅力を感じてしまっているのが悔しい。もし本当に住み込むことができたら、空き時間をすべてフロアでの練習に充てられる。家賃も無料――とまではいかなくとも、格安で住まわせてもらえたなら――。物価の高さを考慮しても、いまの時給と天秤にかければ、決して悪くない。

「リリザさんに頼んでみたら?」

 カリンの無邪気な提案を、紅葉には一蹴することができない。

「……検討してみます」

 一応、ダンスチーフという肩書きも持っているし、多少の融通を利かせてもらえる可能性は、きっとゼロじゃない――そんな一縷の希望を胸に、紅葉はカリンの横顔をちらりと見つめる。……せめて、明日くらいは新宿まで乗せていってくれないかな、と。


 紅葉の淡い期待も空しく、その日も自転車でみっちりウォームアップを済ませた後のノクターンでのレッスン――遅れて来たカリンも加わり、選抜に向けて練習に励んでいた。が、今日はそこに、意外な人物がやってくる。

「さすがに、ダンスも練習しないと」

 控えめに言いながら顔を出したのは――美春だった。ゲストライブが終わり、撤収も終わった終電間際の時間帯である。つまりは、始発まで練習していく、ということなのだろう。ここまでずっと乗り気ではなさそうだったが、そろそろ本気になったのかもしれない。

 だとしたら。

「あやのさんはどうしてるんでしょうね」

 やる気がないようには見えなかったけれど。

「ジム」

 紅葉の疑問に、美春が短く答える。どうやらあやのは、動画にもあったジムで練習を積んでいるようだ。それも、おそらくは筋トレのほうを中心に。基礎固めと呼べば熱心なことだが、あやのの興味はもっぱら肉付きのほうにある。振り付けは大丈夫だろうか? 今回の場合、ひとりであのハード・バージョンを踊ったところで、おそらく加点材料にはならない。

 ――などと、他人の心配をしている自分に気づき、紅葉は少し複雑な心境になった。カリンたちの練習につき合っている理由の中で最も大きな要因は――万が一の際、いつでも自分が代役を務められるようにしておくためである。ステージに立てる機会はひとつ足りとも取りこぼしたくはない。いずれにせよ、良い練習にもなるだろうし。

 そして、美春のダンスも初めて見ることとなったが――基礎的なフィジカルが違う。リズム感や身体の柔らかさ、使い方――やはり、少しずつだが、全体的な見栄えが変わってくる。もちろん、まだまだ練習の余地はあるだろう。それでも――このままではカリンに勝ち目はない――それでも彼女は明るく笑いながら練習に取り組んでいる。そこが彼女の強みでもあり、弱点でもあるのかもしれない。

 そして、カリンよりもっと勝ち目がないのが――

「わわわ……とっとっと……」

 サイドランジの際に胸に振り回されて尻餅を搗いているのは――ピーチ。えへへー、と可愛らしい照れ笑いが場の空気を和ませる。だが、現実は厳しい。踊りの実力としてはカリン以下、正直言って論外だ。それでもこうして健気に毎日の練習には参加している。

 そんな、熱心な姿勢は応援してあげたいのに――紅葉はどうしてもピーチを素直に歓迎できない。それは、単なる技量の問題ではなく――高校生――自分の通えなかった高校に通っている、というそのことだけで――きっと、夜野に“売られる”第一候補はこのコだろう――そんな冷たい考えが頭をよぎる。それが醜い嫉妬だと自覚しているからこそ、紅葉はその考えを自制したい。

「今日も、これから高校?」

 練習が終わり、フロアを片付ける時間。ピーチと目が合った紅葉は軽く問う。

「うんっ」

 ピーチは明るく頷いた。その無邪気な表情が、紅葉には眩しすぎる。人懐っこく、屈託のない少女。嫌う要素など、何ひとつない。それでも――

「高卒なら就職の幅も広がるし、いまから焦って稼ぐ必要もないんじゃない?」

 嫉妬が、紅葉の口を通して嫌味に変わる。しかし、ピーチは困ったような笑顔で答えた。

「卒業……できればいいんだけどね」

「あら、こんなところで働いてていいの?」

 せっかく学べる環境があるのに、それを無駄にしているのだとしたら――社会人として、本来は警告すべきところだろう。だが、そんな学生に対して“高揚”してしまうのはあさましいな、と自覚せざるを得ない。

 が、当のピーチは。

「実は、それどころの話じゃなくて」

 成績不良とか、そういう話ではなくて。

「うち、女子校だから……なくなっちゃうかも……って話で……」

「……ふぅん」

 ピーチは残念そうに声を落とすが、紅葉はその言葉に内心の昂りを抑えるのに必死だった。

 かつて――現在蔓延っている『自己責任社会』となる前の『管理社会』では、男女共学は不健全とされ、全国各地に男子校・女子校が急増していったという。だが、時代が変わったのを境に、その風潮は一変。男子校は急速に姿を消し、女子校もまた同じ運命に向かっていた。

 ――そうか、なるほど。紅葉はひとり納得する。ピーチもまた、自分の“武器”を理解しているのだろう。これだけ育った胸を見れば、自他ともに明白である。そしていま、彼女がノクターンというライブハウスに所属してステージに立つのは、この世界に踏み込むための“橋頭堡”なのだ。跋扈している魑魅魍魎に対して、少しでも有利に立ち回るための。

 紅葉は、少しだけ優しい声で言う。

「学校がなくなっても、ストリップは続けられるし……できるだけ長く一緒にいられるといいわね」

「……うんっ」

 ピーチは明るく返したが、笑顔の奥に、ほんの少し影が差していた。その暗さは紅葉にも痛いほど見えている。――そう、この学生はもう気づいているのだ。近い将来――それこそ、卒業さえできずに、より過酷な環境へと送り出されることを。それでもまだ、この場所で――このステージで、ひとつでも多くの時間を過ごそうとしている。

 紅葉は、胸の奥に淡い哀れみを抱きながら――そっと視線を逸らした。自分には『ダンス』という可能性が残されていて良かった――そんな様にならない優越感とともに。


 日曜日のライブハウスは盛り上がる。今夜も『ドラマティカス』という結構人気がある――と思われるバンドがフロアを満員にすることだろう。

 が、その前に。

 まだスタッフたちさえも入場する前のお昼すぎ――紅葉にとって、この時間帯は本来なら規則正しい就寝中である。だが、今日ばかりは眠ってもいられない。ハロクドによる出演メンバー選抜、いわゆる『ハロクド・オーディション』を見届けるために。

 本来は三人枠で行われる予定だったが、ピーチ本人の強い希望により、最終的に彼女も含めた四人での審査となっている。ストリップ用の台座を使わなければ、全員が一度に並んで踊ることも問題はない。本番と違って、フロアの奥まで見せつける必要はないのだから。

 閑散とした会場のステージに候補者が立つと、それぞれの表情に緊張が走る。それは、これから裸になるから――というだけではないだろう。

 曲は――例によって『コンニャン体操』――まるでお遊戯のような歌詞だが、曲調だけはポップソングなのが唯一の救いか。

 カリンの振り付けは、拙いながらも真剣で、あえてのんびりした癒やしの雰囲気。

 美春は真面目で基礎に忠実なステップ。だが、情熱に欠ける。

 ピーチは相変わらず胸に振り回されており、やりたいことはわかるのに、カリンよりなお拙い。

 そしてあやのは――ボーカルが始まる前から脱ぎ始めるのだからやりすぎだ。ポージングだけはキマっているものの……紅葉としては何とも言い難い。

 誰もが一長一短――ああ、練習の良さが出せてない……! と、スピィたちのステージと同じようにハラハラした気持ちで紅葉は見守っていた。一方、ダンスリーダーとして同席しているリリザはともかく、ハロクドは――真剣に見ているのだろうか、と不安になってくる。曲の終盤で、残りの三人が脱ぎ始めても、なおぼんやりとした視線は変わらない。それでも、今回選ぶのは彼女である。紅葉には、厳選なる審査が為されることを期待するしかない。

 曲が終わり、全員が息を整えながら視線を向けた先で、ハロクドは――まるで、ファミレスで日替わりを選ぶかのような軽い口調で簡潔に選ぶ。

「そんじゃ、ピーチとカリンで」

 そのひと言に――フロアの空気がわずかに揺れた。

「えっ、なんであたし……?」

 ピーチが驚きの声を漏らす。だが、ハロクドの評はあまりに――

「ふたりが、メスっぽかったから」

 あまりにも身も蓋もない選定理由に、紅葉は怒りを噛み殺すように、拳をぎゅっと握りしめる。これまでみんなが、どれだけ熱心に練習を積み重ねてきたか――それは、ともに時間を過ごしてきた紅葉だからこそよく知っている。その努力を、そんな理不尽なひと言で切り捨てるなんて……!

 その怒気を察したのか、ハロクドは紅葉のほうを向き、まっすぐに、それでいて、真摯に見つめる。

「ストリップは総合力だから。それがわからない楓じゃないよね?」

 そう言われてしまうと――紅葉は言葉を飲み込まざるを得ない。頑張ってくれた四人には言い難いのだが――彼女たちは誰もが始めたばかりの練習生だ。もちろん、ダンススキルについて、甲乙をつけることはつけられる。とはいえ――いざ、観客の前に立つとなれば――誰もが平等に『初心者』と映ることだろう。むしろ――“ピーチの体型”で、“他の三人と同レベルまで食らいついた”ことのほうが努力の賜物といえる。

 確かに――踊りの精度だけを比べれば、美春やあやのが選ばれるべきだったかもしれない。だが、ステージで最も映えるものは何かと問われれば――これは、ストリップ・ショーである。

 自分の審査基準が狭すぎた――それが、これまで数々のオーディションに落ちてきた原因かもしれない――ハロクドのひと言に紅葉は打ちのめされていた。

 そして、同じくらい打ちのめされているのがもうひとり。

「……リリザさん……次回の出演料、前借りできませんか……?」

 美春の震える声と切実な表情。それは、敗北への悔しさではない。生活が、本当に苦しいのだ。ステージに立てるかどうかが、文字通り“死活問題”になっていたのだろう。紅葉にはその状況が我がことのように伝わってくる。が、自分とて助けられるような立場にはない。それが、苦しい。

「それは構いませんが……はい。今回だけですよ」

 リリザは静かに承諾した。だが、その響きから察するに、ライブハウス自体の台所事情も決して楽ではないのだろう。このステージが、少しでも長く続いてほしい――紅葉は、そんな願いを強く胸に抱いていた。

 一方で、オーディションから外れてしまったあやの作の振り付けについては――「あ、大丈夫です……お譲りしますので……」と本人はいつもの調子だったが、さすがのハロクドもそれは気が引けたのだろう。ということで、カリンとピーチのふたりには、コンニャン体操そのままが採用された。数時間の練習で誰でも踊れるシンプルな構成なので、むしろ今回にはふさわしいのかもしれない。

 一方、ハロクドは――

「ま、当日までに考えておくよー」

 ダンスチーフとしての腕に疑いの余地はない。今回のふたりに混じれば、間違いなくハロクドが映えることだろう。……けれど、あの人は結局、このステージを“自分のアピールの場”として利用しようとしているだけじゃないのか――? 紅葉の胸の片隅に、そんな拭いきれない違和感が芽生えていた。


 そして、ステージ当日――『ハロクド・オーディション』からは二日しか経っていない。選ばれたふたりはコンニャン体操をベースとしているので、むしろ、当初のエアロビよりも難易度は下がっている。紅葉自身も練習にもつき合っていたし、問題はなさそうだ。

 むしろ、懸念すべきはハロクドの方である。結局、一度も三人で合わせていない。何しろ、直前のリハですら、ふたりが踊っている様子を録画していただけなのである。ちなみに、今回の構成はこれまでと異なり、最初に寸劇をこなしたあと、ハロクドも加えてダンスが始まり、そのまま脱衣パート、という流れらしい。コンニャンの元ネタがコンビということで、そのほうがやりやすいという都合と、ハロクドが寸劇の方に興味がないとのことで。……興味がない、などという雑な理由で出演拒否できるものなのか、と――脱衣パートをキャンセルしている紅葉は言える立場にないのだが。

 寸劇パートについては、カリンとピーチのふたりだけで考えていたらしい。ただ、あの組み合わせではミュージカルやパントマイムで誤魔化すことも難しいだろう、と紅葉は危惧していたが――

「きつねコンコン、“ニセこんなぎ”やでー♪」

 カリンの関西弁に、紅葉は冒頭から面食らって思わず後ずさる。しかし……そういえば、コンビニバイト中の店内放送で聞いたことがあるような……ないような……? うろ覚えだが、関西弁だったことような気はする。

 かといって、関西芸人のコンビというわけでもなく。

「にゃんこにゃんこにゃー、“ニセあんにゃ”にゃー」

 相方は標準語だ。こっちはピーチが担当している。お互い『ニセ』を名乗っているあたり、例のお笑い芸人――Nya-oXのパロディに挑戦しようということなのだろう。衣装もコンニャン仕様なので再現度は高い。

 これは意表を突かれたが、果たしてどうなることやら――紅葉は冷めた目で高みの見物を決め込んでいたが――

「えーいっ、その乳どーにかせーやっ☆」

「無理無理っ! 本家よりデカいんにゃからー!」

 と、メタネタを用いながらの巨乳ギャグ。小道具のサラシで無理矢理胸を収めようとするも、ムニムニとあっちがはみ出しこっちがはみ出し――

「……フッ」

 つい笑ってしまった――笑わされてしまった――それに気づいて――紅葉は一本取られたと認めざるを得ない。別に、ダンスのことではないので悔しがる必要はないのだが――何故か、ちょっと悔しかった。

「もうにゃっとられんにゃー!」

「毎度おおきにー♪」

 そんな、漫才さながらの挨拶で締めると――

「……ふーん、地上じゃあ、ああいうのが喜ばれるんだねぇ」

 いつの間にか、隣にハロクドが立っていた。それに――珍しく、夜野も。ふたりの存在に気づかないほど――カリンたちのステージの完成度が高かった、ということか。これなら、多少ダンスが拙くとも、お釣りが来るだろう――と紅葉は思いたい。フロアに集まっている客たちは、全裸だけが目的ではないのだと。

 さて、ここからハロクドはどう魅せていくのだろうか。もうひとりのダンスチーフの実力、見せてもらいましょうか――その衣装は――イヌ。多分、イヌ。柴犬のようにフサフサした尻尾がクルンと上に回っているから。その根本はトップスとスカートの間から出ているので、多分衣装は脱いでも尻尾だけは残すギミックなのだろう。

 ステージでは例のコンニャン体操が流れ始めている。前奏に合わせて壇上のふたりはスタンバイしているが、ハロクドはその立ち位置の隙間――ステージ中央を目指して飛び出した。まったく躊躇のない乱入である。

「おお……」――それだけのことで観客が沸いた。とはいえ、困惑の雰囲気も感じられる。別段、ハロクドが有名人、ということではなく……まあ、こんなタイミングで突然知らない人が割り込んできたら驚くよな、と紅葉は普通に思う。

 そして――なるほど……と紅葉は早速納得していた。というのも、ステージ奥中央には脱衣パートに備えて、すでに“お立ち台”が設置されている。コントパートの際には立ち話だったので気にならなかったが、これから踊るとなると邪魔になるのでは? ――と紅葉は心配していたのだが、コンニャン体操は子供向けであると同時に、大人も真似しやすいのが売りである。つまり、むやみに走り回ることはない。これなら問題ないだろう。

 しかも――有名な振り付けであるがゆえにわかりやすい。ハロクドは、既存のPVを見て、自分の立ち回りを考えていたのだろう。直近のリハで確認したのは、ふたりのスキルというか、完成度というか、そういうところを押さえただけ。ゆえに、ピーチが例によって遅れても、失敗しても、ハロクドが動じることはない。むしろ、支えたり、寄り添ったり――パントマイムを交えながら適宜フォローしている。だが、これを一度も実際に合わせることなく――おそらく、出たとこ勝負のアドリブですべてこなしているのだ。

 これは、もはやダンススキルの領域ではない。それはまさに、本人が言っていたとおりの総合力――ゆえに、ハロクドは生粋のダンサーではない。ショーマンだ――紅葉は、格の違いを思い知らされると同時に――お願いだから、地下に引っ込んでいて――そんな、器の小さいことを考えていた。

 だが。

 横目に映る夜野の視線は、明らかに演出には向けられていない。この男はずっとそうだ。初めて出会ったときから、どんな女にも、その対応は変わらない。ピーチを舐めるように眺め、時おりカリンにもその視線を這わせている。この場を支配しているのはハロクドだというのに。その本人の言葉――ストリップは総合力――だとしても、ここまでダンスを無視する夜野のあり方は、紅葉にとって許し難い。というか、総合力だとしても、この男の指標はプロポーションに偏りすぎている。やはり、別の店に売るための品定めとしてストリップを始めたな、と確信めいたものを感じていた。同時に、それを隠す様子さえない露骨さに――紅葉は呆れを通り越して、甘く見られたものだ、と苛立ちさえ覚える。

 いずれにせよ――利用し、利用される関係だとしても、紅葉は一向に構わない。望むところだと受けて立つ覚悟はできている。それが『自己責任社会』というものなのだろうから。


 そして、ライブも終わり――

 どうやら、カリンとしても、初ライブとは思えないほどの充実感があったらしい。

『ハロクドさんと一緒にステージに立てて、本当に良かった!』

 もしこれが自分だったら、ここまでの感動は生み出せなかったかもしれない――やはり、実際に客の前に立ってみないとわからないことも多いのだな、と紅葉は自省する。そして同時に、その機会を与えてくれたカリンに感謝もしていた。

『お客さんのウケも良かったみたいで!』

 アゲアゲなスタンプも添えて――自宅の布団の中でそのメッセージを受け取りながら、紅葉は心のどこかがチクリと痛んだ。自分も公演後にはエゴサーチをしていたが、目立った感想など見つかっていない。だから――ほんの少し、当てこすりのように返信する。

『私には何の反応もなかったけどね』

 とはいえ、それは仕方のないことだと紅葉自身思う。ステージとしての完成度はハロクドのほうが上だったと認めざるを得ない。が、それは今回だけのこと。次は、ダンスの枠に収まらない視野を持たなくては――そんな意欲に燃えている紅葉だったが。

『楓さんの回、ここ一番の投稿数だったよ?』

 思わぬレスに首を傾げる。

『投稿数?』

 不思議に思って問い返すと、どうやらライブハウスの公式サイトには匿名掲示板があるらしい。紅葉には初耳だった。確かに、ストリップのような公演内容はSNSでは話題にしにくいだろう。それを踏まえ、会場のほうで専用掲示板を用意していたようだ。

 URLを教えてもらったので、早速覗いてみると、ライブごとにスレッドが分けられている。そのタイトルには日付と投稿数がついているので、いつのライブがどれだけ反響があったか一目瞭然だった。そして、カリンの言っていたとおり、紅葉たちが出演した週の火曜日だけが突出した投稿数を誇っている。これに紅葉は、無意識に頬を綻ばせていた。

 が、その笑みは一瞬で凍りつく。

『新月ちゃんのおっぱい可愛かった!』

『スピィちゃんの脱ぎっぷり最高!』

『ラスト、楓ちゃんいなかったけど、逃げた?』

 ……何これ。

 ステージの本質に迫るような投稿は見当たらない。どれもこれも、最後の踊り娘の裸体についてばかり。ダンスパートについては、ライブ全体を評する際のついでに添えられている程度の適当さ――

「……やっぱクソだ、アイツら」

 ぽつりと紅葉は呟き、スマホを力なく布団に落とす。結局、彼らは裸体にしか興味がないのだ。自分たちが一週間かけてダンスに心血を注いできたというのに、それを正当に評価しようとする者はいない。ただの消費対象として、女性たちの裸を眺めているだけ。そんな男たちの前で踊っていたのだと思うと、吐き気さえ覚える。

 ステージの機会をくれたカリンやステージそのものには、感謝している。だが――そこに群がる客たちはクズだと断じていい。

 カリンの掲示板も同じように身体のことばかりだった。それだけに、自分よりも初心者たちのほうが“評価”されているという事実が、紅葉にはどうしても受け入れることができない。

 自分の――自分たちの踊りが無駄だったとは思いたくないし、否定するつもりもない。けれど――怒り、悔しさ、そして――深い徒労感だけが、紅葉の胸に残っていた。


 紅葉の夜は、ライブハウスで練習しているか、コンビニでバイトをしているかのいずれかである。願わくは、毎日練習にすべての時間を注ぎ込みたい。が、ステージだけで生活することは到底できない。難しい問題である。

 ただ、ありがたいことに――最近はコンビニオーナーとの“実質ワンオペ”が続いていた。カリンとダンスの話ができないことは少しだけ寂しい。だが、こんな暇を持て余した状況で会話があれば――『大丈夫ですよ。篠田さんの方が評判良かったみたいですから』――そんな嫌味を口走ってしまいそうで、己の矮小さに気が重くなる。

 その点、ここのオーナーは基本的にバックのデスクにこもりきりだ。姿を見せることもほとんどない。紅葉の作業量も大したことはなく、客足もまばら。来たとしても無人レジで勝手に精算してそのまま帰っていくので、紅葉の役割は自動ドアの開閉に合わせて『しゃーっせー』と気のない声をかける程度。無視はしていないが、歓迎もしていない――その絶妙な距離感を、短い言葉で伝えていた。

 その夜も、何の変哲もない勤務時間が静かに過ぎていく……はずだった。だが、ふと来店したひとりの男が、スナック菓子のコーナーに一直線に向かい――やがてレジ前の棚の前でじっと立ち止まる。店内をぐるぐると巡っては、特定の棚を凝視するその様子に、紅葉はピンときた。

「お探しの商品はございますか?」

 無為にうろつかれるのも鬱陶しい。そう思って声をかけた。

 男は白のスーツ姿。ノーネクタイながら、背筋は伸び、背丈もやたらと高い。清潔感はあるが、どこか見慣れた新歌舞伎町的な匂いが漂う。つまり、ホスト――あるいはホスト崩れのような印象だった。そのキザったらしい外見で、見た目に通りのセリフを吐く。

「今日、ここで運命の相手と出会えるって聞いてね。……ま、とあるスナック菓子のことなんだが」

 大の大人が子供じみたコラボ商品を探しに来たのが恥ずかしいのはわかる。それで、どうやら冗談めかしているつもりらしいが……お寒い言い回しに紅葉は、過度の反応は控えておいた。

「Nya-oXコラボの『コンニャ』は、朝六時からの販売開始予定です」

 できる限り冷ややかに、業務的に。売っている側とて恥ずかしいのだ。『コンニャ』自体はコンニャクを揚げてみただけで変哲もない量販スナックだが、それがあのコミックバンドとコラボした理由が……ただのダジャレだったとは。それに気づいたときは心底脱力したものである。

 もうすぐシフトの終わる朝五時になるが、販売開始まではまだ一時間以上ある。男のほうも、さすがにそこまで待ち続けるつもりもないらしい。

「感謝するよ。危うく気のない女と朝までお見合いさせられるところだった」

 女……? 当然、自分ではなくスナック菓子のことを言っているのだと思うが……言葉遊びが好きな客だな、と紅葉は呆れる。

 そこに続いて、女の客が来店してきた。が、目的は買い物ではなかったらしい。

「篠田さーん、何してるのー?」

「可愛い女王様から承ったミッションにしくじったところさ」

「ああ、妹さんの」

 男は軽く手を掲げて紅葉に礼を送り、女に引っ張られるようにして店を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、紅葉はほくそ笑む。どうやら、あのダジャレ・スナックは意外と人気らしい。おそらく、次の早朝シフトの店員たちは、出勤早々商品の陳列作業に追われ、六時まではフライング防止の監視員として務め、六時を過ぎれば大混雑の嵐――そんな流れが予想される。だが、それでいて時給は変わらない。問い合わせも、いまの比ではないくらいに殺到することだろう。客からチップでももらえなければ、そんな時間帯に働くメリットはない。

 それで――紅葉はふと気づく。私が、自分から客に話しかけるなんて――少し前の自分であれば、見て見ぬフリをしていたはずだ。売り場をウロウロされたら鬱陶しいが、実害があるわけでもないのだし。そもそも、長年勤務先の同僚とさえほとんど会話もなかったのだ。そんな私が……思いの外、饒舌になっていたのかもしれない。ダンスについて語り合う相手ができたというだけで、こんなにも変わるものなのか。そう思うと、不思議な感慨が胸に湧いてくる。

 そんなことを考えていたところで――ついに早朝シフトのおばちゃん――池上が入店してきた。

「おはようございますー」

「あっ、おはようございます」

 これから始まる修羅場を思うと、紅葉は一分たりとも残業などしたくない。まだ自分の勤務時間は一〇分ほど残しているが、すでに秒で退勤できる体勢に入っている。

 すると、池上はレジ前を通り過ぎようというところで。

「霧島さん、知ってる?」

「はい?」

 池上は、挨拶のついでに『今日は寒いわね~』などのひと言を付け加えてくるタイプなので、最初は気にしていなかったが――今日は、いつになく表情が険しい。

「――この店もさ……深夜営業、やめるって噂、聞いちゃって」

「え……?」

 そのひと言が、紅葉の心を貫いた。まるで胸の中に氷水を流し込まれたような感覚。何も言えずに、紅葉は硬直した。

 だが同時に――紅葉の中で、ひとつの決意が生まれる。ここから先、自分の居場所を守るために、何をすべきか。踊り続けるために、何ができるのか――静かに、けれど確かに、運命が私の背中を押している――そんな気がしてならなかった。

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