それから、マルセルの頭の片隅には、ずっと兄に問われたことが引っかかっていた。碧唐草セレヴィアが咲き広がる春が過ぎ、ラベンダーが香る夏に至っても、ジスランの心の裡などわかるはずもなく、懊悩おうのうを抱える日が続く。

 鍛錬にも身が入らず、兄や姉との実力差が開いていくことに焦りを覚えはしたが、どうにも技を磨く気は起きなかった。将来、あのいけ好かない三男坊か、他の誰かに仕えたとしても、最期は父のように使い潰されるのなら――強くなることに何の意味があるのかと、虚しさが募るばかりなのだ。

 しかし、あの優しくおおらかな兄が、「よく考えろ」と釘を刺した。理由もなく強い口調を使うひとではない。知らねばならぬことがあるのなら、それは一体なんだというのだ――

「マル兄どうしたの? なんだかしずか」

 そう言われたのは、護衛棟と鍛錬場の間にある木立の中を、七歳になる末の妹、ファイナと散歩をしていたときであった。「仕事も鍛錬も嫌なら子守をしろ」と、半ば強引に母に押し付けられ、きょう一日面倒を見ることになったのである。「おなかすいたの?」と小首を傾げる妹を抱き上げると、マルセルは「すいてねぇよ」と笑って答えた。

「さっき朝飯食ったばかりじゃないか」

「マル兄はねぇ、おしゃべりじゃないとマル兄じゃないんだよ」

「そうか、俺はおしゃべりかぁ」

「ねえマル兄、ファイナおはな見たい」

「花?」

「きのうはね、おかあさんと見にいったの」

「昨日――ああ、そっか、薬草園に行ったんだな」

 そういえば昨晩、母が「眠りが浅い」とぼやきながら、いい匂いのする茶を飲んでいた。分けてもらった薬草を煎じた茶だったのだろう。

「じゃあ、きょうもお花見に行くか」

「うん、いく!」

 抱いていたファイナを降ろし、手を繋ぐ。嬉しそうにちょこちょこ歩く妹の歩調に合わせて、マルセルもゆっくりと歩き出した。


 低い石壁に囲われた薬草園には、小さなアーチ状の出入り口がある。そこをくぐった先は、薬草の用途別に区画化がされており、整然と並ぶ色とりどりの花たちが、初夏の爽やかな風に揺れていた。ファイナは目に留まった花を愛で、その香りを楽しむと、また別の花をつつきに行く。花を渡る蝶のようにふわふわ歩く妹に導かれ、ぼんやりと踏み石の整えられた小道を歩いていると、マルセルはいつのまにか、薬草園の奥にたどり着いていた。

 そこには、一本の菩提樹の若木があった。豊かな葉が生い茂り、淡黄色の小さな花が、ほうとともに下に向かって咲いている。その甘くやさしげな香りは、昨日母が飲んでいた薬草茶と似た匂いがした。きっとこの花を分けてもらったのだ――そう思い、菩提樹に近づいていくと、その木の陰に思わぬ人物がいた。

「もう泣くな、リュカ」

 ぐずる弟に手を焼いている、ジスランの姿があったのだ。

「涙で湿布が貼れない。頬、痛いんだろう?」

「う……っく、い、いたい、あうう――」

「ここに父上は来ない。だから……泣き止んでくれ」

 手にした小さなたらいには、おそらく何かの煎じ液が入っているのだろう。縁にかけた麻布で、弟の頬に湿布を貼ろうとしているようなのだが――

(へ……下手くそかよ)

 蹲って泣きじゃくる幼子に「泣きやめ」と言うばかりで、目線の高さを合わせもしない。とはいえ雑に扱っているわけでもなく、どう接すればいいのかわからずに困っているようだった。

(ああもう――くそ、しょうがねえなぁ)

 ジスランとは鍛錬場での敗北以来の再会で、できれば顔を合わせたくない相手ではある。しかし困っている年下を放っておくのも、どうにも居心地が悪いのだ。

「リュカ坊っちゃん、どうしたんすか」

 ふたりに近づき、そう声をかけると、ジスランが驚いたように目を瞠った。

「おまえは……どうしてここに」

「たまたまですよ。妹の散歩で。……って、あーあ、坊っちゃんの頬、真っ赤じゃないすか」

 マルセルはベルトに挟んでいた麻布を手に取り、膝をついてリュカと目線の高さを合わせた。「こりゃあ痛かったなぁ」と優しく声をかけながら、頬の涙を拭き、ついでに鼻水もぬぐってやる。

 しゃくりあげながらも涙を堪えようとするリュカの健気さに、マルセルは頬が引き攣らぬよう、必死で笑みを貼り付けていた。この真っ赤に腫れた左頬―明らかに殴られた痕なのだ。

(リュカ坊っちゃんは確か、まだファイナと同じ七歳のはずだが……ひでぇことするな、領主は)

 使用人の間でも噂になっているのだ。グラース家の男児のうち、上三人は非凡であるが、一番下だけ呆れるほどに凡庸で、領主様はそれに大層お怒りらしい――と。グラース家の子息に手を挙げる人物など、父親以外にありえない。おそらく、なにか気に障ることでもしてしまったのだろう。

 徐々にリュカの涙がおさまる様子を見ていたジスランが、なにか言おうと口を開く。しかしその瞬間、マルセルの背後から「あーっ!」というファイナの叫び声がして、言葉がかき消されてしまった。

「マル兄いけないんだ! リュカさまをいじめてる!」

「違げぇよ、俺が泣かせたみたいに言うな!」

「ちがうの? ほんとう?」

「ほんとだって。なあ? 坊っちゃん」

 マルセルにそう言われ、リュカはこくりと細い首で首肯する。それで納得したらしいファイナは、今度はリュカの頬の赤さに気が付き、自分の頬が痛むかのように顔を歪めた。

「リュカさま、ほっぺ、いたいいたいなの?」

「そうだよ。そういうとき、どうすればいいんだっけ? ファイナ」

「うんとねぇ、こうするの!」

 ファイナはリュカの頬を両手で包むと、「いたいの、ないない! とんでった!」と明るい声で唱えてから、また両手をふわりと開く。何をされたのかよくわからず、きょとんとしているリュカの両脇に、マルセルが「ちょいと失礼」と言って手を差し込んだ。そうしてぐいと力を込め、――リュカを抱き上げたのである。

「う、わ」

「坊っちゃん、花、届きます?」

「は、はな?」

「そう。菩提樹の花。ひと房もいでもらえませんか」

「えと、……こう?」

 戸惑いながらも、リュカはマルセルに言われた通りに、下を向いて咲いている小さな花を苞ごと摘み取った。

「そう! 坊っちゃんは花を摘むのがうまいなぁ」

 そう言ってにかりと笑い、リュカを抱き上げたまま、その場でくるりと回ってやる。その楽しげな動きに、リュカの涙はいつの間にか止まっていたのだった。

「……ありがとう」

 ひとしきり遊んだ後、涙の引いたリュカの頬に湿布を貼っていたとき、ジスランが小声でそう言った。

「俺ひとりでは、リュカを泣き止ませることもできなかった」

「いや、まあ、こういうのは慣れが必要すから」

 鍛錬場では威圧的な光を湛えていた眸が、いまは年相応の少年らしく、頼りなげに伏せられている。父親に似て冷たい性格なのかと思ったが、使用人相手に謝辞を言えるあたりは、案外素直な気性のようだ。

「むしろすいません、勝手に薬草園の花を摘ませちまって」

「気にするな。なんの問題ない」

「……せっかくならその花、今夜坊っちゃんの枕元に置いてやるといいすよ。頬が痛むでしょうから。菩提樹の香りは、眠りを助けてくれるはずです」

「……そうなのか?」

「なんなら、ふたりで分けて、ジスラン様も枕元に置くといいす」

 あなたもずいぶんお疲れのご様子なんで――とは、みなまで言わなかった。目の下にくまを作った青い顔が気にかかったのだが、目下の者に指摘されては、彼の矜持が傷つくと思ったのだ。

 弟をぞんざいに扱う気難しい父親と、幼い肩に伸し掛かる家名。彼を取り巻く環境の厳しさに、マルセルはこのとき、初めて思いを馳せたのであった。

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