4
ファイナが体調を崩したのは、それから数日後のことだった。
急に高熱を出し、食欲も失せてしまった。熱冷ましの薬を飲ませても大した効果は得られず、ベッドでうなされる日が続く。母が薬草園に何度も通い、熱病に聞きそうな薬を分けてもらったが、ファイナの熱は一向に下がる気配をみせなかった。
「なんで侍医はファイナを診てくれないんだ!」
冷たい水に浸した麻布を絞りながら、マルセルは苛立たしげにそう愚痴る。「静かにおし」と窘める母の声には、夜通し看病を続けた疲労が色濃く滲んでいた。
「お忙しいそうだよ」
「忙しいだぁ? 診察の依頼を出して丸二日、ちょっとも暇がないなんてあるかよ!」
「……町の施療院への、移動を勧められてる」
熱冷ましの煎じ液を吸い飲みに移しながら、母が強張った声でそう零す。ファイナの額に滲む汗を拭っていたマルセルの手が、あまりの衝撃に固まった。
「……冗談だろ?」
「いま冗談なんて言うもんか」
「ガルディアの娘を見捨てるつもりか? 貧者のための施設に追いやるってのか!」
「……だけど施療院にいれば、いまよりましな看護は受けられる。私が半端な世話を続けるより、ファイナのためになるのなら――」
「そういう問題じゃない!」
濡れた麻布を握り締めながら、マルセルは怒りに肩を震わせた。
「ガルディアは、――親父は! 命はってグラースを守ったんだぞ! 危険があろうが汚れ仕事だろうが、なんだってやった! そりゃあなぁ、俺たちは爵位もねぇ元異教徒で、使用人って立場にしちゃ破格の待遇を受けてるよ。でも高い給金支払えば、なんでも許されるってわけじゃねぇだろう」
「先代様のときまでは、いつも領主館の侍医が診てくれていたんだよ。それなのに、どうして当代様は……」
「なあ、母ちゃんの言う盟約は、いったいどうしちまったんだ。ガルディアの忠誠は、金で買われるようなものなのかよ!」
「――っ、大きな声、出さないどくれ。ファイナの身体に障る」
母が朦朧とするファイナの上体をゆっくり起こし、荒い呼吸を繰り返す小さな口に、吸い飲みを咥えさせる。俯いている母の眦に光るものが見えたのは、気のせいではないはずだ。
「マルセル、薬草園に行っておくれ。……熱冷ましがなくなってしまった」
怒りを通り越し、やるせなささえ覚え始めたマルセルは、ベッド脇のチェストに置かれていた水の盥に、麻布を乱暴に投げ入れる。
びちゃ、と飛び散った水滴が、ファイナのベッドの端を濡らした。
「あ! マルセルだ!」
嬉しそうなリュカの声が聞こえたのは、薬草園の侍女から薬を受け取っている時であった。直後、後ろから勢いよく腰に飛びつかれ、目の前にいる侍女にぶつかりそうになる。それを堪えて振り返ると、満面の笑みでマルセルを見上げるリュカと、困ったように眉を垂れるジスランがいた。
「すまない。こら、リュカ。急に飛びついたら危ないだろう」
「ジスラン様、リュカ坊っちゃん……」
「また会ったな。この薬草園は、リュカのお気に入りの場所なんだ」
「あー……、そうなんすね」
いま最も会いたくなかったグラース家の人間を前に、マルセルはどうにか感情を鈍らせようと、ふいと視線をそらした。ジスランは訝しげに眉を顰めたが、リュカは「ねえ、またいっしょに遊ぼうよ」などと無邪気に笑う。
それどころではないと断ろうとしたとき、リュカの左頬の痣が目に入った。先日の赤みはだいぶ引いたようで、いまは薄い青痣だけを残している。だが――
「……、それ」
引き攣る喉から呻きが洩れた。リュカのふくりと柔らかな頬が、てらてらと光っている。軟膏が塗りたてだという証に、なにやら嫌な予感がした。
「それ? ――ああ、リュカの頬か? もう心配ない。少しずつ治ってきてるだろう?」
「……軟膏塗ってますよね、それ」
「早く良くなるように、毎日塗っている。さっきも侍医に塗ってもらった」
「さっき――、侍医にだと?」
懸命に抑えていた怒りが、一気に沸騰した。侍女に渡された薬草入りの袋を投げ捨て、ジスランの胸倉を乱暴に掴む。慌てた侍女が「だめよ、マルセル君」と仲裁に入ったが、頑として手を離さなかった。
「ふざけるなよ」
声が震えた。ジスランは驚きに瞠目し、リュカは怯えて離れていく。
「こんな痣ひとつを診るのが、忙しい理由だってのか?」
「……マルセル、なんの話だ」
「侍医だよ! どうせ領主の指示なんだろ? グラースは、どこまでガルディアを見下せば気が済むんだ!」
噛みつかんばかりにそう叫び、ジスランの胸倉を揺する。その勢いに押され、のけ反りはしたが、異変を感じ取ったジスランは冷静であった。激高しているマルセルではなく、隣で狼狽える侍女に「どういうことだ?」と事情を尋ねる。
「ガ……ガルディア家の末のお嬢さんが、熱病を患っております」
「熱病? いつからだ」
「三日ほど前でございます」
「病状は?」
「芳しくありません。熱が下がらず、食事もままならないようです」
「侍医はなにをしている。診察をしていないのか?」
「はい、あの、それが……」
「『忙しい』の一点張りで、一度だってファイナを診てくれねえよ。しまいには町の施療院へ移れと言ってきやがった」
「なんだと? それに、ファイナって――この間リュカと遊んでくれた、あの子か?」
「そうだよ。……なあ、いい子なんだよ、ファイナは」
妹の苦しそうな寝顔を思い出し、胸が締め付けられるように痛んだ。しかし、こんな子供に怒りをぶちまけたところでなんになる―そう思うと、体中に張り詰めていた怒りがどろりと溶け、急激に気力が萎えていった。ジスランの胸倉から手を離すと、マルセルは取り落としていた薬草の袋を拾い上げ、その場を去ろうと歩き出す。
「領主は元異教徒が大層気に入らないらしいが……あんな小さな子まで憎むなんて、どうかしてるよ」
そう、去り際にぽつりと零した時であった。
「待て」
ジスランの手が、マルセルを引き止めるように肩を掴んだのだ。
「アメリ、リュカを頼む。この子の部屋まで送り届けてくれ」
「は―はい、承知しました」
「マルセル」
「……んだよ」
ジスランの顔も見ず、ぶっきらぼうに答えたが、返されたのは思わぬ言葉であった。
「俺を、その子のところに連れていけ」
「ジ、ジスラン様! なぜこのようなところに」
動揺するタリアの横を通り、ジスランはまっすぐにファイナの枕元へと歩み寄った。玉の汗が浮いた熱い額に触れ、その苦しそうな様子に唇を噛む。
「タリア、すぐにこの子の移動の準備をしてくれ。静養室に移す」
「な――」
「侍医に診させる。服、枕、おもちゃ、なんでもいい。その子が安心できるものがあれば、一緒に持っていって構わない」
そうはっきりと言い切ったジスランに、タリアの頬が歓喜に震えた。深々と頭を垂れたのち、チェストからファイナの着替えを取り出して、手早く鞄に詰め始める。
「お……おい、いいのかよ。父親の意に反することなんじゃないのか?」
マルセルが戸惑いながらそう問うたが、ジスランは「当然のことをしているだけだ」と
「むしろこちらが詫びねばならないくらいだ。アルバンは、……おまえの父親は、命を賭して我が父を凶刃から守り、盟約を果たした。その忠誠に、グラースは応える義務がある」
鞄に荷物を詰めていたタリアの手が、はっとしたように一瞬とまった。
「父上は……気難しいひとだ。アルバンの件では大変な心労をかけたと思う。それを繰り返してはいけないんだ。――だれか、手の空いている者はいるか?」
ジスランが部屋の外に向かって声をかけると、様子を伺っていた三名の〈
「静養室の侍女たちへ言伝を頼みたい。すぐに患者が行くから、万事整えておいて欲しい、と。それから、侍医が逃げ隠れしないよう捕まえておいてくれ。頼めるか?」
「御意にございます」
「ありがとう。タリア、準備は?」
「はい、大丈夫です」
「では行こう」
そう端的に指示を出した後、ジスランは誰にそうさせるでもなく、自らの手でファイナをベッドから抱き上げた。「すまない、少しだけ辛抱してくれ」と静かに語りかけてから、足早に部屋をあとにする。
母の眦に光ったものがほろりと零れたのを、マルセルは見逃さなかった。
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