第2話

 それは、突然起こったわ。

 さとみが、いつものようにわたしを弾いていた時。


 ぽすっ。


 嫌な音がしたわ。


 さとみは顔をしかめて、真ん中の「ファ」の鍵盤をもう一回弾こうとした。でも。

 今度は、ぼすっという鈍い音がするだけで、「ファ」の音が出ない。

 わたしの鍵盤は下がったまま、上がらなくなってしまったの。


 さとみは鍵盤を無理やりつまんで上げてみたけど、手を離した途端、下がってしまう。

「うそぉ、なにこれ。まさか壊れた? やだなぁ」

 さとみはそう言って、スマホを持ってきてどこかに電話しだしたわ。

 わたしも初めての経験よ。

 これじゃあ、例えば「きらきら星」なんて弾いたら、「ドドソソララソ、ぼすっぼすっ、ミミレレド」になっちゃうじゃない。

 どうにかならないかしら、これ。


「中で折れてる……。出張費……。あ、全部で三万ですか。三万あれば、直るんですね」

 そう言いながら、さとみの声はちょっと安心したようだったわ。

 でも、次の瞬間。さとみの顔はみるみるこわばっていったの。

「え、それってつまり直しても、次々他のところも同じようになる可能性が高いってことですか?」

 えっ。

「――少し、考えます。ありがとうございました」

 明らかに落ち込んだ顔で電話を切ったさとみは、珍しく私に話しかけてきた。

「相棒。……寿命、なんだって」

 寿命! ちょっ、聞いた?

「電子ピアノって、半永久的なものだと思ってた。だけどね……」

 そう言って、さとみは言葉を詰まらせながら、こう続けたの。

「『家電製品』と同じだから――なんだって」

 かっ、家電製品! ちょっと聞いた? このわたしが、家電製品ですって!

 いやまぁ、ぶっちゃけそうなんだけどさ……。


 それでも、さとみはわたしを手放そうとはしなかった。

「まだ一つだけだしね」なんて言うんだから、ほんと泣けるわよ。

 そうね、まだ一つ。真ん中の「ファ」が鳴らなくても、時々不意打ち喰らったみたいに「ぼすっ」て音が途切れるけど、なんとか我慢できるわ。

 さとみも、もう諦め半分で気にしてないみたいだったしね。


 でも、運命って避けられないのね。

 わたしの鍵盤は、一つ、また一つと動かないのが増えていった。

 わたしも、悲しいわ。

 さすがに3つの鍵盤が沈んだままになった時、もう駄目なんだなって、悟った。

 さとみと音楽が奏でられなくなってくるのも辛いけど。それよりもね、わたしは、さとみがだんだん悲しい顔になっていくのが、辛いの。

 音の鳴らない鍵盤を弾いた時の、その顔。やめてよ、わたしまで泣きそうになるじゃない。


 やがてさとみは、浮かない顔で次の相棒を探しに行くようになった。わたしは複雑だけどね、でもあんまり暗い顔して行くもんだから、逆に心配になったわよ。店員さんにびっくりされるんじゃないかって。

 で、たいてい帰ってきてはわたしの前に来て「あなたの代わりなんていない」なんて言うの。やだ、わたし鼻が無いのにツンとするじゃないの。

 いいのよ、わたしはもう、腹くくってるの。仕方ないのよ。さとみと過ごせる時間は、もうほんとうに少ないんでしょうね。でも受け入れるから。いい次の相棒に、出会えますように。

 そう祈ってるわ。


 それから一ヶ月くらい経ったころかな。

 ついにさとみは次の相棒を決めたみたい。

 電話で、日程の話をしていたわ。


 本当に、もうあと少しなのね。ふぅ、ついにこの時が来るのね。

 そしてお別れの前夜。子どもが寝静まってから、さとみはわたしのもとにやってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る