第3話
「一緒に、弾こう」
さとみは初めて、わたしを弾く前に声をかけたわ。12年経って、やっと言ったわね。
いいわ、今夜はお別れ会ね。一緒に、弾こう
じゃないの。
さとみは、いつもの流れで指慣らしから始めたわ。今動かない鍵盤は5つ。でも、もうあの悲しい顔しないのね。
そうよ、今日くらい、気にしないで時間を共有しましょ?
指慣らしが終わると、さとみから内蔵録音のボタンを押された。これ、わたしの中に演奏を録音できるやつね。
そして、さとみは弾き始めた。
いつものお気に入りの曲。昔弾いてたラブソング。友だちの結婚式で弾くために練習してたお祝いの曲。大人になってから挑戦して弾けるようになった曲。ずいぶん苦戦して意地になってたバッハ。
どこまで録音できるかわからないけど、とにかくめいっぱい、今までのわたしたちの軌跡を一緒に奏でたわ。
そうやって弾いている間にも、一つ、また一つと動かない鍵盤が増えていく。
ちょっと、わたしの鍵盤!ペース早いわよ、もうちょっともたないの?お願いあと少しだから。動かないのが増えるたびに、ほら、さとみの目から涙がこぼれてくるじゃない。
でもさとみは止まらない。
弾いて!たくさん弾いて!わたしたちの思い出、たくさん詰め込んで!
何時間経ったかしら。もう弾いたことのある曲は全部弾ききったわね。
さとみは息を震わせながら大きく吸って吐いて、その手をそっと鍵盤から離したわ。
ほら、涙拭きなさいよ。手で拭うだけじゃ間に合わないでしょ?
さとみはティッシュ箱とゴミ箱をそばに置くと、ヘッドホンをつけたまま、今度はわたしの再生ボタンを押したわ。
いいわよ、わたしたちの演奏、振り返りましょ。ほら……。
それからはもう、さとみはずっと目にティッシュを当てながら聴いてた。もう大人なのに、子どもみたいに泣き声出して。
やだもう、わたしまで泣けるじゃない。
こうして今までの演奏を振り返ると、いろんなこと思い出すわね。
わたしがさとみのところにやってきて12年。きっとさとみにとって、大きな変化がたくさんあった時期だったわね。ときに幸せで、ときに重くて。
でもね、わたし幸せだったわよ。
わたしに手があれば、抱きしめて上げられるのにね。代わりに、音で包み込むわ。
そう思ってたら。
――えっ?
さとみがわたしを抱きしめてきたわ。
あったかくて、やわらかい。さとみの体温が、胸に沁みる。
「ありがとう、相棒」
こちらこそ、さとみ。
ピンポーン。
業者さんかしら。さとみ、すっごく目が腫れてるからきっとびっくりされるわね。
「実は夜通し、お別れ会してたんですよね」
そう言いながら、さとみと業者さん2人が部屋に入ってきたわ。
さとみ、あんた業者さんにそんなこと言っちゃって。
「思い出、いっぱい内蔵メモリーに詰めたんです」
あらあら、涙声になっちゃって。
でも、業者さんわたしを見て、こう言ったわ。
「きれいなピアノですね。ずっと大切にされていたんですね。大事に運びます」
あら、いい男。
「あの、コンセント外していただいてもいいですか」
「あ、そうですよね。ちょっと待ってくださいね」
そう言って、さとみはコンセントに近づいてくる。
12年間刺しっぱなしで忘れてたけど、これ抜いたらわたし本当に止まっちゃうのよね。
さとみ、新しい相棒と仲良くやるの――
❋❋❋
トラックの荷台に積まれた電子ピアノ。ゆっくりと扉が閉まる様子を、さとみは唇を噛みながら見守っていた。
「では、失礼します」
業者がトラックに乗り込むと、トラックはゆっくりと走り出す。
(さよなら、相棒。いつもそばにいてくれてありがとう。あなたのこと、忘れない)
青空には秋の高い雲がかかっている。冷たさを含んだ風が、さとみの濡れたほほを撫でていく。
さとみは、トラックの姿が見えなくなるまで、ずっとその姿を見送っていた。
わたしはピアノ 音野彼方 @OtonoKanata
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