第1話:プチ覚醒

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——躁と鬱、その両極の波に振り回されるのが俺の病気だ。

けれど、その波の中でだけ目を覚ます“異常な感覚”がある。

躁のとき、脳は過活動し、ドーパミンとノルアドレナリンが過剰に放出される。

思考は加速し、相手の心の揺れや嘘さえ透けて見える。

だが同時に、神経は焼き切れるほど酷使され、終わった後は燃え尽きたように虚脱する。

鬱のときは逆だ。

全身が鉛のように重く沈む代わりに、扁桃体と交感神経が異常に働き、音や匂い、足音の間隔まで鋭く拾える。

その過敏さは危険察知になるが、呼吸は乱れ、心拍は暴走し、時に意識すら飛ぶ。

——そして稀に、躁と鬱が同時に走る瞬間がある。

脳波は乱れ、神経はスパークし、医者なら「てんかん発作に近い危険信号」と診断するだろう。

その刹那、時間は引き延ばされ、世界は立体的に浮かび上がる。

だが代償は、神経細胞の損耗と寿命の短縮。

長く続ければ、本当に壊れる。

だからこれは“特別な力”なんかじゃない。

病の副産物であり、命を削る錯覚だ。

わかっている。使えば使うほど、自分は確実に壊れていく。

……それでも俺は、この感覚にすがるしかない。

誰かが消され、真実が闇に葬られるのを、黙って見ているくらいなら——

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あの頃の俺には、心に決めていたはずのものがあった。

——二度と危険な場所には踏み込まない。

けど今は違う。

港湾地下通路の発見、茅葺グループ海外子会社への航路暴き、武装部隊との死闘——

命を賭けたあの一連の出来事で、俺は知った。

弱さも、病気も、全部が武器になる瞬間がある。

そして、その武器は俺ひとりのためじゃなく、世界中の仲間と分け合える。

もう、生き延びるためだけに動くんじゃない。

奪われたものを取り返し、まだ見ぬ闇を切り開くために——俺は前へ出る。

この命ごと燃やしてでも、進むしかないんだ。

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昼下がりのセーフハウス。

テーブルには淹れたばかりのコーヒー、奥のモニターでは光のアイコンが淡く揺れている。

椅子に腰を沈めていた深見蓮司は、ボサボサの髪に無精髭を残したまま、眠そうな目でカップを持ち上げた。

そのだらしなさは、張り詰めた空気の中で妙に人間味を漂わせている。

「……結局、あの夜が一番ヤバかったな」

その呟きに反応したのは、黒髪を短く整えた女だった。

黒のパンツスーツに白いシャツを合わせ、姿勢は隙なく正しい。

鋭く細められた瞳が、場の空気を一瞬で引き締める。

公安情報分析官・朝比奈藍——その存在感は、ただ座っているだけで緊張を生む。

「“境界”越えたってやつ?」

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蓮司は頷き、あの路地を思い返す。

前も後ろも武装した連中に塞がれ、銃口がこちらを狙っていた瞬間——

躁の直感と、鬱の感覚が同時に研ぎ澄まされ、時間が何倍にも伸びた。

足音の間隔、呼吸の速さ、トリガーにかかる指の音まで、すべてが立体図のように脳裏に浮かんでいた。

「正直……あれがなかったら、今ここにいない」

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《あの現象について、私は名前を付けました》

共振制御演算型AI・光の声が静かに響く。

「名前?」蓮司が目を細める。

《“プチ覚醒”です》

朝比奈が吹き出した。

「安っぽいネーミングね」

《正式には、“躁鬱感覚同時活性状態”ですが、日常的に使うには長すぎます》

「いや、そんな難しい病名みたいなの出されたら、余計ヤバく聞こえるだろ」

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光はあの瞬間の蓮司の生体データを映し出す。

心拍、脳波、反応速度——すべてがピークに達し、通常の数倍の処理能力を記録していた。

《極限状態でのみ発現する可能性があります。持続時間は短く、代償は大きい》

「まぁ、終わったあと、全身震えて意識飛びかけたけど」

朝比奈はコーヒーを口に含み、視線を落とす。

「使いどころを間違えたら、あっという間に潰れるわよ」

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蓮司はしばらく黙っていたが、ふっと笑みを漏らす。

「でも……あれがあるってわかっただけで、少しは戦える気がする」

《そのために訓練プランを再構築します》

「おいおい、また倒れるやつじゃねぇだろうな」

《安全性は……検討中です》

「今“検討中”って言ったな」

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窓の外では港のクレーンがゆっくり動き始めていた。

港湾地下通路も、海外の倉庫も、まだ解明していない。

蓮司は椅子にもたれ、天井を見上げた。

「……プチ覚醒、次は勝手にじゃなく、狙って使えるようにしてやる」

光のアイコンがわずかに明るくなる。

《では、第三幕を始めましょう》





■次回予告 ― 第2話「消えた記録」

東雲記念病院に届いた匿名の告発。「弟は第7病棟に移送された夜、突然死んだ」消えた記録、残された針跡、そして囁かれる“地下病棟”の噂。蓮司と光、そして朝比奈は、その闇に迫る。

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