第41話:怪物の学習能力
第一ラウンド終了のゴングが鳴り響いた直後、桐生刹那は静かに自軍の赤コーナーへと戻った。
マウスピースを外し、彼は専属コーチに冷静な声で告げる。
「……データ通りだ。いや、それ以下だな」
コーチは頷きながら、桐生の額の汗をタオルで拭う。
「ああ、完璧なラウンドだった。奴はもう焦れている。お前の動きに全くついてこられていない」
「ええ。ただの獣だ。身体能力だけで、ここまで勝ち上がってきただけの。第二ラウンドも、このまま外から削り続ける。奴が痺れを切らして突っ込んできたら……カウンターで沈める。それで終わりだ」
氷の戦略家は、すでに勝利への設計図を完璧に描き終えていた。
その設計図が、すでに過去のものであることに、まだ気づかずに。
カンッ!
第二ラウンド開始のゴングが、後楽園ホールに鳴り響いた。
インターバルを終え、リング中央へと歩を進める桐生選手の表情には、絶対的な自信が浮かんでいる。
第一ラウンドで、彼は挑戦者の全てを分析し、完璧に支配した。
この第二ラウンドで、その「解剖」を終わらせる。
観客も、解説者も、誰もがそう信じて疑わなかった。
『さあ、第二ラウンドが始まりました! 第一ラウンド、完璧な試合運びでポイントを先取した桐生! このラウンドで、どう怪物を仕留めるのか!』
桐生選手は、第一ラウンドと全く同じ動きで、リングを大きく使い始めた。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
彼の勝利の方程式だ。
彼は遠い間合いから、教科書のような鋭いジャブを放った。
第一ラウンド、何度も俺の顔面を捉えた、あの見えない槍。
だが。
その槍は空を切った。
「――なっ!?」
桐生選手の目に、初めて動揺の色が浮かぶ。
俺は、そこに立っていなかった。
彼がジャブを放つ、そのコンマ数秒前。
俺は、まるで未来を予知していたかのように、半歩だけ左に動いていたのだ。
『おおっと、かわした! 桐生の完璧なタイミングのジャブを、春海がまるで分かっていたかのように、最小限の動きでかわしました!』
桐生選手は、すぐに体勢を立て直し、サイドステップで距離を取ろうとする。
だが、その逃げ道は、すでに塞がれていた。
俺が彼の動きを先読みして、回り込んでいたからだ。
「……うそだろ」
桐生選手は、信じられないものを見るような目で、俺を見つめた。
俺のステップ。俺のフットワーク。
それは、まるで鏡に映した自分自身を見ているかのようだった。
いや、違う。
俺の動きは彼のそれよりも、速くそして鋭い。
『な、なんだこれは!? 春海の動きが、第一ラウンドとは全く違う! 桐生の動きに、完全に対応している! いや、対応しているというより、むしろ……』
『……上回っている』
アナウンサーの言葉を、解説席の木戸が震える声で引き取った。
『信じられない……。たった二分間のインターバルで、彼は桐生刹那というプログラムを完全に解析し、そして、自分のものにしてしまったというのか……。これが怪物の……学習能力!』
攻守が、完全に入れ替わっていた。
逃げる桐生。追う俺。
だが、俺は、ただ闇雲に追いかけているわけではなかった。
リングを巧みに使い、桐生選手を少しずつ少しずつコーナーへと追い詰めていく。
(どうして……!? 俺の動きが、全部読まれている……!?)
桐生選手の心の中に、初めて焦りという感情が生まれた。
ジャブは当たらない。
ステップは塞がれる。
彼の得意とする氷の戦略が、音を立てて崩れていく。
ついに、桐生選手の背中が、コーナーポストに触れた。
もう、逃げ場はない。
「――くっ!」
追い詰められた桐生選手は、覚悟を決めたようにガードを固めた。
だが、それは最悪の選択だった。
俺は待っていた。
この瞬間を。
俺は一気に距離を詰めると、嵐のような連打を叩き込んだ。
顔面へのワンツー。
ボディへのフック。
そして、ガードの隙間を縫うような、アッパーカット。
一発一発が、デビュー戦の時とは比べ物にならないほど、重く、そして速い。
『春海のラッシューっ! 桐生、防戦一方だ! ガードを固めるしかない!』
桐生選手は歯を食いしばり、その嵐が過ぎ去るのを、ただ耐えていた。
だが、彼の計算の中に一つだけ、致命的な見落としがあった。
俺の攻撃は、ただのパンチだけではない、ということを。
俺はパンチの連打の合間に、一瞬だけタメを作った。
そして、ガードを固める桐生選手のがら空きになった脇腹。
そこに三日月のようにしなる、左ミドルキックを深く突き刺した。
「―――がっ……!?」
桐生選手の体から、声にならない悲鳴が漏れる。
レバー。
完璧に急所を捉えていた。
彼の鉄壁のガードも、そして氷の頭脳も、この一撃の前には何の意味もなさなかった。
桐生選手の体が、ゆっくりとマットに崩れ落ちていく。
その目からは、もう光が消えていた。
俺は静かに拳を下ろし、自分のコーナーへと戻る。
「……終わりだ」
コーナーで真壁さんが静かに、だが確信に満ちた声で呟いていた。
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