第40話:氷の攻略
試合当日。
後楽園ホールは、前回をさらに上回る異常なまでの熱気に包まれていた。
チケットは発売開始から数分で完売。会場に入れなかったファンが外で大型ビジョンを見上げている。
怪物か一発屋か。
その答えが出る世紀の一戦を誰もが見届けようとしていた。
「――悠、どうだ。緊張しているか」
控室で真壁さんが静かに尋ねてきた。
俺はシャドーボクシングの手を止め、ゆっくりと頷く。
「はい。少しだけ」
その答えに隣で俺のグローブを確認していたユウトが、驚いたように顔を上げた。
俺が緊張を口にするなんて、初めてのことだったからだ。
「……そうか」
だが、真壁さんはただ満足そうに笑った。
「いい緊張だ。桐生は『氷』だ。お前は熱くなるな。冷静になれ。そして、お前の熱でその氷をゆっくりと溶かせばいい」
その言葉は不思議と俺の心を落ち着かせてくれた。
◇
『さあ、いよいよ始まります、K-STORMミドル級スペシャルマッチ! まずは青コーナーより、”フィジカルモンスター”春海悠の入場です!』
アナウンサーの絶叫。
俺は、またしても無音の中、静かにリングへと向かった。
だが、前回とは明らかに違う。
観客たちの視線には、期待と疑念が、熱狂と共に渦巻いていた。
前回の衝撃は本物だったのか。それとも、ただのまぐれだったのか。
誰もが、その答えを確かめるために、この場に集まっていた。
怪物の次なる一挙手一投足を、固唾を呑んで見守っている。
『そして、赤コーナー! 知性と技術で、全てを支配する氷の頭脳! K-STORMミドル級ランキング5位、”氷の戦略家”桐生刹那ーっ!』
クラシック音楽をアレンジした、荘厳な入場曲。
桐生選手は、まるでチェスの名人のように、冷静沈着な表情でリングに上がった。
その目には、絶対的な自信が宿っている。
『さあ、木戸さん! いよいよゴングです! パワーの春海か、テクニックの桐生か! どうご覧になりますか!』
『……分かりません。ただ一つ言えるのは、坂崎戦は、いわば事故でした。しかし、桐生選手は事故を起こさない。春海悠という怪物を彼がどう『解剖』するのか。それとも怪物が、その知性をも飲み込んでしまうのか。歴史的な一戦になりますよ』
解説席の木戸さんの言葉が、会場の緊張感をさらに高めていく。
◇
カンッ!
第一ラウンド開始のゴングが、鳴り響いた。
俺は中央へと歩を進める。
だが桐生選手は、そこにいなかった。
彼はゴングと同時に、蝶のようにリングを舞い始めたのだ。
『おおっと、桐生が動く! 徹底したアウトボクシングだ! 春海に全く距離を詰めさせません!』
俺が前に出れば彼はサイドステップでいなす。
俺が止まれば遠い距離から、針のように鋭いジャブを放ってくる。
パシッ。パシッ。
軽い音と共に、俺の顔面に的確なヒットが重なっていく。
ダメージはない。
だが、確実にポイントは奪われていた。
「……くそっ」
俺は、苛立ちを隠せないフリをして、強引に距離を詰め渾身の右ストレートを放った。
だが、その拳は空を切る。
桐生選手は完璧なタイミングのバックステップで、それをひらりとかわしていた。
『空振りーっ! 春海、完全に桐生の術中にはまっているか!? 彼のパンチが全く当たりません!』
観客席が、どよめく。
「やはり、本物のトップランカーは違う!」「怪物、攻略されるか!?」
そんな声が、聞こえてくる。
俺は、そんな喧騒の中、ただ冷静に相手を観察していた。
彼のステップのリズム。
ジャブを打つ前の、わずかな肩の動き。
ローキックを放つ時の視線の癖。
その全てを、この眼に、この身体に焼き付けていく。
(なるほどな。面白い)
俺の口元に笑みが浮かんでいることに、まだ誰も気づいていない。
桐生選手は、俺をただの獣だと思っている。
だから、彼は自分の持つ全ての技術を、出し惜しみなく俺に見せてくれている。
俺の身体が、その全てのデータを猛烈な勢いで吸収していることにも気づかずに。
カン、カン、カン!
第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
ポイントは明らかに桐生選手が取っていた。
彼は満足げな表情でコーナーへと戻っていく。
「悠、大丈夫か!? 全然当たってないぞ!」
コーナーに戻ると、ユウトが心配そうな顔で俺に叫んだ。
俺はマウスピースを外し静かに答えた。
「大丈夫だよ。むしろ、ありがとうって感じだ」
「はあ?」
「全部、見せてくれたからな。あの人の動きのパターン」
俺の言葉にユウトはきょとんとしている。
だが、真壁さんだけは全てを理解していた。
彼は獰猛な笑みを浮かべて、俺に言った。
「――なら、第二ラウンドで終わらせろ」
俺は静かに頷いた。
氷の戦略家への反撃のゴングは、もう間もなくだ。
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