第40話:氷の攻略

 試合当日。

 後楽園ホールは、前回をさらに上回る異常なまでの熱気に包まれていた。

 チケットは発売開始から数分で完売。会場に入れなかったファンが外で大型ビジョンを見上げている。

 怪物か一発屋か。

 その答えが出る世紀の一戦を誰もが見届けようとしていた。


「――悠、どうだ。緊張しているか」


 控室で真壁さんが静かに尋ねてきた。

 俺はシャドーボクシングの手を止め、ゆっくりと頷く。


「はい。少しだけ」


 その答えに隣で俺のグローブを確認していたユウトが、驚いたように顔を上げた。

 俺が緊張を口にするなんて、初めてのことだったからだ。


「……そうか」


 だが、真壁さんはただ満足そうに笑った。


「いい緊張だ。桐生は『氷』だ。お前は熱くなるな。冷静になれ。そして、お前の熱でその氷をゆっくりと溶かせばいい」


 その言葉は不思議と俺の心を落ち着かせてくれた。



『さあ、いよいよ始まります、K-STORMミドル級スペシャルマッチ! まずは青コーナーより、”フィジカルモンスター”春海悠の入場です!』


 アナウンサーの絶叫。

 俺は、またしても無音の中、静かにリングへと向かった。


 だが、前回とは明らかに違う。

 観客たちの視線には、期待と疑念が、熱狂と共に渦巻いていた。

 前回の衝撃は本物だったのか。それとも、ただのまぐれだったのか。

 誰もが、その答えを確かめるために、この場に集まっていた。

 怪物の次なる一挙手一投足を、固唾を呑んで見守っている。


『そして、赤コーナー! 知性と技術で、全てを支配する氷の頭脳! K-STORMミドル級ランキング5位、”氷の戦略家”桐生刹那ーっ!』


 クラシック音楽をアレンジした、荘厳な入場曲。

 桐生選手は、まるでチェスの名人のように、冷静沈着な表情でリングに上がった。

 その目には、絶対的な自信が宿っている。


『さあ、木戸さん! いよいよゴングです! パワーの春海か、テクニックの桐生か! どうご覧になりますか!』


『……分かりません。ただ一つ言えるのは、坂崎戦は、いわば事故でした。しかし、桐生選手は事故を起こさない。春海悠という怪物を彼がどう『解剖』するのか。それとも怪物が、その知性をも飲み込んでしまうのか。歴史的な一戦になりますよ』


 解説席の木戸さんの言葉が、会場の緊張感をさらに高めていく。



 カンッ!

 第一ラウンド開始のゴングが、鳴り響いた。

 俺は中央へと歩を進める。

 だが桐生選手は、そこにいなかった。

 彼はゴングと同時に、蝶のようにリングを舞い始めたのだ。


『おおっと、桐生が動く! 徹底したアウトボクシングだ! 春海に全く距離を詰めさせません!』


 俺が前に出れば彼はサイドステップでいなす。

 俺が止まれば遠い距離から、針のように鋭いジャブを放ってくる。


 パシッ。パシッ。

 軽い音と共に、俺の顔面に的確なヒットが重なっていく。

 ダメージはない。

 だが、確実にポイントは奪われていた。


「……くそっ」


 俺は、苛立ちを隠せないフリをして、強引に距離を詰め渾身の右ストレートを放った。

 だが、その拳は空を切る。

 桐生選手は完璧なタイミングのバックステップで、それをひらりとかわしていた。


『空振りーっ! 春海、完全に桐生の術中にはまっているか!? 彼のパンチが全く当たりません!』


 観客席が、どよめく。

 「やはり、本物のトップランカーは違う!」「怪物、攻略されるか!?」

 そんな声が、聞こえてくる。


 俺は、そんな喧騒の中、ただ冷静に相手を観察していた。

 彼のステップのリズム。

 ジャブを打つ前の、わずかな肩の動き。

 ローキックを放つ時の視線の癖。

 その全てを、この眼に、この身体に焼き付けていく。


(なるほどな。面白い)


 俺の口元に笑みが浮かんでいることに、まだ誰も気づいていない。

 桐生選手は、俺をただの獣だと思っている。

 だから、彼は自分の持つ全ての技術を、出し惜しみなく俺に見せてくれている。

 俺の身体が、その全てのデータを猛烈な勢いで吸収していることにも気づかずに。


 カン、カン、カン!

 第一ラウンド終了のゴングが鳴った。

 ポイントは明らかに桐生選手が取っていた。

 彼は満足げな表情でコーナーへと戻っていく。


「悠、大丈夫か!? 全然当たってないぞ!」


 コーナーに戻ると、ユウトが心配そうな顔で俺に叫んだ。

 俺はマウスピースを外し静かに答えた。


「大丈夫だよ。むしろ、ありがとうって感じだ」


「はあ?」


「全部、見せてくれたからな。あの人の動きのパターン」


 俺の言葉にユウトはきょとんとしている。

 だが、真壁さんだけは全てを理解していた。

 彼は獰猛な笑みを浮かべて、俺に言った。


「――なら、第二ラウンドで終わらせろ」


 俺は静かに頷いた。

 氷の戦略家への反撃のゴングは、もう間もなくだ。

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