第37話:嵐のデビュー

 試合当日。

 格闘技の聖地、後楽園ホールは、異様な熱気に包まれていた。

 メインイベントでもない、ただの新人デビュー戦。それも、相手は高校生。

 にもかかわらず、会場は立ち見客が出るほどの超満員だった。


「悠、準備はいいか」


 控室で、真壁さんが俺のバンテージを巻きながら、低い声で尋ねてきた。

 その隣では、ユウトが落ち着かない様子で、俺の試合用トランクスを何度も確認している。


「はい。いつでも」


 俺の答えは、短かった。

 不思議と、緊張はしていない。

 むしろ、これから始まる「面白いこと」に、心が躍っていた。


「いいか、悠。相手は格上だ。序盤は、絶対に深追いするな。相手の動きをよく見て、カウンターだけを狙え。お前の眼なら、必ず隙が見えるはずだ」


「分かってます」


 真壁さんの作戦は、シンプルだった。

 そして、それは俺が一番得意とする戦い方でもあった。



『さあ、今宵もやってまいりました、キックボクシング団体K-STORM! 解説は、もうお馴染み、木戸健司さんです!』


『どうも』


『いやあ、木戸さん、すごい熱気ですね! メインでもない、ただの新人デビュー戦で後楽園ホールがこれだけ埋まるなんて、私は記憶にありませんよ!』


『まあ、無理もないだろう。相手は、あの動画の『怪物』だからな。ネットのお祭り騒ぎが、本物か、ただの幻か。それを確かめにきた野次馬たちでいっぱいというわけだ』


『木戸さんも、その一人、ということですか?』


『フン……。俺は、ただの野次馬とは違う。本物か、偽物か。この目で見極めに来ただけだ』


 解説席で、木戸健司が、不敵な笑みを浮かべていた。

 やがて、会場の照明が落ち、入場ゲートにスポットライトが当たる。


『さあ、まずは青コーナーより、衝撃のデビュー戦! あの伝説の動画で、格闘技界を震撼させた謎の高校生! そのベールが、今夜、ついに剥がされる! ”フィジカルモンスター”春海悠ーっ!』


 リングアナウンサーの甲高い声が響き渡る。

 だが、その直後、会場は奇妙な沈黙に包まれた。

 鳴り響くはずの、入場曲が、ない。

 スピーカーからは、わずかなノイズが聞こえるだけだ。


『……ん? これは、音響トラブルでしょうか? 入場曲が流れません!』


『いや……違うな。あれを見ろ』


 木戸の声に促され、誰もがゲートに視線を注ぐ。

 静寂の中、俺は、ただゆっくりと、リングに向かって歩き出していた。

 派手なガウンも、パフォーマンスもない。

 ただ、前だけを見据えて、静かに歩を進める。

 その異様な光景に、観客たちは、ざわめくことすら忘れていた。

 無音の入場。

 それは、これから始まる嵐の前の、不気味な静けさのようだった。


 俺がリングに上がると、会場は期待と、そしてそれ以上の、疑念が入り混じったどよめきに包まれた。

 俺は、そんな喧騒を気にも留めず、ただ静かに、コーナーで体を揺らしていた。


 その直後。

 今度は会場の照明が激しく点滅し、スピーカーから鼓膜が張り裂けんばかりの、激しいヘヴィメタルが鳴り響いた。


『そして、赤コーナー! K-STORMの門番! 叩き上げのベテランファイター! ”クラッシャー”坂崎猛ーっ!』


 爆音と、レーザー光線の中、対戦相手の坂崎選手が、両腕を突き上げながら姿を現した。

 その目は、俺を「生意気なガキ」と見下しているのが、ありありと分かった。



 レフェリーが、リング中央で両者を呼び寄せる。

 俺と坂崎選手は、リングの中央で向き合った。


「いいか、クリーンに戦え。俺の指示に従うこと。以上だ」


 レフェリーの簡潔な指示。

 坂崎選手は、俺を睨みつけ、威圧するように顔を近づけてくる。

 俺は何も言わず、ただ静かにその目を見つめ返した。

 俺たちは、それぞれのコーナーへと戻った。


「忘れるな、悠」


 コーナーに戻ると、真壁さんが俺の肩を掴んだ。


「相手は、ただの人間だ」


 その言葉だけで、十分だった。


 カンッ!

 第一ラウンド開始のゴングが、鳴り響いた。

 俺はセオリー通り軽くグローブを合わせようと、右手を差し出した。

 だが、坂崎選手はそのグローブを合わせることなく、その瞬間に踏み込んできた。

 奇襲だ。

 セオリー無視の荒々しい左右のフック。

 新人である俺を最初のラッシュで潰してしまおうという魂胆だろう。


『おおっと! 坂崎、ゴング直後のグローブタッチに応じず、いきなり奇襲を仕掛けたーっ! なんという荒々しい戦い方だ!』


『相手が礼儀を重んじる新人だと見越して、その一瞬の隙を突いたな。ベテランの、いやらしいやり方だ』


『嵐のような連打だ! 春海、防戦一方! コーナーに追い詰められたーっ!』


 実況アナウンサーが絶叫する。

 観客席からは「ほら見ろ」「やっぱりな」という声が聞こえる。

 だが、俺は冷静だった。

 コーナーに追い詰められながらも、俺の体は最小限の動きで、その嵐のようなパンチを全て見切っていた。

 頭を振り、体を揺らし、バックステップ。

 坂崎選手のグローブは、俺の顔の数センチ手前を、何度も空しく通り過ぎていく。


『……ん? なんだ? クリーンヒットが、一発も入っていない……!?』


 解説席の木戸が、最初にその異常さに気づいた。


『避けている……! 坂崎の猛攻を全て完璧に避けているぞ、この高校生!』


 その言葉に、会場が再びどよめき始める。

 坂崎選手も自分のパンチが全く当たらないことに焦りの色を浮かべ始めていた。

 彼の呼吸が少しずつ荒くなっていく。

 そして、ついに最大の一撃を狙って大きく右のフックを振りかぶった。

 体が開いて、がら空きになった脇腹。


(――もらった)


 俺は、その大振りのフックをダッキングで潜り抜けた。

 そして起き上がりざま、軸足で床を蹴り腰ごと回す。

 独楽みたいな回転に、観客席から息を呑む音が聞こえた。


 視界の端で坂崎が振り向く。そこへ俺はさらに跳んだ。


 空中で踵がしなり遠心力が増す。

 狙いは一点、テンプル。


――ジャンピング・スピンフックキック。


 “カン”と硬い感触。

 俺の踵は吸い込まれるように坂崎のこめかみへと滑り込み、火花みたいな衝撃が指先まで走った。


 一瞬の静寂。

 次の瞬間、坂崎選手の巨体は糸が切れた操り人形のようにマットに崩れ落ちた。

 ピクリとも動かない。


「……うそだろ」


 観客席の誰かが呆然と呟いた。

 レフェリーが慌てて駆け寄り、ノーカウントで試合をストップする。

 ゴングが、けたたましく打ち鳴らされた。

 試合時間、わずか五十八秒。

 衝撃のKO劇だった。


 しんと静まり返っていた後楽園ホールが、やがて地鳴りのような爆発的な大歓声に包まれた。

 俺は、そんな狂騒の中心で何事もなかったかのように静かに息を整えていた。


『……見ましたか皆さん。私は今、信じられないものを見てしまいました』


 解説席で木戸が、震える声でマイクを握りしめていた。


『動画の怪物は本物でした。いや、本物などという言葉では生ぬるい。今夜このリングにとんでもない『伝説』が生まれました!』


 その夜。

 とあるジムのロッカールームで一人の男が、その試合の映像を無言で見つめていた。

 受付横のガラスケースには、K-STORMのチャンピオンベルトが静かに光っていた。

 不動の王者、城島龍也。

 その目に初めて未知の挑戦者に対する、警戒の色が浮かんでいた。

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