第38話:まぐれの一発
衝撃のデビュー戦から、一週間が過ぎた。
俺の日常は、何も変わらない。
午前中は高校の授業を受け、昼休みはユウトや夏希と購買のパンを奪い合い、放課後は真壁さんのジムで汗を流す。
あのリング上の熱狂が、まるで遠い世界の出来事だったかのように、俺の時間は穏やかに流れていた。
「――お前、本当に気にしてないんだな」
ジムの休憩中、ユウトが呆れたように、俺にスマホの画面を見せてきた。
そこには、格闘技専門ニュースサイトの、俺に関する特集記事が映し出されている。
見出しは、『怪物か、それとも一発屋か。春海悠の実力に専門家たちの意見が真っ二つ』。
「別に。何を言われても、俺がやることは変わらないし」
「俺は、めちゃくちゃ腹立つけどな!」
ユウトが、自分のことのように憤慨しながら、記事に寄せられたコメントを読み上げていく。
俺のデビュー戦のKOシーンは、今もなおネット上で熱狂を呼び続けていた。
だが、その熱狂が大きくなるにつれて、同時に懐疑的な声もまた大きくなっていたのだ。
『確かにすごいKOだったけど、坂崎が油断しすぎただけだろ』
『あんな大振りのフックに合わせるなんて、まぐれ当たりだよ。もう二度とできない』
『身体能力だけで勝っただけ。本当の技術を持った相手とやったら、すぐに化けの皮が剥がれる』
『次は、頭を使うテクニシャンタイプの選手とやらせてみたいもんだな』
称賛と猜疑心。
世間の評価は真っ二つに割れていた。
俺は、まだ「本物」とは認められていない。
ただの「まぐれ当たりを引いた、話題の新人」として見られている。
◇
『――さて、木戸さん。先日の春海選手のデビュー戦、改めて、どうご覧になりましたか』
その夜、放送された格闘技情報番組で、司会者が解説者の木戸健司に尋ねた。
木戸は腕を組み難しい顔で答える。
『KOシーンだけを見れば百点満点、いや、百二十点の衝撃でした。ですが……』
木戸は言葉を区切った。
『あれは果たして実力だったのか。それとも、ただの幸運だったのか。正直に言って私にもまだ分かりません』
スタジオがざわつく。
あれだけ俺を絶賛していた木戸の意外な言葉だった。
『確かに彼の身体能力と反応速度は規格外です。ですがベテランの坂崎選手が、あまりにも無警戒に大振りのフックを振ってしまったのも事実。あのKOは春海くんの実力と、坂崎選手の油断という二つの幸運が重なって生まれた、奇跡の一発だったのかもしれない』
木戸はカメラのレンズを真っ直ぐに見つめて言った。
『彼が本物かどうか。その答えは次戦で明らかになるでしょう。相手が頭脳と技術で戦う本物のトップランカーだった時に、彼が一体どんな戦いを見せるのか。……私も一人の格闘技ファンとしてそれが見てみたいですね』
木戸のその言葉は、まるで次なる嵐の到来を予言しているかのようだった。
◇
「――面白いこと言ってくれるじゃねえか」
ジムの会長室。
真壁さんが、そのテレビ番組を見ながら獰猛な笑みを浮かべていた。
その隣でK-STORMのプロモーターが、興奮を隠しきれない様子で身を乗り出す。
「見ましたか、真壁さん! 世間は、春海くんの実力を疑っている! だが、だからこそ、次の試合が、とんでもないビッグビジネスになるんですよ!」
「……次の相手は決まったのか」
「ええ。最高の相手が見つかりました。ファンも、メディアも、そしてアンチも、誰もが納得する、最高の『鑑定人』がね」
プロモーターは、一枚のプロフィール用紙を机の上に置いた。
そこに映っているのは、氷のように冷たい目をした、一人の青年の写真だった。
◇
「――悠。次の試合が、決まったぞ」
数日後。
練習を終えた俺に、真壁さんが告げた。
その顔は、これまでで一番、楽しそうだった。
「世間は、お前のことを『まぐれの一発屋』だと言っている。お前の実力を、まだ信じていない。だから、次の相手は、お前とは正反対の男を用意した」
真壁さんが俺に一枚の対戦決定ポスターを手渡す。
そこには俺の写真と、そして、あの氷のような目をした青年の写真が並んでいた。
「相手はK-STORMミドル級ランキング5位、桐生刹那。異名は『氷の戦略家(アイスストラテジスト)』。徹底したデータ分析と相手の長所を完璧に封じ込める、クレバーな戦術を得意とする、超絶テクニシャンだ」
桐生刹那。
その名前は俺も聞いたことがあった。
KO率は低いが相手を完封して、判定で確実に勝利をもぎ取る、団体屈指の技巧派だ。
「面白いだろ? 獣の『本能』を持つお前と、氷の『頭脳』を持つ桐生。これ以上ない、分かりやすい構図だ」
俺はポスターに映る桐生選手の、全てを見透かすような冷たい目をじっと見つめた。
坂崎選手とは全く違う種類の強者の匂い。
「……いいですね」
俺の口から、自然と言葉が漏れた。
「俺が本物かどうか。その試合ではっきりさせましょう」
俺の目に静かな、だが燃えるような闘志が宿るのを真壁さんはただ満足そうに見ていた。
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