第26話:砂場に描く放物線
俺が予選で叩き出した中学新記録の衝撃は、すぐにスタジアム全体へと伝播していった。
電光掲示板に表示された「10.58」の数字の前では、多くの選手やコーチたちが、信じられないものを見るように立ち尽くしている。
「……おい、見たかよ、今の」
「ああ……なんだよ、あいつ。一人だけ別の世界の住人みたいだったぞ」
「あれで流してたんだろ……? 決勝になったらどうなっちまうんだ……」
ざわめきと、畏怖と、そして少しの嫉妬が入り混じった空気。
その全てが、心地よかった。
◇
「――ふざけやがって……。あんなの、反則だろ」
観客席で黒川京介が忌々しげに吐き捨てた。
その隣で、神崎蓮は静かに、だが燃えるような目でトラックを去っていく俺の背中を見つめていた。
「いや……違う、黒川。あれは、反則なんかじゃない」
「何が違うって言うんだよ! あんなの、才能だけで走ってるだけじゃねえか!」
「才能だけか。……そうかもしれない。だが俺たちが見てきた『才能』とは、種類が違う」
神崎は静かに語り始めた。
「俺はあいつがミットを打つのを見た。お前はあいつがボールを蹴るのを見た。そしてあいつはこの夏、野球のバットを振り、剣道の竹刀を握ったと聞く」
「それがどうしたって言うんだ」
「全てが繋がっているんだよ。サッカーで培った瞬発的な踏み込み、野球で鍛えられた体幹の強さ剣道で研ぎ澄まされた集中力。あいつがこの夏に経験した全ての競技が互いに影響し合い、今あの走りを生み出している。俺たちが一つの道を極めようとしている間に、あいつは全く違うやり方でとんでもない高みに登り詰めていたんだ」
神崎の言葉に黒川は押し黙る。
ただの天才ではない。
様々な分野の動きを瞬時に理解し、自分の力として融合させてしまう、規格外の学習能力。
それこそが春海悠という『怪物』の本質だった。
「……面白いじゃないか」
神崎は、不敵な笑みを浮かべた。
「あいつを倒すには、俺も俺だけのやり方で、もっと強くならなきゃな」
ライバルたちの心にもまた新たな炎が灯っていた。
◇
百メートル予選の興奮が冷めやらぬ中、俺は次の種目のためにフィールドの内側にある砂場へと移動していた。
男子走り幅跳び決勝。
「幅跳びなんて、体育の授業でやったくらいだろ? 大丈夫なのかよ」
ユウトが、心配そうに声をかけてくる。
「まあ、なんとかなるだろ。助走をつけて遠くにジャンプするだけだし」
「その『だけ』が難しいんだっての……」
他の選手たちは、入念に助走の歩数を合わせたり、コーチとフォームの確認をしたりしている。
そんな中、俺はただ屈伸をしながら自分の跳躍順を待っていた。
専門的な練習なんてしたこともない。
でも不思議と負ける気はしなかった。
「八番、春海悠くん、桜川中学校」
アナウンスが響き、俺は助走路に立った。
しんと静まり返る、スタジアム。
百メートル予選での衝撃的なデビューの後、俺の跳躍に注目が集まらないわけがなかった。
(さて、とりあえず一本、跳んでみるか)
俺は深く息を吸うと、地面を蹴った。
考えるな。
ただ走れ。
サッカーで相手ディフェンダーをぶち抜く時の、あの感覚で。
助走のスピードが他の選手たちとは明らかに次元が違っていた。
「――速い! 助走が、百メートルのスプリントそのものだ!」
実況席から、驚きの声が上がる。
踏切板が、あっという間に目の前に迫る。
俺は野球のバッティングで培った体幹の力を使って、その爆発的なスピードを全て上への力に変える。
地面を思い切り踏み抜いた。
ドンッ!
体がふわりと宙に浮く。
風が体を押し上げるような、不思議な浮遊感。
剣道で学んだ、空中での姿勢制御。
体がブレない。
美しい放物線を描き、俺の体は砂場の遥か彼方へと吸い込まれていった。
ザシュッ、という音と共に砂が舞う。
俺は軽く両足で着地すると、何事もなかったかのように立ち上がり砂を払った。
スタジアムが息を呑んで、審判の計測を待っている。
やがてアナウンスが響き渡った。
『――た、ただ今の記録、7メートル52! 7メートル52! こ、これも中学新記録だーっ! 一本目の跳躍で、いきなり、とんでもない記録が出ました!』
爆発する、歓声とどよめき。
他の選手たちは、自分たちの記録を遥かに超える数字を前にして、ただ呆然と立ち尽くしている。
「……おい、見たかよ、今の」
記者席で、森が震える声で呟いた。
「助走、踏み切り、空中姿勢、そして着地。どれ一つとして、洗練された技術はなかった。だがその全てを、あの圧倒的な身体能力が凌駕してしまった……! あいつは常識で測ることはできない!」
ユウトが、フェンス際で口をあんぐりと開けている。
俺はそんな喧騒を背に、ユウトの元へと歩み寄った。
「なあ、ユウト。今のでなんか変なとこあった?」
「変なとこだらけだよ! なんだよ、あのジャンプは!?」
「いやなんか、踏み切る時にちょっとだけ足が詰まった感じがしてさ。次もう少しだけ手前から踏み切ったらもっと飛べる気がするんだけど」
俺の言葉にユウトは天を仰いだ。
「……お前、まだ飛ぶ気かよ」
伝説の夏はまだ中盤戦。
怪物の本領は、まだその底を誰にも見せていなかった。
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