第25話:怪物の本領
剣道での衝撃的な全国優勝から、約二週間後。
夏の終わりを告げるかのように、ツクツクボウシが鳴く声が聞こえる。
俺とユウトは新幹線に乗り、この夏最後の決戦の地へと向かっていた。
「なあ、悠。さすがに今回は緊張してるだろ?」
車窓を流れる景色を眺めながら、ユウトがニヤニヤして聞いてくる。
「別に。いつも通りだよ」
「嘘つけ! サッカー、野球、剣道って、お前の噂、とんでもないことになってるんだぞ! ネットのスポーツ掲示板、お前の話題で持ちきりだぜ。『陸上の全中にもエントリーしてるらしい』って」
ユウトがスマホの画面を見せてくる。
そこには、俺の活躍をまとめた匿名の記事や、憶測交じりのコメントが溢れていた。
(……面倒なことになったな)
でも嫌な気はしなかった。
むしろ最高の舞台が整ったとさえ思っていた。
サッカーも野球も剣道も楽しかった。
だけどここが一番しっくりくる。
ただひたすらに、自分の体の限界と向き合い、速さを競う。
そのシンプルな世界が、俺は一番好きだった。
◇
全国中学校体育大会、陸上競技の部。通称、全中。
会場となった巨大なスタジアムは、全国から集まったトップアスリートと、その関係者たちの熱気でむせ返るようだった。
「うわ……デカい。武道館とも、野球場とも違う、独特の雰囲気だな」
観客席の多さと、広大なフィールドを見渡し、ユウトが息を呑む。
俺たちの到着と時を同じくして、観客席の一角も、にわかにざわつき始めていた。
「おい、見ろよ。あれ、月刊『中学スポーツ』の記者たちだぞ」
「あっちには、高校のスカウトが何人もいる……野球やサッカーの有名校のジャージまで見えるぞ。なんで陸上の大会に?」
彼らの目当ては、ただ一人。
この夏いくつもの競技で、常識外れの伝説を打ち立ててきた、謎のスーパー中学生。
春海悠、その本人だった。
「――間違いない。俺が追いかけてきた『怪物』は、あいつだ」
記者席でスポーツ記者の森が、双眼鏡を覗きながら確信に満ちた声で呟いていた。
彼の隣で同僚が呆れたように言う。
「森さん、まだ言ってるんですか。サッカーと野球と剣道と陸上、全部で全国レベルなんて、漫画じゃないんですから……」
「見れば分かるさ。伝説の目撃者になる準備をしておけ」
森は不敵な笑みを浮かべていた。
◇
最初の種目は、男子百メートル予選。
俺は軽く体を動かしながら、自分の名前がコールされるのを待っていた。
体の調子は最高だ。
サッカーの瞬発力、野球の体幹、剣道の集中力。
この夏に経験した全てが、俺の体をさらに上の次元へと引き上げてくれているのが分かる。
「第四レーン、春海悠、桜川中学校」
アナウンスと共に、俺はスターティングブロックに足をかけた。
スタジアム中の視線が、自分に突き刺さるのを感じる。
その中には見知った顔もあった。
観客席の片隅でボクシングジムで出会った神崎蓮と、サッカーの試合で見た黒川京介が、腕を組んで俺のことを見下ろしている。
(……面白い。全員、まとめて見てろよ)
俺は静かに笑みを浮かべた。
見せてやる。
俺の本領を。
『位置について』
静寂。
『よーい』
全ての音が、消える。
パンッ!
号砲と同時に、俺の体は弾丸のように飛び出した。
完璧なリアクションスタート。
他の選手たちが一歩目を踏み出す頃には、俺はもう三歩先にいた。
加速、加速、加速。
中間地点を過ぎたあたりで、俺はトップスピードに乗る。
だが、まだだ。
まだ全力じゃない。
予選だ。
力をセーブし、軽く流すように、ゴールラインを駆け抜ける。
一位なのは分かっていた。
問題はタイムだ。
俺はゆっくりと振り返り、電光掲示板を見上げた。
そこに表示された数字に、スタジアムは一瞬の静寂の後、爆発した。
『――た、た、タイムは、10秒58! 10秒58! こ、これは、中学新記録! 中学新記録です! 予選で、しかも、まるで流しているかのような走りで、いきなり中学記録を更新してしまいましたーっ!』
実況アナウンサーの、裏返った絶叫が響き渡る。
どよめき、悲鳴、そして、信じられないものを見たという唖然とした空気。
記者席で、森が「見たか!」と叫びながらガッツポーズをした。
スカウトたちは、呆然と口を開けたまま、手元の資料を握りしめている。
観客席の神崎と黒川は、その目に驚愕とそしてそれ以上の燃えるような闘志を宿していた。
その狂騒の中心で、俺はただ静かにトラックを後にした。
ユウトが、興奮して駆け寄ってくる。
「お、おま……! 今の、本気じゃなかっただろ!?」
「まあね。体慣らしだよ」
俺は屈伸をしながら、平然と答えた。
「体の調子すごくいい。決勝ならもっと出せるよ」
怪物の咆哮は、まだ始まったばかりだった。
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