第27話:異次元のコーナーワーク

 走り幅跳びでの中学新記録樹立から、約一時間後。

 スタジアムの熱気は下がるどころか、むしろ異常なまでに高まっていた。

 観客たちは次の種目の開始を今か今かと待ちわびている。

 彼らのお目当てはもちろん俺だ。


「……なあ、ユウト。俺なんか動物園のパンダみたいになってないか?」


「パンダなんてもんじゃねえよ。新種の恐竜だお前は」


 ウォーミングアップをしている俺の元へ、ユウトが呆れ顔でペットボトルを差し出してくれた。

 観客席からは無数のスマホやカメラのレンズが、こちらに向けられているのが分かる。


「次、二百メートル決勝だろ? さすがに記録更新はもう無理なんじゃないか? 百メートルと幅跳びの後だぞ」


「さあ、どうだろうな。でも体はまだ全然軽いよ」


 俺の言葉は嘘ではなかった。

 サッカーの試合で九十分間走り続けた時の疲労に比べれば、今の消耗などないに等しい。

 むしろ二つの種目を終えて、体は完璧に温まっていた。

 最高のパフォーマンスが出せる、という確信があった。



 男子二百メートル決勝の時間が、やってきた。

 スタートラインに並ぶ八人の選手。

 その中で俺以外の七人の顔には、諦めとそしてある種の好奇心が浮かんでいた。

 もはや勝とうなどとは思っていない。

 ただこの怪物が、一体どこまでの走りを見せるのか。

 それを一番近くで見届けたい。

 そんな観客に近い心境だった。


「第四レーン、春海悠、桜川中学校」


 俺の名前がコールされると、スタジアムは今日一番の歓声に包まれた。

 俺はその歓声に応えるように軽く手を上げる。


(二百メートル……。コーナーをどう走るかだな)


 百メートルとは違い、二百メートルにはカーブがある。

 遠心力に負けず、いかにスピードを落とさずに直線を迎えるか。

 それが勝負の鍵だ。


(……サッカーのドリブルと同じか)


 相手を抜き去る時、体を内側に傾けて相手の重心の逆を取る。

 あの感覚。

 俺の体はどうすれば力を最大限に発揮できるかもう知っていた。


『位置について』


 スターティングブロックに、足をかける。


『よーい』


 腰を上げる。

 静寂がスタジアムを支配する。


 パンッ!


 またしても完璧なスタート。

 俺は最初の数歩で、他の選手たちを置き去りにした。

 そして最初のコーナーが目の前に迫る。

 他の選手たちが遠心力に耐えるために、わずかにスピードを緩める。


 だが俺は加速した。


「――なっ!?」


 観客席の神崎が思わず声を上げる。

 黒川も信じられないものを見るように、目を見開いている。


 俺の体は、まるでバイクのように地面スレスレまで深く内側に傾いていた。

 普通ならバランスを崩して転倒してしまうような、異常な角度。

 だが野球のバッティングで鍛え上げた、強靭な体幹がそれを可能にしていた。


 俺はコーナーをまるで直線であるかのように、一切の減速なく駆け抜けていく。

 異次元のコーナーワーク。

 最後の直線に入った時には、二位の選手との差は絶望的なまでに開いていた。


(……ここからだ)


 俺は最後のギアを上げた。

 百メートルの時と同じ爆発的な加速。

 観客席からはもはや歓声ではなく悲鳴に近い声が上がっていた。


 ゴールラインを俺はただ一人、駆け抜ける。

 そしてゆっくりと振り返り電光掲示板を見上げた。


『――タイム、20秒88! 20秒88! し、信じられません! またしても中学新記録! それも従来の記録をコンマ5秒以上も更新する、とんでもない記録です! これはもはや高校生の全国大会でも優勝できるタイムだーっ!』


 実況アナウンサーが興奮のあまり、何を言っているのか分からなくなっている。

 スタジアムはもはやお祭り騒ぎだった。

 三種目連続、中学新記録での優勝。

 伝説はもはや疑いようのない現実となっていた。


「……化け物が」


 記者席で森が震える声で呟く。

 もはや驚きを通り越して、笑うしかなかった。

 常識という名の物差しが、目の前で何度も何度も叩き折られていく。


 俺はそんな喧騒をどこか他人事のように感じながら、ユウトの元へと戻った。


「なあ、ユウト。次のリレーまで、あとどれくらいだっけ?」


「……お前、まだ走る気かよ」


 ユウトの心の底から呆れたような声が、夏の空に響いていた。

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