第20話:ダイヤモンドの奇跡

 翌日、俺とユウトは、全国大会の決勝が行われる巨大なスタジアムの前に立っていた。

 じりじりと肌を焼く太陽。地鳴りのような応援の声。

 昨日までのサッカー会場とは、また違う種類の熱気が渦巻いている。


「本当に来ちまったな……」


 ユウトが、ゴクリと唾を飲むのが分かった。


「ああ。面白くなってきた」


 俺たちは、監督に指定された集合場所へと向かった。

 そこには、すでに「湊スターズ」の選手たちが集まっていた。みんな、俺と同じ中学生のはずなのに、何年も野球を続けてきた者の、引き締まった顔つきをしている。


「君が、春海悠くんか!」


 俺に気づいた野々村監督が、駆け寄ってきた。

 その隣には、少し緊張した面持ちの鈴木がいる。


「監督、こいつです! 俺の言ってた、春海悠!」


「ああ、分かっている。よく来てくれた、春海くん。本当にありがとう」


 監督は、俺の肩をがっしりと掴んだ。その手からは、この一戦にかける監督の想いが、痛いほど伝わってきた。

 監督から、真新しいユニフォームを手渡される。

 背番号は、空いていた「20」。

 チームメイトたちの視線が、俺に突き刺さる。

 そこにあるのは、期待よりも、戸惑いと疑いの色だった。

 無理もない。どこの誰とも分からない素人が、いきなり決勝戦のベンチに入るのだから。


「みんな、紹介する! 我がチームの『秘密兵器』、春海くんだ!」


 監督の言葉に、選手たちは「……ウス」と、力なく返すだけだった。

 俺は、何も言わずに深々と頭を下げた。

 言葉はいらない。

 結果で、証明するしかない。



 試合は、息の詰まるような投手戦になった。

 湊スターズのエースピッチャーは、評判通りの素晴らしいピッチングで、相手の強力打線をゼロに抑え込んでいる。

 だが、湊スターズの打線も、相手エースの前に沈黙していた。


 スコアは、0対0。

 均衡が破れたのは、最終回の表だった。

 湊スターズのエースが、連投の疲れからか、ついに相手打線に捕まった。

 ヒットとフォアボールで満塁のピンチを招くと、タイムリーヒットを浴びて、ついに1点を失ってしまう。

 スコアは、0対1。

 絶望的な状況で、最終回の裏、湊スターズの最後の攻撃が始まった。


 俺は、ベンチの最前列で、バットを握りしめながらその時を待っていた。

 いつ、声がかかってもいいように。


 ワンアウトの後、キャプテンが意地のヒットで出塁する。

 だが、次のバッターは三振に倒れ、ツーアウト。ランナー一塁。

 あと一人で、試合終了。

 絶体絶命の場面で、ついにその時が来た。


「――春海くん」


 野々村監督が、俺の目を見て言った。


「頼めるか」


「はい」


 俺は、短くそう答えると、ヘルメットをかぶって立ち上がった。


『湊スターズ、選手の交代をお知らせします。代打、春海くん』


 スタジアムが、どよめいた。

 誰だ、あいつは?

 今まで一度も試合に出ていない選手を、なぜこの土壇場で?

 相手チームのベンチも、困惑しているのが分かった。


 俺は、そんな喧騒を背中に受けながら、ゆっくりとバッターボックスに向かった。

 土の感触を、スパイクの裏で確かめる。

 深く、息を吸う。

 心臓が、うるさいくらいに高鳴っていた。

 でも、不思議と怖さはなかった。


(最高の、舞台じゃないか)


 俺は、不敵な笑みを浮かべた。

 相手ピッチャーは、今大会ナンバーワンと名高い剛腕投手。

 その目には、明らかに俺を見下す色が浮かんでいた。


 ツーストライクとあっという間に追い込まれたが、俺の集中力は極限まで高まっていた。

 ピッチャーの指先の動き、肩の開き、踏み出す足の角度。

 その全てが、スローモーションのように見え始める。


(次は、外のスライダー。それで、勝負に来る)


 俺は、確信していた。

 白球が、その手から放たれる。

 やはり、外のスライダー。

 ストライクゾーンから、ボールゾーンへと逃げていく、決め球。


 だが。


(――甘い)


 俺は、そのボールが曲がり始める、ほんの一瞬前。

 ストライクゾーンを通過する、その一点だけを狙っていた。

 体を、コマのように回転させる。

 持てる力の全てを、バットの先に込めて。


 たった一度の、フルスイング。


 カキィィィン!


 スタジアム中の音が、一瞬だけ消えた。

 金属バットの芯で捉えた打球は、ライナーとなって右中間を切り裂いていく。

 一塁ランナーのキャプテンが、必死の形相で二塁を蹴り、三塁へ向かう。


「回れーっ!」


 ベンチから、野々村監督の絶叫が響く。

 打球が外野を転々とする間に、キャプテンは三塁を蹴り、ホームへと突っ込んだ。

 クロスプレー。

 砂埃が舞い上がる中、審判の両腕が、大きく横に広がった。


「セーフ!」


 起死回生の、同点タイムリーヒット。

 スコアは、1対1。

 俺は、二塁ベース上で力強くガッツポーズをした。

 試合は、延長戦へと突入する。



「……監督、すみません。もう、肩が……」


 延長回のマウンドへ向かおうとしたエースピッチャーが、ベンチ前で崩れ落ちた。

 連投の限界だった。

 チームに、再び絶望の色が広がる。

 信頼できるピッチャーは、もう残っていない。


 その時だった。

 野々村監督が、俺の元へ駆け寄ってきたのは。


「春海くん。君しか、いない」


 監督は、試合前のウォーミングアップで俺が見せた、遊びのキャッチボールを思い出していた。

 他の選手とは比較にならない、しなやかな腕の振りから放たれる、糸を引くようなボールの軌道を。


「ピッチャー、頼めるか」


「……はい」


 俺は、静かに頷いた。

 グローブを借り、マウンドへ向かう。

 スタジアム中が、ありえない光景に息をのんでいた。

 さっき代打で出てきた無名の選手が、ピッチャーとしてマウンドに上がっているのだから。


 だが、その驚きは、俺が第一球を投げた瞬間、絶叫に変わった。


 ズドンッ!


 サッカーや陸上で鍛え抜かれた全身のバネを使って投げ込まれたボールは、キャッチャーが構えたミットに、轟音と共に突き刺さった。

 電光掲示板に表示された球速は、中学生のレベルを遥かに超えていた。


「う、うそだろ……」


 相手バッターは、腰が引けている。

 俺は、その後も淡々と、自分の持つ力の全てを込めて腕を振った。

 一人目、空振り三振。

 二人目、見逃し三振。

 三人目、空振り三振。

 圧巻の、三者連続三振。


 完全に、流れは湊スターズに傾いた。

 その裏の回。

 俺のピッチングに勇気づけられた仲間たちは、先頭バッターがヒットで出塁すると、送りバントと盗塁で、ワンアウト三塁のチャンスを作る。


 そして、次のバッターが放った打球は、レフトへの浅いフライだった。

 タッチアップには、ギリギリのタイミング。

 だが、三塁ランナーは、迷わずスタートを切った。


 バックホーム。

 クロスプレー。

 砂埃が舞い上がる中、審判の腕が、力強く突き上げられた。


「……セーフ!」


 サヨナラ勝ち。

 その瞬間、湊スターズの選手たちは、マウンドにいた俺の元へ、雄叫びを上げながら駆け寄ってきた。


「うおおおおっ!」


 俺は、仲間たちにもみくちゃにされながら、空に向かって拳を突き上げた。

 打って、投げて。

 最高の仲間たちと掴んだ、最高の勝利。

 ダイヤモンドに起きた奇跡は、俺の夏の伝説に、また新たな1ページを刻み込んだ。

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