第21話:静寂と、一閃
野球の全国大会から数日後。
夏の太陽がじりじりとアスファルトを焼く中、俺はユウトと一緒に、自販機のアイスを食べていた。
「しかし、すごかったな、お前のホームラン。マジで鳥肌立ったぞ」
「まあ、たまたまだよ」
「たまたまであんなの打てるか! しかも、その後のピッチング! あれ、もう漫画の世界だろ」
ユウトは、まだ興奮冷めやらぬといった様子で熱弁している。
確かに、自分でも少し出来過ぎだったとは思う。
でも、それ以上に、最高の仲間たちと掴んだ勝利の味は、格別だった。
「で、次は何やるんだ? お前、夏休みまだ半分以上あるぞ」
「んー、どうしようかな。特に何も考えてないけど」
サッカーも野球も、最高の形で終わった。
次は、どんな「面白いこと」が待っているんだろうか。
そんなことを考えていると、不意に声をかけられた。
「――あの、春海くん、だよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは、同じ中学校の制服を着た男子生徒だった。
同じ学年のはずだが、話したことはない。
背筋がスッと伸びていて、どこか静かな雰囲気をまとっている。
「そうだけど……何か用?」
「俺、剣道部の市川っていうんだ。覚えてるかな、小学校の時、少しだけ同じクラスだった」
「ああ、言われてみれば……」
市川と名乗った彼は、俺の目をじっと見つめると、少しだけ真剣な表情で言った。
「君の噂、聞いてるよ。サッカーでも、野球でも、とんでもない活躍をしたって。君のあの、相手の動きを読む力と反応速度……もしよかったら、剣道に活かしてみないか?」
「剣道?」
予想外の誘いだった。
竹刀を握ったことなんて、一度もない。
「うちの道場、今日ちょうど練習があるんだ。見学だけでもいい。一度、本物の剣道を見てみないか?」
真っ直ぐな瞳。
その奥に、剣道に対する熱い想いが宿っているのが分かった。
(……面白そうじゃないか)
また、あの感覚が湧き上がってくる。
知らない世界に、足を踏み入れてみたい。
自分の力が、どこまで通用するのか、試してみたい。
「分かった。行ってみるよ」
俺の返事に、市川の顔がパッと輝いた。
◇
市川に案内されてやってきたのは、古いが、手入れの行き届いた地域の道場だった。
一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、独特の木の匂いが鼻をくすぐる。
道場の奥では、防具をつけた人たちが、裂帛の気合と共に、激しく竹刀を打ち合わせていた。
「――市川、遅かったな。その子たちは?」
道場の隅で腕を組み、鋭い視線を送っていた初老の男性が、低い声で尋ねてきた。
この道場の師範、高峰圭その人だった。
「師範! こちら、同じ学校の春海悠くんです! 見学に連れてきました!」
「ほう。君が、あの……」
高峰師範は、俺の全身を値踏みするように、じろりと見つめた。
その視線に、思わず背筋が伸びる。
「春海くんだな。竹刀を握ったことは?」
「いえ、ありません」
「そうか。なら、まずは構えからだ。市川、貸してやれ」
俺は、市川から胴着と袴、そして一本の竹刀を受け取った。
初めて着る道着は、少しゴワゴワしていて、だけど不思議と身が引き締まる感じがした。
「いいか。剣道で最も重要なのは、『中心』だ」
高峰師範は、俺の前に立つと、ゆっくりと説明を始めた。
「自分の体の中心、そして、相手との中心。この二つを、常に意識しろ。足さばきも、打突も、全てはこの中心を外さないためにある」
師範は、俺の構えを、手取り足取り直してくれた。
足の位置、腰の入れ方、竹刀の握り方。
一つ一つの動きに、無駄がない。
「よし、一度、俺に打ち込んでみろ。面だ」
「え……でも」
「遠慮はいらん。思い切り来い」
俺は、覚えたての構えで、師範と対峙する。
静かな空間。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。
(中心を、外さない……)
教えられた通り、真っ直ぐに踏み込む。
竹刀を、大きく振りかぶって――。
パシィン!
乾いた音が、道場に響いた。
俺の竹刀は、師範の竹刀に、軽く弾かれていた。
「……なるほどな」
師範は、少しだけ感心したように呟いた。
「初めてにしては、筋がいい。体の軸が、全くブレていない」
その時、道場内の練習試合が、ちょうど一区切りついたところだった。
「春海くん。せっかくだから、一本、試合をしてみるか?」
市川が、少し興奮した様子で提案してきた。
相手は、俺と同じくらいの体格の、剣道を始めてまだ半年の部員だという。
「危なくないように、俺が審判をする。どうだ?」
俺は、師範の顔を見た。
師範は、静かに頷いている。
「……やります」
俺は、面と小手だけを借り、試合場の中央へと進み出た。
◇
「はじめ!」
市川の合図で、試合が始まった。
相手は、正眼に構えたまま、じりじりと間合いを詰めてくる。
俺は、ただ相手の目と、竹刀の先を見つめていた。
(焦らない。中心を、外すな)
師範の言葉が、頭の中で反響する。
相手が、一瞬だけ、肩を揺らした。
フェイントだ。
俺は、動かない。
相手の額に、汗が浮かんでいるのが見えた。
痺れを切らしたのだろう。
相手が、小さく息を吸った。
竹刀の先が、コンマ数ミリだけ、上に動く。
(……来る!)
俺には、相手の次の動きが、はっきりと見えていた。
面を打つために、腕が上がる、その前の、ほんの僅かな予備動作。
(打突の前の癖が、見える)
相手が、「メーン!」と叫びながら踏み込んでくる、まさにその瞬間。
俺は、一歩だけ、前に出た。
相手の振りかぶった腕が、がら空きになっている。
狙うは、そこだけ。
スパンッ!
俺の竹刀が、相手の右小手を、小さく、そして鋭く捉えた。
完璧な、出小手。
「――こ、小手あり! それまで!」
市川の、少し裏返った声が響き渡る。
道場中が、しんと静まり返っていた。
誰もが、今の一瞬の攻防を、信じられないものを見るような目で見つめている。
俺は、静かに竹刀を納め、相手に、そして師範に、深々と礼をした。
胴着に袖を通し、姿勢を正して行う礼は、不思議と清々しい気持ちだった。
「……春海くん」
試合後、俺の元へやってきた高峰師範は、今までで一番、真剣な目をしていた。
「来週、市の交流戦がある。団体戦だ。……うちの道場から、出てみないか」
静寂を破る、一閃。
俺の夏は、まだ終わる気配を見せていなかった。
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