02 夜勤病棟よりは忙しくない夜勤育児

 お腹の子を守る母親のように、妻は段ボール箱を大事そうに抱えている。押し入れの中で眠っていたので、ダニとか目に見えないサイズの害虫が箱にはついていそうなのに、構わないらしい。


「それが金が尽きたときの後藤家の切り札になるだあ? 雑貨屋時代の戦利品かなんかか?」


 妻は全国チェーンの雑貨屋の店長を勤めていた。接客業で培った笑顔を茂にふりまくだけで、質問に対して決してイエスと言わなかった。

 クレーム対応でも、そうやって非がない部分は笑顔で誤魔化してきたのだろう。実にやり手な店長だったのは茂も知っている。

 その手腕を見込まれて、本社近くの店舗を任されそうになるほどだったのだから。いわゆる栄転というやつだが、茂と遠距離恋愛になるのが嫌で、仕事を辞めて同棲をはじめる流れとなった。

 別にこの理由も嘘ではないが、いままでの店舗運営による稼ぎ方が出来ないので断ったというのもありそうだ。


 妻が売上を伸ばすことができたのは、本社から遠い●島県という環境のおかげだった。本社の目が届かないのを逆手にとり、アウトレットコーナーの棚を勝手につくり、それが売上アップに繋がっていたのだ。

 雑貨屋の商品は、プレゼント用として購入する客層と、自分用で雑貨を購入する客層に大きくわけられる。

 前者はクレーマーも多い。商品の使用に問題はなくても、ちょっと傷が入っていたり、色がくすんでいたりすると、プレゼントを喜んでくれなかったのは、そのせいだと騒ぐ輩もいたとかなんとか。

 自分のセンスが悪いとは考えられない悲しいモンスターだ。


 そういった背景があったので、妻の店は従業員に検品を徹底させる教育をしていた。ちょっと傷があるだけで、使用には問題なくても陳列しない。

 すぐに不良品として廃棄処理の申請を行う。本社に報告書として写真つきのメールを送り、不良品の申請が本社に承認されるのを待つのだ。そして、不良品として処分してくださいと返信があってから、妻の店は売り上げを伸ばすのだ。

 本来、廃棄するだけの商品なので、妻の裁量で割引が出来るというからくりである。

 妻オリジナルのアウトレットコーナーに陳列される商品は、自分用として雑貨を購入する層に大人気だった。

 定価の半額で売れても御の字の店側と、安く購入できてありがたがる客と、幸せしかうみださない棚だった。


 ほかには、客から注文されたと装って、人気の商品を発注したりとか。いらない商品を閉店セールのはじまった店舗に送りつけるとか。本社のマニュアルに反した、師匠の川島店長直伝の方法で売上を伸ばしてきたそうだ。

 川島師匠は、妻が退職して同棲すると小耳に挟むと、いくらかお金を包んでくれたので、茂にとっても恩人である。ずっと単身赴任でマイホームに帰れない背景から、成長を見守れなかった息子と世代の近い若者には優しい現場人間だ。

 もしかしたら、押し入れの奥に隠れていた段ボール箱も、川島師匠の助言で金になるものを店舗から集めてきたのではないか。

 不良品として廃棄した高級品が、いまは販売していないお菓子の段ボール箱の中で、足がつかない時期まで熟成している最中なのかもしれない。

 なんて勝手な想像をしながら、茂は全ての段ボール箱を和室に運び終えた。


「じゃあ、私は小さい家族と先に新居に行ってるから。明日の引っ越し業者の対応お願いね」


「引越し業者が荷物持っていってからの対応はむしろお願いするんだがな。お互いにがんばるべ」


   █████


 いまは住宅ローンが低金利なので、長期ローンを組んだら、最初の一〇年は家賃とそう変わらない月々の支払いで済みますよ――という銀行員の話は正しかった。

 でも、家賃を支払っているだけで良かった頃と違い、固定資産税などを支払う必要があるとは教えてくれなかった。いや、言ってくれていたかもしれないが、茂はきちんと理解できていなかった。

 結局、もろもろの費用で、年間では家賃を払っていた頃のほうが安上がりだったのだ。


 なんだか騙された気分だが、それでも茂は新生活に不満も後悔もなかった。

 住宅ローンには、引っ越し費用やエアコンなどの家電や家具を新しくする費用も含まれていたので、日々の暮らしの生活水準が明らかに上がったのが大きい。

 環境は劇的に変化したが、なんとか貯金出来る程度の生活を続けるため、茂は残業を増やして仕事を頑張っていかねばならなかった。


 新築を購入する決め手となったのは猫である。スマホサイズの小ささからノートパソコンサイズにまで大きく成長してしばらく経った頃に、猫は血尿を出した。

 ご飯を健康的高価なものに変えてからは、血尿は出ていない。

 ワクチン接種をのぞけば、はじめて病院にお世話になったとき、猫がすでになくてはならない後藤家の一員だと再確認した。万が一のことがあったらまずいので、この頃からペット保健にも入るようになった。

 五年分の地震保険は住宅ローンと一緒に借りたのだが、ペット保険は毎月支払わねばならなかった。


 保健といえば、茂が高校卒業と同時に入った生命保健の満期を迎える時期に合わせて妊活をはじめた。

 その昔、同じヒロインをとりあった女友達は、ゲームで覚えた性行為を実践していると、すぐに妊娠したそうだ。

 後藤家も、そうなった。

 めでたい限りだった。


 出産予定日の直前に、満期を迎えた生命保険の三〇〇万円以上が入ってくるという金銭的な余裕から、育休を一年間とることにした。

 いまの会社にも不満はいっぱいあるが、一年間も育休をとらせてもらえるのは有り難い限りだ。

 育休をとっていなければ、日に日に変化する子供の成長に触れるという、かけがえのない感動を得られていなかったのだから。

 なにより、妻一人に育児を任せていたらと思うと――本当に育休はとっていて良かった。


 後藤家は、育児担当を仕事のようにとらえている。夫婦による昼勤務と夜勤務のシフト制を採用しているのだ。

 夜勤育児は、茂の担当だ。

 エロゲーの【夜勤病棟】ほどハードな仕事ではない。子供の夜泣きの相手をするのが主な仕事である。仮に夜泣きがなく、手が空いたときにもやることは色々あるので、暇ではない。


 たとえば、洗濯物を夕方のうちにとりこんでも、子供の世話でたためていないときがある。そういうのは、夜中のうちにたたんでおくのだ。綺麗なガーゼハンカチと、よだれかけは、いくらあっても足りない。

 台所の水回りも汚れていれば、食器を食洗機に入れていく。子供が産まれる前はそれだけで済んでいた食器洗いも、いまは手洗い必須のものがある。哺乳瓶と乳首は、専用の道具を使って手洗いし、消毒液につけなければならないのだ。

 消毒液も古くなっていたら、新しい液に交換する。

 冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードには、前回の交換時間が書かれている。二四時間経過していた場合、新しく水を入れ替えて、タブレットをその中に投入して、交換した時間をホワイトボードに記入する。

 雑貨屋の店長をしていた妻のアイデアは、実に合理的なものが多い。


「明日の朝飯の米を研ぎ終えたけど、あとやることはねぇかな――てか、ずっと静かなままなんておかしくねぇか? 大丈夫なのか?」


 一度火がついたら、家事を中断して面倒をみなければならないのが夜泣きだ。厄介なので、ないほうがいい。けれども、あまりにも静かすぎると不幸な事故が起きていないかと不安になる。

 ベビーベッドに近づいて、呼吸をしているか小さな身体に手を当てて確認する。


 賢く眠っているだけなので、ほっとする。

 魔の〇〇という時期をこえて、夜泣きが少なくなる時期になったのかもしれない。

 これからも、こんな日が続くならば、夜長をどう過ごすべきか考えてみるか。

 子供が産まれる前は、夜中に録画しているテレビ番組を視聴していたのを思い出した。


 テレビをつけてみると、夜中にしては音量が大きかった。夕飯を食べながらテレビを見ていたときの音量は、夜中だとこんなにうるさく感じるのか。

 慌てて音量を下げながら、テレビ画面ではなくベビーベッドを注視する。

 赤ん坊は相変わらず眠ったままで、スースーと寝息がきこえてきた。


 別に観たい番組があったわけではないので、この機会にブルーレイレコーダーの整理をはじめた。

 忙しくて未視聴の番組ばかりで、中には最終回を迎えた番組もあった。

 番組が終了後も、同じ時間を毎週録画し続けている。

 だから、その深夜アニメとの出会いは偶然だった。


「エロゲーを題材にしたタイムリープ物?」


 茂は面白さ以上に懐かしさを感じた。

 いつの間にか、仕事をして、家庭を守るのが茂の生活の全てになっていた。

 でも、そうじゃなかった頃の、あのエロゲーにハマっていた素晴らしい時期に持っていた情熱を、深夜アニメから感じとったのだ。


 茂が青春を捧げて、グッズに大金を費やしたエロゲーは『超能力疾患』ただ一つである。

 同じブランドの別作品を購入してプレイしていたが、それも大好きな一作のためのものだった。世界観の繋がりを感じられるシーンのためにプレイしてきただけだ。

 同時期に、絵柄が好みで気になっていたエロゲーがあったけれど、本命のエロゲーヒロインと結婚すると決めていた当時の茂は、絶対のぜーったいに浮気をしなかった。


 いまは三次元の女性と結婚し、子供も育てているというのに。

 あの頃は、本当に、本気だった。

 後藤茂から、神楽木茂になりたいと思っていた。

 恥ずかしいけれど、いい思い出だ。


 いま使っているパソコンのOSでは、あの名作エロゲーは古すぎてプレイ出来ないだろう。ということは、昔やらなかったゲームを購入しても、いまのパソコンではプレイ出来ないのか。

 深夜アニメに、当時興味を持っていたエロゲーシリーズの第一作目が登場したから、これも何かの縁とプレイしようと思ったのに、残念だ。


 諦めつつも、昔のフットワークの軽さが、茂に戻っていた。

 スマホで調べはじめると、ものの五分で、シリーズ二〇周年に発売されたアニバーサリーボックスなるものを発見する。


「いまのパソコンのOSでもプレイできるじゃねぇか」


 思わず声を出したが、赤ん坊は寝返りを打つだけだ。

 赤ん坊の顔を横に向けてやって、万が一にも窒息の危険がないようにしながらも、茂はスマホでエロゲーを調べ続ける。

 なんと、アニバーサリーボックスでプレイできる作品数は、シリーズ関連八作品だ。

 ネットショッピングで安いサイトを精査して、買い物カゴに入れる。

 そのまま衝動買いをしようとしたところで、赤ん坊の夜泣きがはじまる。


「おー、待て待て。ミルクを先に飲むか? それとも、抱っこしたらいいのか? エロゲーは手元にないから、一緒にプレイできないから、それ以外で頼むぜ」


 その後、再び赤ん坊が眠るまで、一時間以上、四苦八苦した。

 解放されてすぐに、ずっと我慢していたトイレに茂は駆け込んだ。

 次回の夜泣きに備えて哺乳瓶を洗ったりしていると、さらに時間が経った。


「さてと」


 ネットショッピングの買い物カゴに入っているエロゲーを確認し、購入手続きをすませた。

 衝動買いとはいえないほど現実と向き合ったうえで、それでもやっぱり欲しくて買ってしまっていた。


   █████


「とまぁ、そんなこんなで十代以来のエロゲー熱が戻ってきたのには、そういう流れがあったわけだよ」


 茂が話している間にも、色々あった。

 妻は猫を、茂は赤ん坊を抱っこしているのは、そのためだ。


「あんたさ、よく子供をあやしながらも、ずっと喋れてたわね。正直、途中あんまりきいてなかったわ」


「え? こいつらが騒ぎ出したのって、引っ越し前夜の話が終わったあたりだったけど」


 抱っこしている赤ん坊を、ベビーベッドに置いて話をするのには抵抗がある。長いこと夜泣きをあやしてきた経験から、もう少し深い眠りについてくれなければ背中スイッチが発動して目覚めるのは簡単に予想ができるためだ。


「この子が血尿出たって話は記憶に残ってる。そこから、夜勤育児するまでの話を聞き流しちゃった」


 妻の腕の中から器用にすり抜けた猫は、ご飯を食べにいった。


「マジか。客と上司のせいで俺の心がすり減ったからこそ、育休に入ったところで泣けるストーリー構成で話してたつもりだったんだけどな。エロゲーをアニメ化するにあたって、原作エピソードをむちゃくちゃはしょられた感じになってんのな」


「けどまぁ、アンタの心に火がついたのは、まぁわかったわ。クラファンの三〇〇万円のコースを支援しようっていうのも、ギャグじゃないんだってのも理解した。それで、あの段ボール箱の中身を売ろうとしてるってのもね」


 さすが、雑貨屋で出来る店長だっただけのことはある。他のことをしながらも、おさえることろだけはおさえて話をきいてくれていた。

 そのうえで、三〇〇万円コースの支援が許されないのは、赤ん坊の背中スイッチからの大泣きよりも簡単に予想がついた。


「結論を待ってくれるか?」


「なに? 今度はどんな話をしてくれるの?」


「俺が高校時代の話だ。後藤茂とエロゲーの歴史を知れば、三〇〇万円コースの支援は俺がやらなきゃいけないって思えるはずだから」


   █████


 誰しもが超能力を持って生まれてくる。

 その力は、日常生活を送るうえで、邪魔以外のなにものでもない。

 人々は、いつしか超能力を病気として扱うようになっていた。

 超能力疾患。

 現在、中学卒業までの完治率が、九十九パーセントをこえている病気の総称だ。


 ——どうせなら、受験前に治っといてほしかったな。


 入り口の門をくぐりながら、シゲルは心の中でぼやいた。

 公園のように広い庭には、様々な植物が生えている。庭師でも雇っているのか、手入れがいきとどいている。

 庭の中央あたりにきて、シゲルは足を止める。

 二階建ての洋館は圧倒されるほど大きい。

 この館は、シゲルが来週から通う禄上学園ろくじょうがくえんの理事長の家だ。


 理事長の神楽木は、一風変わった人として有名だ。学園に超能力者だけの特別クラスを作るように命じたのも彼らしい。さらには、超能力者たちに家事の手伝いをさせるのを条件に、館の空き部屋を下宿先として提供している。

 競争率の激しい審査をパスし、シゲルは神楽木の館で働けるようになった。


 ――超能力疾患が治ったのがバレたら、その権利も剥奪されるのかな。


 心の準備がまだ出来ていないのに、無情にも館の入り口がひらく。

 メイドにドアを開けさせて、黒髪ロングの女の子が外に出てきた。

 ロングスカートを履き、タートルネックの黒い服を着ている。そこはかとなく、気品を感じる。シゲルと年齢が近そうだ。彼女が神楽木のお嬢様なのだろう。

 庭の中央で突っ立っているシゲルに、お嬢様はきづいたようだ。シゲルにむかって真っ直ぐ歩いてくる。

 あごヒゲをさすりながら、シゲルはお嬢様にむかって進んでいく。お互いの顔が確認できる距離になったころ、立ち止まってしまった。彼女のアイドルのように綺麗な顔に、思わず見惚れてしまったのだ。


「あ、やっぱりそうだ」


 お嬢様はどこか嬉しそうだ。彼女の視線は、シゲルのヒゲにむけられている。

 ヒゲを生やし始めたのは、一年ぐらい前からだ。下の毛が生える時期に超能力疾患は治っていく。そのため、ヒゲを伸ばしていないと「おまえ、まだチンコ剥けていないんだろ」と心無い悪口をいわれることが多いのだ。


「お母様からきいてるわ。わたしと同い年の子が今日から下宿するって」


 悪口防止のヒゲを見て、彼女はシゲルが超能力を患っていると確信を持ったようだ。


「あなたが、サイコメトリー疾患の男の子でしょ。ぜーったいの絶対に、そうでしょ?」


 サイコメトリーとは、物体から記憶を読み取る超能力のことだ。


「いや、俺は——」


『本当のことを話して、治ったという』

『嘘をつき、サイコメトリー疾患だと話す』


 大ヒットした美少女アダルトゲーム『超能力疾患』において、最初の選択肢が表示された。

 神楽木鞘香を攻略するためには、ここで嘘をつく必要がある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る