第40話

 バネッサが押収品の中からレイのシャツを持ってきてくれたので、レイはクラウスを蹴り飛ばして、羞恥に燃える頬のままシャツを受け取った。


「身支度を整えたら、タールマン様達のところへ行ってね。どうせ迎えに来るでしょうけど」


 バネッサの言葉に無言で頷くと、当のバネッサは床の上で綺麗に受け身を取ったクラウスに冷たい視線を送りつつ一言、


「ケダモノ」


 と言い捨てて部屋を出て行った。床に手を着き、蹴られた腹を押さえるクラウスを尻目に、レイは手早くシャツを着替えた。借りていた方のシャツを手に取り、床にうずくまっているクラウスに声をかける。


「ケダモノ、俺の眼鏡どこか知らない?」

「……悪かった……悪かったから……」


 クラウスは、そう言いながらよろけつつ立ち上がった。






 王宮をきちんと案内されるのは初めてだった。レイが寝かされていた部屋は貴賓室だったらしく、そんな場所で、あんな罵倒を廊下に響かせてしまった事実に、レイはしばらく顔を上げられなかった。


 クラウスは律儀に、「まだ公にしていないから、エスコートはできない」と伝えてきたが、レイが「オーバーヒートしたわけでもないし、治療も終わってるからそもそも必要ない」と伝えると、少しだけ寂しそうに眉を下げていた。先ほど蹴り飛ばしてしまったことへの罪悪感もあり、「公になった暁には、腕を借りる」と言うと、クラウスの目元が少し綻んだ。


 以前タールマンに転移させられた国王の私室の前まで来ると、レイは一度深呼吸をした。人払いがされているのか、部屋の前に立っているはずの見張りも、誰一人としていなかった。


 クラウスがレイに開けていいかと目配せすると、レイもそれに応じて頷いた。クラウスがノックをし、中から「入れ」と低い国王の声が響く。クラウスがドアを開けてくれたので、レイは入室して頭を下げた。


「叡智の――」

「いらん。前にも言っただろう」


 挨拶を遮られ、レイは困り顔で少し頭を上げた。あの賭けの一件から、気安くなりすぎていた自分を律しようと思ったが、相手がそうはいかなそうだ。


「恐れながら申し上げます。私は、御身の期待に応えることができませんでした。それを踏まえましても、ご尊顔を拝するわけには――」


 言っている最中に、国王が深いため息をついた。


「クラウス、ちょっと席を外せ」


 その一言にクラウスは眉を顰めたが、レイがクラウスを一瞥すると、ため息をついて部屋を出ていった。やれやれと言わんばかりの国王が、以前と同じようにソファを指し示すので、レイはそれに従った。


「……煙草、吸っていいか?」


 以前は聞かれなかった一言に、レイは困惑しながら「どうぞ」と答えた。国王は嬉しそうに息を吐きながら、懐から葉巻ケースを取り出した。


「あの日から、禁煙していた。お前に吸っていいと言われるまでは、と」


 国王の思いがけない言葉に、レイは訳が分からず眉をひそめた。国王はケースから太い葉巻を一本取り出すと、シガーカッターを一度持ち上げて、そのまま湿ったため息とともに再びローテーブルの上に置いた。


 国王が、突然神妙な面持ちでこちらを見てくるので、レイはそのまま固まった。


「……すまなかった」


 一国の王の謝罪に、言葉を失った。いったい何を謝られているかも分からない。ただ、おろおろと周りを見渡すが、もちろん誰もいない。こんな時こそ、タールマンが姿を消してこの部屋にいてくれればいいのにと、願わずにいられなかった。


「調律の相性について、判断を誤った。お前にとっては、死活問題だったということも、認識不足だった」


 まさかの言葉に、レイは首を振った。国王が、判断ミスを謝罪するなどあってはならないことだ。人払いされていたのは、まさかこれのためだとでもいうのだろうか。


 国王が顔を上げる。その目には確かな罪悪感を湛えていた。


「気付かせてくれてありがとう。これは、私の息子たちにも、きちんと伝えていくつもりだ……私の甥っ子を、悲しみの淵に落とさずに済んだ」


 その一言には威厳などはなく、ただ、レイには一人の家族を想う『男』の姿のように映った。


 結局今回の一件は、この『男』の不器用な愛情だったのだろう。実母を手にかけざるを得なかった甥っ子が、さらなる傷を増やさないための干渉が結果として空回りしてしまった。


 レーヴェンシュタイン公爵家の悲劇は、長兄の死から始まって以降、後を絶たない。非魔法使いである国王にしてみれば、クラウスが自身の治療をしてくれたというだけで、レイにほいほい熱を上げたように見えてしまったのかもしれない。調律の相性が、生死を分ける問題だという認識が無かったのなら、こういう手段に出てしまうのも理解できる。現にレイ自身も、調律の相性がいい相手と離れるということが、相手の死につながる行為だというのを知らなかった。おそらくそれは、相性が極端に良好なパートナーに限る話で、前例が出てこなかった。奇跡ともいえるこの出会いだからこそ、今回のような不幸な事案に発展してしまった。魔法使いの本能を常人に理解してもらうのは難しい上、稀なケースなど輪をかけて理解しがたいもののはずだ。今回、一国の王がそれを目の当たりにできたというのは、むしろ今後のオルディアス王国にとっては、得難い経験だったのかもしれない。


 『男』がシガーカッターを持ち上げ、葉巻に刃を入れた。切り落とされた葉巻の端を拾い上げ、指で弄びながら愁いを帯びた瞳がそれを追う。


「……血を吐いたお前に取り付けていたカメラ越しに、クラウスの人間らしい表情を見た。久しぶりに見たそれが、あんな辛そうなものになるとはな……」


 自嘲するようにそう呟くと、『男』は葉巻に火を入れ、紫煙を燻らせた。吐き出した煙が勢いよく宙に飛び出し、ふわりと空気に溶けていく。それをまるで切り替えのスイッチにしたかのように、『男』の表情が厳しさと威厳を纏った。


 『国王』が口を開いた。


「レイ、お前は賭けに負けた。諜報部には入れない。それを踏まえて、お前の答えを聞きたい。お前は、クラウスの隣を望むか?」


 その問いに、レイはまっすぐ国王の目を見て答えた。


「はい」


 はっきりとした返答にも、国王は驚いた様子を見せなかった。どうやら想定していたようで、なおも畳みかけてくる。


「お前の覚悟は、前回聞いている……だが、それはお前の身を亡ぼすぞ。それでもいいのか」


 レイは国王の言葉に、微笑んだ。どれだけ威厳を纏おうとも、根が優しいのは変わらない。なかなか厄介な人ではあるが、諜報部がこの人を見離さない理由は、きっとこういうところにあるのだろう。


「そんなことが起こるよりも前に、強くなってみせます」


 その一言に、国王はため息をついた。灰皿に葉巻の灰を落とし、肺にたっぷりと煙を入れてから、煙を吐き出す。


「……甘いな。レイ、前回の方がもっと未来を想定していた。この一か月で腑抜けたか?」

「『欲しいものがあるなら、きちんと足掻かなければ手にする権利もない』ということを思い知るいい機会でしたよ」


 レイの答えを国王はただ黙して聞いていたが、じっとレイを見つめたあと唇の端がわずかに持ち上がり、そのまま葉巻を咥えた。今の答えは、どうやら気に入ったらしい。


「クラウスにも悪いことをしたな。私が甘やかしても奴にとっては迷惑にしかならんようだから、代わりにたっぷり甘やかしてやってくれ」

「えっ」


 思わず素で返してしまい、レイはハッと口元を押さえた。その様子を面白そうに見ながら、国王が笑う。


「甘やかすのも大変か。我が甥っ子の下半身はどうやら節操がないらしいからな」

「……本当に、本当にすみませんでした」


 この時ばかりは、レイも自分の口の悪さを心底反省した。


 ちょうどレイが謝罪をしたところで、ドアが再びノックされた。国王が葉巻を咥えながら「入れ」と言い、直後に開かれたドアからタールマンを先頭にクラウスが入ってきた。


「お前、絶対見てただろう」

「さて、何のことだかわかりませんね」


 国王とタールマンが言葉を交わすのを見ながら、クラウスがレイの隣に座った。心配そうにこちらを見てくる藍色の瞳に、レイは大丈夫だと笑顔で返した。


「さて、クラウス」


 国王が葉巻から口を離して煙を吐き出すと、短くなったそれを灰皿に押し付けた。


「バネッサから報告は受けている。この一か月間、魔力に呪いの兆候は見られなかったそうだな?」


 レイはそっとクラウスの方を見た。その表情は固いが、瞳は澄んでいた。表情を隠そうという意思はないように見えて、レイは静かに驚いていた。――クラウスが、心を開いている。


「あぁ」


 無機質な答え方にさえ、レイは目を見開いた。


「なら、私からは特に何も言うことはない。お前の勝ちだ。公判再開については、追って知らせる。……今回、お前たちのおかげで、第二王子側の不穏な動きのしっぽを掴めた。よくやった。褒美は何がいい?」


 国王の言葉にクラウスはしばし考え、ちらりとレイを見た後、国王に向き直った。


「賭けとは別にか?」

「あぁ、別にだ。褒美だからな」

「なら、対傍聴・情報窃取が施された通信魔法機器を、レイに」


 クラウスが、レイを見る。唖然としてそのままクラウスを見つめ返すと、クラウスはふっと笑った。


「ずっと、不便を強いてすまなかった」

「いや、それは、仕方ないことだし……でも、それなら俺の褒美でいいだろう?」

「私は別段、事足りている」


 思いがけない言葉に、レイは視線を彷徨わせた。突然褒美と言われても思い浮かばないのもあるが、クラウスが自分にその権利を使うとも思ってなかった。


「レイ、お前はどうする?」


 国王からそう言われ、レイはクラウスを見た。先ほど仮眠できたものの、やはり疲れがたまっているクラウスの顔を見て、レイは国王に向き直った。


「……休みを……」

「ん?」

「クラウスに、休みをください。一週間……いえ、三日で構いません」


 レイの言葉に、国王はタールマンを見た。タールマンがやれやれといった様子で国王を見るので、国王はニカッと歯を見せて笑った。当のクラウスは口元を押さえながら、レイの方を見ていた。


「分かった。悪いが諸事情で人数が足りていない。三日だ。その後、他のメンバーにも調整して全員三日ずつ連続して休みが取れるように配慮しよう。それでいいか?」

「ありがとうございます」


 国王の言葉に礼を伝えて、レイとクラウスは王の私室を後にした。タールマンと国王が残り、しばらく沈黙がその場に降りた。


「……よかったんですか? 欲しかったんでしょう? 彼。諜報部に」


 沈黙を破ったのは、タールマンだった。タールマンから話を切り出すのは過去にあまりなかったが、どうやらしばらくレイに張り付いていたためか、興味が沸いたようだ。


 国王は小さく鼻で笑った。


「有能な人材はいつでもほしいさ。本当なら、リミッター解除剤、だったか? あれも手に入れておきたかったが……。加えてルミアの孫だろう? 手元に置いておいて損はない」


 タールマンの言葉に、国王は新たな葉巻をケースから取り出しながら答えた。


「まぁ、ゆっくりやるさ。クラウスという首輪も、ついたことだしな」

「……そうやって悪ぶりますが、本当は甥っ子が可愛くてそんなことできない癖に」


 諦念を滲ませながら、タールマンは肩をすくめた。国王はタールマンを冷ややかな目で一瞥する。


「王は、人であって人であらず。……必要なら、いつでも非情になってやるさ」


 国王は、シガーカッターを手に取り、葉巻の端を切り落とした。










 久しぶりのクラウスの部屋に感傷に浸る暇も与えず、ドアを閉めた瞬間に落ちてきたキスを受け止めて、レイは自らサスペンダーを外した。驚いて唇を離すクラウスの視線を釘付けにしたくて、上目遣いでクラウスの藍色の瞳を覗き込み背伸びをする。唇に触れそうな距離で、伏し目がちに見つめると、応えるようにクラウスの唇が再び降りてきた。下着ごとスラックスを下ろして、シャツに手をかけようとすると、何故だか手首を掴まれて阻止された。


「……私にかける色はないのではなかったか?」


 キスの合間を縫うように語りかけられ、レイは小首を傾げて問いかけた。


「嫌いか?」

「いや……すごく、興奮する」


 素直にそう答えるクラウスに、レイはくすりと笑った。――クラウスと違って、『国王に唆された』と体裁を整えないと、恥ずかしくて自分をまだ素直に出せないのは、できれば許してほしい。


 全身に洗浄魔法をかけながら、ついばむようにクラウスの唇を奪い、改めて洗浄魔法の構成を整え、腹の中へかける。いつもよりも早い段階で入る準備に、クラウスは戸惑いを隠せないようだった。


「……こんな誘い方を、したのか?」


 どんな心配をしたのか分からないクラウスの言葉に、レイは噴き出して笑った。


「期待に応えられなくて申し訳ないが、今初めてやった。……お前を全力で誘惑している。拙すぎて、萎えたか?」


 引かれたらどうしようという不安はもちろんあった。ホノに習った程度のものでは、どう考えてもクラウスには効果がなさそうだったため、できうる限りレイらしく、『欲しがれ』と伝えてみた。――だってこの男はもう、俺に溺れているのだから。


「……期待以上で、困ってしまう」


 ぎこちなくレイに伸ばされるクラウスの手から、衝動を抑え込もうとしている魔力がふわりと香って、レイは満足げに笑った。どうやら、効果はあったらしい。


 レイの頬に伸ばされた手を取って、ゆっくりとレイの体を撫で下ろすように誘導し、シャツ越しに胸の上に置いた。ほぼないふくらみの上に置かれた自身の手を見て、クラウスの瞳が揺れている。


「クラウス」


 呼びかける。熱っぽい瞳がこちらを向くが、レイはそれを躱すようにクラウスの首に抱きついて、耳元で囁いた。


「好きに抱いてくれ」

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