第39話

 レイは起き上がり、自分が着ているシャツが取り替えられていることに気付いた。自分がもともと着ていたものに血がついてしまったからなのはわかっているが、どう考えてもサイズが合わない。今着ている首元が緩いシャツを摘まみ上げ、隣で横になっているクラウスを見た。


「これ、もしかしてクラウスのか?」

「あぁ、本部に置いてあった予備だ」


 そう言われ、余る袖をぶんぶん振ってみせた。腕を伸ばしても小指まですっぽりと隠れてしまうぐらい長い袖が躍り、ふっと笑いながらクラウスを見下ろす。


「大きいな」


 笑いかけても、反応を返さずじっとこちらを見てくるクラウスに、レイは小首を傾げた。こういうときのクラウスは、何を考えているかが分からない。


 まぁいいかとベッドから降りようとして、つんのめる。体に巻き付いているクラウスのこんがらがった魔力が離れようとしてくれない。彼の中でまだ何か腑に落ちていないことがあるのかともう一度クラウスを見るが、彼の表情は変わらなかった。


「何か、まだ話したりないことがあったか?」


 そっとクラウスに近付くと、無言でクラウスの右手がレイの頬を撫で始めた。されるがままに撫でられていると、今度は彼の左手がレイの腕を掴んで引き寄せた。クラウスの肩の両側に手をついて、レイはきょとんとクラウスの顔を見下ろした。しばらく間をおいて、クラウスが眉を寄せながらため息交じりに口を開く。


「……手紙を読んだ」


 その一言に、レイはピシッと硬直した。国王に言われるまま眠るオリンの上に手紙を置いたのを思い出す。あれを読んだのかと、視線を泳がせてそのまま逃げようとしたが、彼の魔力がそれを許してくれない。


「いや……えっと、あれは、その……とにかく意識がちょっとでも向けばいいかと書いただけで」


 しどろもどろになりながら言い訳を並べてみるが、クラウスの表情は曇る一方だった。


「……『オリンと俺、どっちが気持ち良かった?』というのは、すごくショックだった」


 真正面から率直に言われる言葉に、レイは「うっ」と呻いた。これに関しては、レイが完璧に悪い。完璧に悪いが、レイにとっては、割と死活問題だったのだ。それをクラウスが分かるかどうかは置いておいて。


「悪かった」


 素直に謝る。だが、クラウスの表情は曇ったままだった。レイの表情や態度から、あの手紙の意図を読み取ろうとしているのが分かり、レイはため息をついた。


「……あんまり、俺の心を覗こうとしないでくれ……頼むから」


 レイの一言に、クラウスの眉間の皺が一層深くなった。それでもしばらく見つめられ、レイが居たたまれなくなったところで、クラウスが再び口を開いた。


「では、私の都合のいいように解釈するが?」

「……と、言うと?」


 聞き返した瞬間、レイの視界が回転した。一瞬で体勢が逆転し、レイの頭がふかふかの枕の上に落ちた瞬間、クラウスの体がレイに覆いかぶさった。


「嫉妬した、のか? オリンに」


 心臓が跳ねた。何も言えずに、レイはかけていない眼鏡を直そうと顔を触った。あってほしかった顔を隠す砦が無く、レイはそのまま視線を泳がせて取り繕った。


「俺が? 嫉妬? なんでまたそう――」

「オリンの染毛剤、君がフォルトン氏に依頼したんだろう? 自分にとってはオリンが私に向ける好意など、些末なことのように見せたかった。違うか?」


 クラウスの言葉が、思いがけない方向へ跳ねた。レイは黙って聞いていたが、ただ、視線はクラウスに向けることができなかった。


「――『そんなことをしても意味はない。愛されているのは自分だ』と、オリンに誇示したかった。そうだろう?」


 降り注ぐ艶のある低音に、レイは口を歪ませながら顔を逸らし、目を瞑った。体温が上がる。首にじわりと汗が滲んだ。しかしながら、愉快そうな声はまだ続く。


「オリンには、私に振られてどんな気持ちかと書きながら、その指で私にはどちらが気持ち良かったかと書く。私がオリンを抱くわけないと知りながら、君は仕事において私の隣に立つオリンに嫉妬して、そう書いた」

「クラウス、もういい――」


 羞恥に震えながら、レイはクラウスを見上げた。余裕の笑みを浮かべるクラウスに腹立たしさを感じながら、レイはまた顔を背けた。その行為が、完全に肯定であることを示してしまうことが分かっていても、レイはクラウスを見ることができなかった。


 くっくと笑う声が寄ってくる。


「普段嫉妬なんてしてくれない恋人が、こうやって示してくれたんだ。もう少しぐらい堪能させてほしいが?」


 耳元で囁かれ、ぞくりと震えながら、レイはクラウスを睨めつけた。


「……しばらく見ない間に、性格が悪くなったか?」

「君が私のそばを離れてから、聞こえてくる君の行動全てに、私は嫉妬したんだ。これぐらい受容してくれ」


 そう宣う恋人に、レイは怪訝な顔をした。自分が一体何をしたというのだと目で訴えると、クラウスの表情が不機嫌に歪む。


「まさか……思い当たらないという訳ではあるまい?」

「いや、そのまさかで申し訳ないんだけど」


 クラウスは、レイの顔を見つめたまま、ため息をついた。クラウスがレイの上から身をどかし、レイをひっぱって起き上がらせた。ベッドの上に座ったまま、不機嫌そうにこちらを見てくるクラウスがレイの左肩を掴んだあと、右手で顎を持ち上げ、じっとこちらの目を覗き込んでくる。


「……あ」


 得心がいった。フェリンブル伯爵家の私兵から情報を引き出したときのこと言っているのか、と。


 フェリンブル伯爵家の私兵の一人が男色家で、度々リャンディン・タウンに出入りしているらしいとタールマンから情報をもらったため、レイはホノからレクチャーされた誘い方を本番ぶっつけで仕掛けたのだった。その後ホテルに誘導して、部屋に入った瞬間、乱暴に肩を掴まれ同じように顎を持ち上げられた。そのことがどうやらクラウスの耳に入ったらしい。


「いや、ちょっと待て。確かに褒められた方法じゃなかったとは思うが……諜報部では割とある手法だと聞いたぞ?」


 近付いてくるクラウスの唇と自分の顔の間に手を差し込んで、レイは弁解した。クラウスの細い眼が更に鋭く不機嫌さを帯びる。


「……誰から?」

「タールマン様」


 その回答にも不満らしく、クラウスの眉間にどんどん深い皺が刻まれていく。


「むしろ、クラウスが得意とする分野だと」

「レイ。奴の言うことを真に受けすぎるな」


 不満を隠そうともしないクラウスの声に、レイは呆れたように肩をすくめた。


「自分の師に“奴”って……立派な方じゃないか。それに、君が過去に行ったのも事実だろう? あ、別に怒っているわけじゃない。任務だろ? きっと君にはこれからもあるだろうし、それを知っておくに越したことはないと思っただけだ。あとは、そうだな……自分の武器が増えるなら、それもいいと思ったのもあるが、正直そこについてはいまだに半信半疑だな。先輩には効いているようには見えなかったし……?」


 レイの言葉の途中で顔に手を当て思案し始めたクラウスの顔を覗き込んで、レイは手をひらひらと振ってみたがクラウスから反応が見られない。


「クラウス?」


 呼びかけて、やっとクラウスはため息とともに自身の顔に当てていた手を離した。まっすぐレイを見て、呆れたように言い放つ。


「どこから言及するべきか……」


 クラウスが言葉を選んでいるのがよく分かるが、レイは何をそんなに悩ませてしまっているのかが分からない。クラウスが言葉を整理し、眉根を寄せて口を開く。


「諜報部に入るのは若年層であることが多く、その際に婚約者とは別れるのが一般的だ。それは基本的に諜報活動に無関係な家族を巻き込まないための措置だが、諜報部にそういった色恋を使った調査方法があるため、というのもある。だが、パートナーがいる相手に、基本的にそういった任務は割り当てられない。魔術師にとって家庭内不和は、死活問題だからだ。魔力のコンディションをわざわざ落とす原因を、任務で作るのはナンセンスだ」

「……その割には、今回国王は俺たちの魔力のコンディションを落とすようなことをしてくれたが? 皆無、という訳にもいかないんだろう?」


 レイの指摘に、クラウスは真剣な表情を浮かべる。


「そんな可能性が孕む仕事は受けない。絶対に」

「……仕事だろ?」

「そうならないようにする。絶対に。だから――」


 クラウスがレイの手を握って目を覗き込んでくる。いまだにごちゃごちゃとまとまりのないクラウスの魔力がレイをしっかりと包み込んで、身じろぎ一つ許そうとしない。絶対に譲らないという強い意思がひしひしと伝わってくる。


「だからレイも、もう色仕掛けなんてしないでくれ。頼むから。私の身が持たない」


 あまりの必死さに、レイは思わず込み上げる笑いを抑えるのに必死だった。


「分かった。クラウスが嫌なんだな? なら、しない。誰にも」


 最後に付け足した言葉が、クラウスの視線を下げる。安心して欲しくて言った言葉が、何故だかクラウスの顔を困らせたようだ。なんなんだ、今度は何が問題なんだ。


 クラウスの視線がそろりと、遠慮しながらレイの目を見る。じっと離れない視線に、レイは一つ思い当たり、ジト目で見返した。


「……お前に仕掛ける色はないぞ」

「何故だろうか」

「何ででもだ!」


 解せないとでも言いたげなクラウスの表情に呆れながら言い放つと、レイはクラウスが握った手を振りほどいて体の表面を掃うように擦った。


「いい加減、この魔力も何とかしてくれ!」

「やっている。だが、コントロールが効かない」

「……は?」


 他人よりも魔力のコントロール精度が高い男が、しれっと言ってのけた言葉に、レイは絶句した。レイの魔力はもうすでにレイの制御下に戻ってきている。クラウスの魔力だけが言うことを聞かないなどということが起こるわけがない。だが、クラウスから漏れ出ている魔力がこんなに洗練されてない状態が続いているのも、制御下に置かれていないというのなら納得ではある。


「さっきまでレイもこうだったはずだ。どうやった?」

「どうって……」


 聞かれて、困惑する。確かにこんなことになったのはレイも初めてだった。だが、クラウスの状態を確認したいと願ったら、するすると自分の制御下に入ってきた。結局は魔法を使いたいと思ったら使えたというだけなのに、どうやったと聞かれても困る。


「クラウスに解析魔法をかけたいと思ったら、問題なく魔力が反応して行使出来た」


 その回答に、クラウスは黙った。何かを考えるようにレイにまとわりついている魔力を観察している。


「……なるほど、意思か。なら、無理だな」

「諦めるなよ」

「いや、そうではない。私の意思と魔力の動きが合致している。だから、これはある意味言うことを聞いていると言っても過言ではない」


 訳が分からないことを言い始めるクラウスをぽかんと見てから、クラウスの魔力をよく観察する。もしこれがクラウスの無意識下のものなのであれば、レイを離したくないという独占欲の塊である。もしくは、レイが突然いなくなってしまったことがクラウスの根底にトラウマレベルで刻まれてしまったことによる防御反応か。もし後者ならば、レイはもうどうすればいいのかわからなかった。彼が安心するまでこの状態でいろというのか?


「何か……したいことは?」


 控えめに聞いてみたが、クラウスは首を傾げたあとにレイをそっと抱き寄せ、安堵したように穏やかに呼吸をし始める。静かに深く息を吸い、吐いて、顔を髪にすり寄せてくる。


「これだけで充分だ」


 幸せそうに噛み締めてそんなことを言い始めるものだから、これはどうしたものかとクラウスの背を撫でた。明日になったらこの状態が好転してくれていたらいいのだが。しかしながら、ここは王宮だとバネッサは言っていた。黒幕である第二王子側の人間も多くいるだろう。こんなところで一夜を過ごしたくはない。


「まぁこれ以上の、したいことが無いなら――」


 やむを得ないのか。そうレイが呟くように言っている最中に、クラウスの肩がぴくりと震えた。その直後、するするとクラウスの魔力がクラウスの中に吸い込まれていく。意味が分からなくてレイはクラウスの顔を見ようとしたが、クラウスがレイの首筋に顔を埋めて顔を上げようとしない。


 一度クラウスの中に入り、再び漏れ出る魔力に触れて、レイは自身の顔が上気していくのが分かった。レイが察したことがクラウスにも分かったのか、恥ずかしそうに更にレイを抱きしめる腕に力が入る。


 レイは思わず声を上げた。


「おい! こんなところで発情するな下半身節操なし!」

「これは、不可抗力だ! そんな聞き方をする方が悪い!」

「あぁもう離れろ助平! 変態! 脳内残念どピンク男!」

「心外……だが、甘んじて受け入れる!」


 クラウスが真っ赤な顔をしながら、レイをベッドに押し倒した。目を丸くしながら、レイは近付いてくるクラウスの顔に手を押し付けつつ叫んだ。


「こンの、馬鹿ッ!」


 その瞬間、部屋のドアが開いた。ドアの向こうから呆れ顔のバネッサが現れ、レイとクラウスは硬直した。


「……廊下に丸聞こえよ、愚か者たち」


 静かな怒気を孕んだ声音に、レイとクラウスは素直に謝罪した。


 その後しばらくの間、クラウスはバネッサに「下半身節操なし」と揶揄われる羽目となった。

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