1.2.1.1 皇帝陛下のお仕事

 帝都メリディアの病院の一室。白い天井と白い床に挟まれた白いベッドの上に、リア・アークライトはいた。天井と、自分の手のひらを、交互に、見ていた。つまり虚無の中にいた。食事にも手をつけず、ただベッドの上で、生きているとも死んでいるともつかない時間をやり過ごす。

 ベッドサイドのテーブルには、ほとんど手のつけられていない食事のトレイが、虚しく置かれている。

 緘黙の檻が、再び固く心を閉ざしていた。この牢獄に放り込まれたのは、初めてではなかった。彼女は彼女の両親が亡くなった時にも、同じ牢獄に放り込まれていた。人間の心は、恐ろしい。それは、〈太陽の所有者〉の機械への恐怖が精神を破壊しないように、発話能力諸共、両親の死を悲しむ機能を停止した。そこから彼女が回復できたのは、ただ偶然の産物だった。幸運だった。好奇心と、それを満たすことのできる恩師、環境。

 それでは、今度の脱獄にはどんな幸運、どれほどの幸運が必要だろうか。

「申し訳ありません、大公閣下。ですが、患者はまだ精神的に不安定で、絶対安静が必要との医師の判断でして……!」

 ドアの外で、看護師らしき女性が必死に誰かの入室を止めようとしている。

「これは帝国の最重要事項だよ。すぐに済む。君たちは下がって、この病室に誰も近づけるな」

 抑揚のない声でそれを遮り、一人の老紳士が入ってきた。帝国でも最高位の貴族であることを示す、豪奢な礼服を身にまとっている。当然だ。何度も、様々な媒体で彼の顔を見たことがある。ホァンジン=タールハイム大公アウグストだ。選帝侯ホァンジン=タールハイム家の当主にして、外務卿。若い頃には職業的宗教家だったが、選帝侯を継承すると中央政界に進出。先帝時代、債券投資を行っていたが、軍拡路線で帝国債券のロングポジションがマイナスリターンを出すようになってから平和主義に鞍替えした、強欲で、それゆえに強力な、改革派。

 その背後には、まるで影のように、一人の若い近衛兵が控えていた。飾り気のない勤務服を着た、まだ少年と呼んでもいいほどの若者だった。軍がプロパガンダのために俳優か何かを雇って制服を着せているか、あるいは、人形に見えなくもない、恐ろしく透明感のある少年だった。それはきっと、その軍服と、彼の線の細さの対照のためだ。

​「やあ、こんにちは。リア・アークライトさん」

 ホァンジン公は、作り物めいた、しかし完璧な笑みを浮かべた。リアの腕の点滴や、手のついていない食事トレイには一瞥もくれず、椅子を兵士の少年に用意させて腰掛け、彼は続けた。

「この度の事件、心からお悔やみ申し上げる。君の恩師、ウォン=スミス教授は、帝国の至宝であった」

 老獪な政治家は、リアの反応を待たず、確認もせず、即座に本題に入った。

「実は、教授は生前、惑星ユリシスへの渡航と、そこでの研究計画を提出されていた。我々は、その偉大な研究を、一番弟子である君に引き継いでほしいのだ。これは、陛下の御心でもある」

 彼女の脳裏に、あの禍々しい赤い光が、閃光のように蘇る。師の最後の温もりと、空気を埋め尽くしていた絶叫。

 リアは、データパッドに震える指でテキストを打ち込み、読み上げさせた。

​『お断りします』

 平民の短い拒絶に、ホァンジン公の完璧な笑みが、僅かにひび割れた。

 彼は、作り物の笑みを消し、冷ややかな、査定するような目でリアを見据えた。

「これは、君のためでもあるのだよ」

 彼は、まるで医者が残酷な診断を下すかのように、静かに、しかし正確に話した。

「ウォン=スミス教授が、あの日、なぜあの遺産発掘現場にいたか、知っているかね?」

 リアの目が、恐怖で見開かれる。

「教授は、あの日、君が安全基準の無視された危険な発掘現場にいることを察知し、あえて君のところへ行ったのだよ。君を説得するために」

 それは、婉曲な形をした、最も残忍な糾弾だった。

「君が、あんな危険な発掘現場の調査さえ引き受けていなければ。君が、教授の『愛弟子』でさえなければ、教授は、あの日あの場所に来ることもなく、死なずに済んだのかもしれないわけだ」

 リアの脳裏に、師の瞳の、最後の、あの微かな生気の色合いが浮かび上がる。

「無論、法的には、君の責任などというものは存在しない。教授は自由意志で行ったのだからね。だが、君自身は、その『借り』をどうするつもりかね? 教授が命を賭して守った君が、その遺志である研究を、ここで『お断りします』と拒絶する。それは、あまりに不誠実とは思わんかね?」

 リアはデータパッドに素早く言葉を打ち込むとともに、また素早く消すことを繰り返した。何を言っても自己正当化にしかならない。

「さあ、立ち上がりたまえ。悲劇のヒロインとして――」

「やめてください、大公閣下」

 その時だった。それまで彫像のように黙っていた近衛兵の少年が、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、そう言った。

「若いの。これが、我々の『仕事』だ」

 ホァンジン公が若い兵士を諌める。しかし兵士は選帝侯を見つめたまま、続けた。

「人間を手段にするところを見せられるのは不快です」

「しかし政治とはそれだよ、若いの。人間の手段化だ。彼女には、その『価値』がある」

「教授は、ユリシスへ発つ直前だった。一度行けば、半年は帰ってこられない。だから、愛弟子の顔を一目見ておこうと、周囲の者に止められたというのに、あえて予定を変えて、あの危険な現場に立ち寄ったと報告されたではありませんか。生き残った者に、良心の呵責を生み出すために話を改変するのは、誠実とは言えませんね」

「しかしだね、道義ということで言えば」

「お疲れでしょう、ホァンジン公」

 少年は、ゆっくりと外務卿からリアへと向き直った。

「陛下への報告は、私からしておきます。下がって結構ですよ」

 その瞬間、リアは、部屋の温度が数度下がったかのような、猛烈な寒気を感じた。それは、少年の瞳から発せられる、絶対零度の威圧だった。下がって結構ですよ。その言葉が地の果てに消え失せろと確かに聞こえた。ホァンジン公も同様だったらしい。化学反応の迅速さで、彼の顔から血の気が引いていた。

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