1.1.2 ルーロード家による連合帝国

 惨劇の第一報が〈ルーロード家による連合帝国〉の聖なる永遠の本初子午線ワン・シー・シェン・ヤン・プライム・メリディア、あまりにも長いのでしばしばメリディアとだけ呼ばれる帝都の中枢に届くまで、一時間もかからなかった。

 その報せがもたらしたものは、悲嘆や怒りだけではない。ある者たちにとって、それは待望久しい『好機』の訪れを告げる、祝砲そのものだったのだから。

 中枢の中枢、皇帝の居城兼皇宮〈プライム・シタデル〉内の皇帝執務室。磨き上げられた黒檀の床も、壁を飾る壮麗なステンドグラスも、千年前の人類の栄光の名残りの精巧な模倣だ。だが、よく見れば、ステンドグラスの一枚には、修復不可能な細い亀裂が蜘蛛の巣のように走り、天井の隅では、空気循環装置が時折、不規則な嘆きの音を立てている。

 そして何よりも特筆すべきは、部屋の奥には人類を二分する巨大勢力の一つである〈ルーロード家による連合帝国〉の最高権力者、皇帝のための壮麗な執務机が置かれていることだ。

 しかし部屋の奥に置かれた、皇帝にのみ使用の許されたその机には目もくれず、何の敬意どころか、注意すらも払わず、窓辺に置かれた小さな水耕栽培装置の前に屈み込む少年がいた。その指先が、LEDライトに照らされてようやく芽吹いた、か細い双葉を、慈しむようにそっと撫でる。

 撫でながら、その背後、老人が話し終えるのを、彼はただ静かに待っていた。

「――これにより、自由都市共同体との『ユリシス星系における不可侵及び経済協力に関する暫定条約』は、陛下の御名の下に締結される運びとなります」

 少年――皇帝エミリオ1世は、ゆっくりと立ち上がると、老人の方へ向き直った。エミリオが纏うのは、帝国士官学校の制服を、彼自身の理念に基づき、さらに切り詰めて仕立て直させたような、質素で実用的な勤務服だった。

​ その時だった。

「皇帝陛下!」

 儀礼も作法も無視して、一人の兵士が血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「何事だ!」

 エミリオが問い質すより先に、老人が苦々しい顔で一喝した。ホァンジン=タールハイム大公アウグスト――帝国に七家系しか存在しない選帝侯の筆頭にして、外務卿を兼ねるその老人の怒声は、時に皇帝のそれよりも重い。

 この老人は元坊主でありながら金銭への執着が異常に強く、先帝時代の帝国債券への投資で大失敗しながらも、エミリオの皇帝即位が決まる直前に新興国債券を買ってそれを穴埋めしたという黒い逸話を持つ、強欲な現実主義者。彼がエミリオの改革と平和路線を支持するのは、「戦争は金がかかる」という、その一点においてのみ、二人の利害が一致しているからだ。

 エミリオが何も言わずに兵士を見つめると、彼は落ち着きを取り戻して報告した。

「申し上げます。東部軍管区で発掘中の《メカゴリラ爆裂王メカ・ゴリヤ・バクレット・ワン》が暴走。付近で『補給任務』に当たっていた近衛第一師団が、これを鎮圧いたしました」

​ その報告を聞いた瞬間、ホァンジン公は芝居がかった仕草で厳かに目を伏せ、沈痛な表情を作った。エミリオは、その完璧な仮面の下に、隠しきれない歓喜が渦巻いているのを、いつものことながら冷ややかに見つめていた。

 無理もない。彼の政敵、ドン辺境伯マーカスが、自ら墓穴を掘ったのだから。

 エミリオは、マーカスの顔を思い浮かべた。自由都市共同体との最前線を担う東部軍管区の司令官にして、先帝の長男を担いで帝位を争った、旧軍閥の筆頭。その男が、起死回生を狙った遺産発掘で、大失敗をやらかしたのだ。

​「またしても、忌わしい遺産による悲劇。陛下の御心を痛める、なんとも嘆かわしい事件でございますな」

​ 遺産――それは、千年前、〈太陽の所有者タイヤン・オーナーズ〉と呼ばれる謎の集団ないし個人がばら撒いた、オーバーテクノロジーの総称である。

 帝国において、それは麻薬だった。本来、技術とは基礎科学と教育への地道な投資によって積み上げられるものだ。だが、この荒廃した地球では、地面を掘り返せば、自分たちの文明より遥かに進んだ技術の塊が「見つかって」しまう。結果、帝国は先帝までの治世で、その遺産の探索を含む軍事費を聖域化するとともに、教育や基礎的科学研究への投資を枯死させた。遺産を掘り起こし、独占すること。一部の者たちは、それが、失われた千年を取り戻す、唯一の近道であると信じていた。

 そして、その歪んだ信仰は、文化的な崇拝を生んだ。これほどの物を作れたのだから、〈太陽の所有者〉は倫理的にも優れた、神に近い存在であったはずだ、と。

 その実態は、起動シークエンスすらブラックボックスのままの、ただの殺戮機械に過ぎなかったが。

 対空兵器や人工衛星破壊兵器が異常発達したこの世界において、それらの防衛網をかいくぐり、単独で敵中枢を焦土と化す自律型地上兵器には核兵器以上の価値があった。

 《メカゴリラ爆裂王メカ・ゴリヤ・バクレット・ワン》は、その中でも最強、言い換えれば最悪の『遺産』の一つとされていた。

​ ホァンジン公は、まるで弔辞でも述べるかのように、しかしその実、興奮に満ちた声で続けた。

「この『遺憾な事故』の責任は、東部軍管区において遺産の発掘と管理を強硬に主張しておられた、ドン辺境伯に、厳正に取っていただかねばなりますまい。陛下、これは彼の勇退に、最高の花道を用意する好機やもしれませぬな。それに……、陛下が第一師団を偶然にも補給任務に派遣していたとは。確信しました。天は我らの味方です」

​ その時、皇帝が小さく、しかし部屋の隅々まで響くほど明瞭に、咳払いをした。

 それだけで、ホァンジン公は、まるで首を締められたかのようにピタリと饒舌を止めた。

 少年皇帝は、感情を読ませない瞳で、報告に来た兵士をじっと見つめながら尋ねる。

「生存者」

「一名。生存者、一名」

「資料」

 皇帝の短い命令に、兵士は恭しくデータパッドを差し出した。それは古代の記録にあるような薄いガラス板などではなく、無骨な軍用の筐体に収められた、分厚く、そしてあちこちに補修の跡が見える旧式のモデルだった。

 パッドには、生存者の情報が映し出されている。

「リア・アークライト」

 皇帝が、その名を小さく読み上げた。添えられているのは、近衛兵が現場で撮ったと思しき、手ブレのひどい写真。土と涙に汚れながらも、その瞳にまだ理性の光を宿した、少女の顔。

 ホァンジン公が、そのパッドを横から覗き込み、即座に計算高い笑みを浮かべた。

「ほう、これは……、大衆受けもよさそうだ。悲劇のヒロインとして、ドン辺境伯を悪魔化するための格好の材料になりますな」

 エミリオは、その言葉を無視した。

「なぜ少女が? 児童労働?」

 ホァンジン公は、待ってましたとばかりに、さらに目を輝かせた。

「児童労働! 人身売買! それは重罪ですな! 退場してもらう人間が、また増えそうで何より!」

「いえ」

 兵士は、二人の会話を遮り、淡々と訂正した。

「帝国中央博物館の博士課程に在籍する学生であります。比較アーカイブ学専攻と」

「この年齢で?」

 エミリオの驚きに、ホァンジン公がすかさず皮肉を被せた。

「しかし、近い齢で帝国の統治を担っておられる方もいらっしゃいます。驚くような年齢でもありますまい」

 少年皇帝は、その皮肉を再び無視し、兵士に命じた。

「被害者遺族と合わせて、彼女のご両親にも、私から手紙を書こう。用意を」

「陛下の慈悲深さが守旧派の残忍さをより一層引き立てるでしょう」

 すべてを利益で解釈するホァンジン公の歓喜の声を、兵士の冷たい報告が打ち消した。

「――確認いたしましたが、両親は、既に死亡している、と。アークライト氏の両親は《臨床考古学研究所事件》の被害者であります」

​ 臨床考古学研究所事件。

 その言葉を聞いた瞬間、皇帝の顔から、すっと表情が消えた。ホァンジン公の計算高い笑みも、凍りついた。

 それは、帝都の誰もが知る、最悪の『遺産』関連事故。

 《メカニャンコ確変王メカ・ニャオ・カクベン・ワン》の、起動シークエンス確認実験の失敗。

 そして、皇帝エミリオの母が后宮ごと吹き飛ばされて死亡した、事件。

 あの事件で、彼女もまた、家族を。

 后宮を含めてあまりにも広範囲が《メカニャンコ確変王メカ・ニャオ・カクベン・ワン》の攻撃に晒されたため、帝都のどのあたりに住んでいたかすら、エミリオには推測できなかった。

​ 皇帝は、その写真をしばらく無言で見つめていた。

 やがて、誰に言うでもなく、心の底から絞り出すように、吐き捨てた。

​「《太陽の所有者》ってのは、クソだ。クソみたいな機械を撒き散らして消えやがったクソども」

​ それは実に子供っぽい悪態だった。そして、同時に、魂からの呪詛だった。

 兵卒と選帝侯の視線に気づいた瞬間、少年はすっと表情を消した。先ほどの激情が嘘だったかのように、冷徹な君主の仮面を被り直す。

 そして、彼は外務大臣に、静かに、そして哲学的な問いを投げかけた。

「ホァンジン公。優れた科学力は、優れた倫理性の裏付けになるかね?」

 その問いは、あまりに唐突だった。ホァンジン公は、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに老獪な外務卿、大貴族のそれに切り替える。

「陛下、私、哲学や思想には疎いもので。ただ、遺産に固執する者たち――例えば、かのドン辺境伯のような――と、我々の改革を阻む邪魔者たちが、概ね重なっていることだけは理解しております。優れた科学力への憧憬は、優れた政治力の根拠にはならないのでしょう」

 皇帝の唇の端が、わずかに吊り上がった。

「元坊主のくせに、言う」

「大昔の話でございます」

「今は投資家か?」

「選帝侯にして、皇帝陛下の外務卿でございます。お忘れですか?」

「忘れたいと思っている」

​ 老獪な臣下が微笑み、忠実な兵士が青ざめた顔のまま退出した。少年皇帝は一人、執務室に残される。

 彼の視線が、机の上の小さな写真立てに向けられた。そこに写っているのは、優しく微笑む若き日の母だった。その微笑みが何故か、彼の脳裏に、先ほどのデータパッドにあった顔を喚起した。

 リア・アークライト。

 自分と、同じ日に、同じ場所で、あの悪趣味な鉄屑に、家族を奪われた少女。

 そしてまた、あのクソみたいな機械人形に――。

「すまない」

 誰に言うでもなく、ただ虚空に懺悔の言葉がこぼれた。

 地球のほぼ半分を支配する〈ルーロード家による連合帝国〉の皇帝である少年は、冷徹な支配者の仮面を被ったまま執務室の奥の闇の中へと入った。

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