1.2.1.2 メカニャンコ確変王(運命の変革を司る王)

 老獪な選帝侯アウグストは、しかし今はその血の気の引いた顔で、目の前の少年を――いや、少年を通して、その背後にいる絶対的な権威を、数秒間、凝視していた。だが、その視線は、まるで分厚い氷壁にぶつかったかのように、何の意味もなさなかった。

 ホァンジン公は、「そうだな、今日はこれで失礼させてもらおう。実は外務大臣というのはこれで結構、忙しくてね」と言った。それから、唇を固く結び、背筋を伸ばすと、病室から出ていった。

 バタン、という乱暴な音ではなく、まるで空気が抜けるような静かな音でドアが閉まる。それはひょっとすると、選帝侯が選帝侯である所以なのかも知れなかった。

 そして、病室に、沈黙が落ちた。

 先ほどまでのホァンジン公の饒舌と、それを止めた少年の威圧。その両方が、互いに打ち消し合い、白い部屋の空気のあらゆる振動を停止させた。リアもまた、この部屋の全ての分子と同様に、ベッドの上で身動き一つできなかった。

 目の前の少年。若いの、とだけ呼ばれていた近衛兵。彼が何者なのか、なぜ大公を退けられるのか、リアには分からなかった。ただ、ホァンジン公という国家意志を退けた彼もまた、別の種類の、国家意志の代理表象であることだけは分かった。

 リアはあらためて彼を観察した。彼の肩に縫い付けられた、簡素な二本線の階級章に気づいた。

――伍長。

 大公と伍長。

 ​リアは、そのアンバランスさに奇妙な違和感を覚えながら、身を固くした。

 その伍長は、ホァンジン公が座っていた椅子には目もくれず、直立不動のまま、リアを見下ろしていた。その瞳は、先ほどまで大公に向けられていた絶対零度の光を消し、無機質なガラス玉のような、感情のない色に戻っていた。

「驚かせたか」

 抑揚のない声だった。大公を批評するその態度は、まるでラディカルな共和主義の評論家か、あるいは全く逆に、皇帝陛下のようだった。

「ホァンジン公は、帝国にとって有益な政治家だ。だが、時に手段を選ばない。必要なら歴史を修正し、事実を作り出す」

 少年は、リアの反応を待たず、淡々と続けた。

「先ほども訂正したが、ウォン=スミス教授に関する報告は、公の提示したものとは異なる」

 彼は、記憶に保存されたデータを読み上げるように、正確に、感情を排して言った。

「教授は、惑星ユリシスへ発つ予定だった。だが、出発の直前、彼は『愛弟子の顔を一目見ておきたい』と周囲に告げ、予定を変更し、危険が報告されていた発掘現場へ向かった。それが、我々が把握している『事実』だ」

 その言葉は、恐らくは少年が顔には一切示さない優しさに由来する、ホァンジン公の言葉を否定するためのものだったが、リアにとっては別の、もっと重い真実を突きつけるものだった。殺すための糾弾よりも、生きつづけることを求める真実の方が、なお重い。

 緘黙の檻が、より一層固く心を閉ざしていく。

 伍長は、リアのその絶望には構わず、続けた。

「公は、君をユリシスへ行かせようとしていた。それだけで、ドン辺境伯を叩く格好の材料になるからな。だが、私は皇帝陛下に、君のユリシスへの渡航は困難であると報告するつもりだ」

 それは、ホァンジン公の誘導とは正反対の、明確な「禁止」だった。

 リアは、震える指でデータパッドに手を伸ばしかけ、そして、やめた。何を言えるというのか。そもそも、惑星ユリシスについてすら、彼女はよく知らなかった。

「君に必要なのは、ユリシスでの研究ではなく、ここでの絶対安静と、その後の手厚い保護だ」

 それは、リアの意志を問わない、一方的な庇護の通告だった。

 リアは、ただ白いシーツを握りしめる。

 両親が死んだ時も、そう言われた。手厚い保護の中で、彼女は檻に閉じこもった。  今また、同じ場所に戻ってきたのだ。

 リアのその無力さを噛みしめる姿に、何かを重ねるように、ふっと、兵士は寂しそうに微笑んだ。

「ぼくは母を《メカニャンコ確変王》に殺されていてね」

 リアの肩が、微かに震えた。その突拍子もない告白が、虚無に沈みかけていた意識を強引に引き戻す。

メカニャンコ確変王メカ・ニャオ・カクベン・ワン》。

《メカゴリラ爆裂王》と同じく、〈太陽の所有者タイヤン・オーナーズ〉が残したとされる遺産の一つ。胸に古代日本語で「メカニャンコ確変王」という文字列が刻まれている。

 この《メカニャンコ確変王》もまた、《メカゴリラ爆裂王》が「霊長類王」と解釈されたのと同様に、「ニャンコ」が「聖獣」、「確変」は「確かなる運命の変革」と解釈され、通称、「聖猫王シェンマオ・キング」と呼ばれるようになった。

 ​だが壮麗な名前で取り繕おうと、それはただの悪趣味な機械人形だ。

 なぜなら、それは、私の――。

​――《臨床考古学研究所事件》。

 帝都近郊で起きた、最悪の遺産暴走事故。

 この「聖猫王」の起動シークエンス確認実験が失敗し、暴走したあの機械が、研究所ごと、リアの両親を吹き飛ばした、あの事件の名前。

​ あの事件で、リアは一度、すべてを失った。

 そして、目の前のこの伍長も「母を」?

 同じ、日に?

「今でもはっきりと、思い出すよ。《メカニャンコ確変王》の、あの紅い瞳を。あれを覗いてしまったら――、必要なのは休息だ。そんなことは医学的知識がなくともわかることだ」

 それから少年は制帽の位置を直し、踵を返し、部屋を出ていこうとする。リアが思わず彼の服の裾を掴んだのは、ちょうど、その時だった。彼女は少年に、同じ被害者、愛する者を《太陽の所有者》の遺産に奪われた者として、何かを言いたいと思った。だが言葉が出ない。歯も唇も舌も喉も、彼女を裏切った。

 彼は、そんなリアの姿を見ると、彼女の手を両手で包み、繊細で高級な芸術品を扱う学芸員のような態度で、彼女の胸の前に戻した。

「心配ない。誰でも、無傷のままの人間に戻る可能性を持っている」

 言って、僅かの音も立てずに部屋を出ていった。

 リアは、一人、ベッドの上で呆然としていた。それは、精神的なショックを伴うほどの、巨大な、少年の気遣いのためだった。彼女は、教授の研究のことも、ウェン・マンハイムのことも、考えるのをやめた。考えることは、痛みを伴うからだ。彼女は、ただ、差し伸べられた「保護」を受け入れることにした。同じ「被害者」に、適切な言葉をかけることすらできない自分に、他に何ができる? そうして、再び、白い天井と自分の手のひらを交互に見つめる、あの虚無の時間へと戻っていった。

 入ってきた看護師がバイタルチェックをした後で、リアはベッドサイドのテレビのスイッチを入れた。画面には、先ほどまで自分の病室にいた外務卿が、大勢の報道陣に囲まれて、悲壮な表情で拳を振り上げている姿が映し出されていた。

『――陛下の臣民を無意味に傷つける、遺産に対する軍産学複合体の妄執は、直ちに断罪されなければならない』

『陛下は《遺産》発掘の全面的な停止を望んでおられるのですか?』

『陛下の望みは臣民の安寧、ただそれだけだ。そしてこの私が、そのお望みを叶えるには、発掘の停止が望ましいと考えている』

『自由都市共同体との発掘競争に敗北する恐れは?』

『競争とは何だね? 競争が何処にある? 運用も保守の方法もわからない、古代人の作った機械を、ブラックボックステストやリバースエンジニアリングと称して膨大な時間と金をかけ、どれだけ暴走させられるかを競うことかね?』

『ドン辺境伯やその他、共同体と睨み合う領主の方々の同意は?』

『君、ここはルーロード家による連合帝国だよ』

 リアは、何も感じないまま、テレビを消した。そして、自らの意志で、ゆっくりと、ベッドのシーツを頭まで深く引きかぶった。世界を、拒絶するために。

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