一日目『朝の出来事』

  体が熱い。息が苦しい。

 苦しさのあまり、手をにぎむ。

ひんやりとした、なめらかな手触りが掌に広がる。これは、シーツの感触。ここは、ベッドの上。遮光しゃこうカーテンの隙間から光がれ出して、部屋をわずかに照らしている。今いるこの場所は、自分の部屋。

 そこまで考えが進んだところで、やっと夢から覚めたのだと実感する。でも、体の熱はまだ残っていて、不安からか視界がぼやけている。私は反射的に、左目を押し込むように手を当てる。大丈夫、何ともない。言い聞かせるように何度も心の中で唱えながら、布団を押し除ける。部屋の中は太陽に温められたせいなのか、少し蒸し暑い。ベッドから起き上がり、分厚いカーテンと窓を勢いよく引く。籠った熱が外へと出ていく代わりに、涼しい風が私の汗ばんだ肌をひとでして部屋に入ってくる。

「……眩しい」

 太陽の光から目を守るように、手を額の前に掲げながら呟く。

 まだこの時間帯は、日差しが強く感じられる。ベランダに出て少しだけ背を伸ばし、半分寝ているままの頭と体を起こす。頭と体の両方がすっきりとしたところで、改めて外の風景を眺めた。

 雲一つない青い空が遠くまで広がり、太陽は燦燦さんさんと降り注ぐ。丘陵の頂上付近に建つ私の家からは、いろんな風景を見通せる。

目の前の住宅街では、大人たちが夏の暑さに不満を漏らす。それをよそに、浮かれはしゃぐ子供たち。向こうには、通勤通学途中のサラリーマンと学生をいっぱいに詰め込んだモノレールが駆動音くどうおんを響かせながら通過していく。

 そのさらに遠く。小さな家々が地平線に近づくにつれて大きくなり、やがて空との境目さかいめでビル群が集う。そして、藍白あいしろ尖塔せんとうの姿が朝靄あさもやに隠れながらも、存在感を放っていた。

 私は目の下に残る涙の跡を拭い、小さく息を吸って吐き出す。毎朝見ているはずの景色なのに、なんだか懐かしく見えた気がした。この街並みが、私のよく知っているもの。ここが、私の居場所なのだ。そう確かめるように、暫くの間目の前の景色に見入っていた。


「おはよ、遅かったね」

 制服に着替えリビングに下りると、お母さんが朝ご飯を食べ終わったところに出くわした。紺色こんいろのブラウスに黒のボトムス姿のお母さんは、食器とスマホを別々の手で持ちながら話しかけてきた。

「おはよ……。ちょっと夢見が悪くて」

 いい言葉が思い浮かばず、曖昧(あいまい)な返事をしてしまう。

「顔色良くなさそうだけど、大丈夫?」

 心配そうな顔をするお母さんをよそに、大丈夫、と、一言だけ返して椅子に座る。テーブルの上には、食パンとスクランブルエッグ、ベーコンにレタス、おまけにミニトマトをひとつにまとめたプレートが置かれていた。

 お母さんの朝ご飯は、その日の気分次第で洋風和風のどちらかになるけど、今日は洋風の気分だったらしい。手を合わせ、心の中で、いただきます、と一言断り食べ始める。焦げ目の新しいトーストの上に、半熟のスクランブルエッグとカリカリのベーコンを乗せ、そのまま口に運ぶ。サクッ。耳心地みみごこちの良い音と一緒に、卵の甘みとベーコンのしょっぱさが程よく口の中に広がる。味付けは薄いけど、これくらいが私には丁度よかった。

「無理しないでね。来週にはお父さんも帰ってくるんだから。元気な顔、見せてあげて」

 食器を片付けリビングに戻ってきたお母さんが、後ろ手に髪をまとめ上げながらに言う。顔を合わせずに、「うん、わかってる」と、また、素っ気なく返事をする。表情は見られないけれど、何となく、呆れられているのだろうなと当たりを付ける。自分でも感じが悪いと思うけど、今はどうしても喋りたい気分になれなかった。

「ならいいけど」と、お母さんはため息交じりの声で言いながら、ソファーに置きっぱなしにされた鞄を引っ張り上げて、そのまま玄関に続く廊下の扉をガチャリと開いた。その姿を横目で追いながら、頬張ほおばった朝ご飯をゆっくりと飲み込む。

「あとそれから……」そう言って、ドアノブに手を掛けたままお母さんが振り返る。

「明日の朝、仕事で早く出ないといけないから。寝坊しないように気を付けなさいよ」

「りょーかい。いってらっしゃい」

 間延まのびした声で私は返す。お母さんも最初は呆れ顔だったけれど、すぐに口元を緩めて「いってきます」と、扉を閉める。玄関口の開く音がしたかと思えば、すぐにお母さんの愛車の軽ボックスがエンジン音を吹かせながら発進する。ものの数秒も経てばその音も遠ざかり、後に残ったのは、パンをかじる私と付けっぱなしにされたエアコンの静かな送風音だけだった。

 相変わらず運転荒いなぁ。なんて、軽い感想を浮かべながら、ミニトマトを口の中に放り込む。実をみ潰すと、果肉かにくの酸っぱさが舌先を伝って喉奥のどおくに流れ込む。顔をしかめないように我慢しながら、誤魔化すようにパンをもうひと齧りする。やっぱり苦手だな、この味。子供の頃から嫌いだったミニトマトは、今でこそ食べられるようにはたなったけど、嫌いであることに変わりはなかった。油断すると吐きそうになる感覚がどうしても克服できない。私もまだ子供っぽいな、そう自嘲気味じちょうぎみに考えながら最後の一欠片を口に運ぶ。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせ、今度は声に出して感謝の言葉を口にする。手早く食器を片付けながら、学校までの時間を確認しようとスマホを探す。ふと、壁に掛けられている鏡に視線が止まる。

 そこに映し出されているのは当然ながら自分の姿。なんの変哲へんてつもない黒髪。ぼんやりとした目元。ぴっちりとした制服に似合わない、生気せいきがれた顔つき。おまけに化粧けしょうっけもないとなると、お母さんが心配しても仕方がない私の姿がそこにあった。

 鏡の前に立ち、その中にいる私の顔の輪郭を指でなぞる。無機質な冷たさが指先に溜まっていく。鏡の中の私に吸い取られているような、そんな錯覚さっかくすらしまいそうになる。 

 昔はもっと上手に笑えていたと思う。人付き合いが多かったからなのか、まだ心に余裕が残っていたからなのか。どっちにしろ、目の前の私よりもずっと愛想は良かったはずだ。それがいつのころからか、人付き合いが悪くなり、友達だった子たちと疎遠になり、家族との会話が減り。残ったのは、陰鬱いんうつな表情ばかりを浮かべる私だった。

「ほんと、ひどい顔」

 鏡から指を離し、改めて自分の顔を見つめながらにこぼれ落ちた言葉。エアコンの送風がレースカーテンを揺らすリビングに一人。私の言葉を否定する声は無かった。



 私の故郷ふるさとは、都会と呼べるほど華やかでは無いけれど、田舎というほど不便な場所でもない。知名度はそんなに高くはないけど、自慢できるものもそれなりにある。坂道が多くて移動に手間が掛かるのと、若者のつどえる場所が少ない点に目を瞑れば、澄んだ水辺や緑豊かな丘陵地など、自然に囲まれた住み良い街だと思う。良く言えば、長閑のどかで程よく発展した住宅都市。悪く言えば、刺激に欠け周りに埋もれる地味な街。

 そんな街に生まれ育ち、今日も一人、この街の片隅かたすみを歩いていく。

 快晴の青空の下、蝉の声に混じって電車の走行音が遠くに聞こえる。九月にはいっても日差しは相変わらず強いままで、熱中症の注意を促す速報がスマホの画面端にピコンと表示される。このままだと、今年もまた月の最高気温を更新する勢いらしい。タブに羅列られつされた文字をにらみながら、私は坂道を急ぎ足で下っていく。吹き抜ける風を肌で感じながら、スクールバックを挟む脇に力を入れ、所々にあるくぼみに足を引っ掛けないように駆け下る。

坂道を下り切ったところで、一息入れる。スマホを見ると、画面の時計が八時九分から、十分に切り替わっていた。

「フゥー……、あと二十分」

 これなら十分間に合う。そう確信して、息を深く吐き出し、ゆっくりと歩き出す。登校までの道のりの半分にも達していないのに、顔中が焼けたように熱い。唯でさえ気温が上がりっぱなしなのに、これ以上無理に動いたら本当に倒れてしまう。虚弱きょじゃくな自分の体が、時折り恨めしくなる。

 やっぱり運動した方がいいのかな? 何をいまさら言ってんの? 頭の中で無意味な問答が勃発ぼっぱつする前に、パタパタと顔を仰ぎながら熱を冷ます。暑さも運動も嫌いだ。

 住宅街と都道を結ぶ橋を渡り、赤信号に替わった歩道の前で止まる。道を挟んだ向こう側の歩道には、半袖姿の小学生たちがランドセルを揺らしながら大声ではしゃぎ合っていた。

 夏休み明けの憂鬱さと無縁なようで、休みの間に何をしていたかの自慢話をしているみたいだ。プールがどうとか、動物園で家族がどうとか。単語でしか聞き取れないけれど、皆がみんな、楽しかった思い出なのは間違いなさそうだ。

「夏休み……か」

 目の前のあの子たちと違って、今の私に夏休みらしい思い出はない。幼いころと違い、高校に入学してから友達と呼べるほどの関係をほとんど築いてこなかった私にとって、夏休みほど無意に過ごすイベントはないかもしれない。

やることがあるとすれば、無難に勉強か、家事の手伝いか。あとは、もう、思いつかない。

「はぁ」

 うつむきながら、溜め息をこぼす。それがどうしようもなくみじめに思えてしまう。今こうして一人でいるのは、私自身が人との繋がりを疎かにした結果に過ぎない。だから溜め息なんて、みっともない。頭の中の私が、どうしようもない正論をぶつけてくる。 

 そんなのわかってるよ。歩み寄らなきゃいけないのは私の方からだってくらい。でも、どうすればよかったのか思い出せないよ……。

 何度も繰り返してきた幼稚な言い訳を、巻き戻したカセットテープみたいに頭の中で再生する。その途端に頭の中が静かになる。子供たちの声も、いつのまにか無くなっていた。

 この先も、現実逃避のようなやり取りを続けていくのだろうか。ひとりぼっちが好きなわけじゃない。ただ、踏み込むのがほんのちょっと億劫おっくうなだけ。声を掛けられたらちゃんと答えるし、頼み事もできるだけ協力もする。それだけで十分なはずなのに、みんなはそれ以上を求めてくる。応えられなかったら、振出しに戻る。そこからこまが進むことは、もうない。

 人との関わりなんて気にせずに生きれたら、どんなに良かっただろう。でも、一人だけで生きていけるほど、私は強くもなんともない。子供の頃みたいに、見ず知らずの大人たちが相手でも馴染もうと努力していたわたしは、もういない。

能天気に笑顔を振りまいて、誰にでもお構いなしに突撃していたころのわたしが今の私を見たら、何ていうのかな。もしも、あの頃に戻れたら、やり直せるのかな。友達と呼べる存在がいて、お母さんは明るいままで、お父さんが遠くに行かずに済んで、思い出の場所も残ってたあの頃なら……。

 ガタンッ。

「!」

 水底みなそこに沈みかけていた意識が一気に引き上げられる。驚いて前を見ると、黄色と白の大きな影が通り過ぎていた。よく見るとそれは、ショベルカーやトラックみたいで、道に散らばる小石を弾きながら、ガタガタと音を鳴らし我が物顔で走り抜けていった。

 何処かで工事でもするのかな。何て眺めていたら、そのうちの一台が、行儀ぎょうぎよく白線の手前で停車した。もうすぐ信号が変わる。それだけ確認して、目を瞑り静かに息を吐いて心を落ち着かせる。昔はむかし、いまは今。高校生の今は、そんな夢物語にかまけている暇なんてない。なげくよりも、やるべきことに集中しよう。私にできることは、それだけだから。

 今日も一日頑張ろう、そう張り切って目を開き一歩を踏みだす。と、

「?」

 道の向こうに、誰かが立っている。大きな道だから、人がいても全然不思議じゃないはずなのに、その人の姿に目が引き込まれてしまう。

 麦わら帽子よりも大きなつば広の帽子を目深にかぶっていて顔は見えないけれど、着物姿で女の人なんだなとわかった。私よりも背が高くて、無地の着物に腰下まで届くほど、真っ直ぐな黒髪をなびかせている。左手には私の肩まで届きそうなくらいの長いつえを握っていて、先端に結び付けられている小さな銀色の鈴が、音を鳴らさずに揺れていた。

 日常と切り離されたその人の姿の前で、信号が青に変わった後でも、私はただ立ち止まったままでいた。女の人の姿は確かに不思議だと思う。でももしかしたら、近くの神社かお寺の人で、そのための格好なのかもしれない。頭の中で、説明できる事象を挙げてみても、足と心を動かすには足らなかった。私は、この人のこと、どこかで……。


不意に女の人がゆっくりと歩きだす。それにつられて、ようやく私も足早に歩き始める。

 女の人は一歩一歩を丁寧に、踏み確かめるような歩調で進む。だから、私との距離はあっという間に縮まってしまう。そして、その姿に目を剥がせなくなる感覚もますます強くなる。

 長く伸びた髪は星の無い夜空のように黒く、肌は冬の深雪しんせつを思わせるほど白い。帽子の影から覗かせる顔の輪郭は、細くやわらかで『はかない』という言葉が頭をよぎる。杖を握る手の指先もすらりと細く、手首には籠目かごめ柄のブレスレットが巻かれていた。

 鮮やかな色彩しきさいに飾られた景色に、一人だけ色を忘れられてしまったかのような女性。なのに、これが自然の姿なんだと不思議と納得できてしまう。女性に近づくほど足が遅くなる。瞳はまばたきすらせずにその姿を映しだす。手を伸ばせば届く距離で、私たちはすれ違う。 

その瞬間、誰かの声が、耳の奥で木霊こだました。暖かくて頼もしい声。知らないはずの声なのに、とても懐かしい。胸の奥が淋しさで締め付けられる。この気持ちには覚えがあった。今朝の、夢からめるまえに似た――。

 ブーッ。

 鼓膜こまくに響くクラクションにハッとなる。金髪で厳つい顔の男の人が、苛立たし気に私を睨んでいた。信号はとっくに赤なのに、私は道路の真ん中に立ったまま……。

「ご、ごめんなさい!」

 頭を下げ、慌てて横断歩道を渡りきる。歩道に入ったところで振り返りながら、私はもう一度頭を深く下げる。トラックの荒々しいエンジン音を聞き届け、音が止んだ頃に頭を上げる。緊張のせいか、鼓動が速くなっている。でも、胸を締める苦しさは消え去っていた。渡って来た横断歩道に目を向けると、女性の姿はなかった。しばらく視線を彷徨さまよわせても見当たらず、登校中だったことを思い出してまた歩きだす。

 今日は朝から不思議なことばかりに遭遇そうぐうしている気がする。おかしな街の夢に、白黒の女性。それから、懐かしいと感じてしまうあの声。まるで、何かの始まりを予感させるような出来事が、次々と目の前に現れる。

風にあおられて、周りの木々が葉擦はずれでざわめきだす。もしかしたら、心躍るような冒険が始まるかもしれない。愉快な仲間との出会いがあるのかも。素敵なロマンスだったらいいよね。木々たちが口々に何が始まるのかをささやき合っているような気がしてしまう。ささやきに合わせて、私の心も少しだけ高鳴る。本当に、何かが始まるのかもしれない。人生を変えてしまうような何かが。でも……。

「そんなわけ……ないよね」

 心の期待にふたをするように、そう呟く。創作の主人公でもないのに、そんな都合のいいことが起きるわけない。冷静さを取り戻した私は、学校の裏手に続く坂道を迷うことなく上り始める。始業のチャイムまで、あと十二分。夏を乗り越えた虫たちの声が、ひどくうるさく通い路のアスファルトにみ込んでいた。



 学校に着いたのは、予鈴よれいのチャイムが鳴る少し前のタイミングだった。昇降口や廊下にはまだ何人かの生徒が残っていて、みんなそれぞれの会話に夢中になっていた。その内容も、海に遊びへ行ったとか、夏イベが最高だっただとか、ここでも夏休みに関した話題で持ちきりみたいだ。

 笑い声が飛び交う廊下を一筋に通り抜け、私は自分の教室に入る。教室の中は廊下よりも幾分いくぶんか落ち着きはあるけど、グループで固まり会話を続けている子たちもちらほらといる。

 またいつもみたいに先生が来るギリギリまでねばるつもりなんだろうな。見慣れてしまった先生と生徒の朝の駆け引きを予見しながら、最前列の窓際にある自分の席に向かう。何人かのクラスメイトが私の存在に気付いたけど、とくに会話も挨拶もなく、ただその事実を確認し終えると関心を外す。私も同じ反応を返し、自分の机に鞄を置きようやく腰を下ろす。 

 窓の隙間から、まだ夏の緑の香りが届いてくる。

珠凪たまなちゃん」

 真後ろから私の名前を呼ばれた。

「おはよう」

「おはよ、メイ」

 後ろを振り向き、メイに朝の挨拶をする。同学年でほぼ唯一の話し相手になっているメイは、私の顔を見るなり、明るい笑顔から眉を下げ、不安げな表情に変わる。

「珠凪ちゃん……、お顔真っ青だけど、大丈夫?」

 物憂ものうげに揺れる瞳に問われ、口ごもりながらも答えを模索もさくした。 

「あー……、うん、大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」

「本当に平気?」

 間髪かんぱつ入れずに切り返され、言葉に詰まってしまう。心配性なメイのことだから、本心から聞いてくれているんだろうけど、真っ直ぐな瞳に頬がむずがゆくなる。

「へーきへーき。きぶんも全然悪くないし。顔色良くないのはいつものことだから」

 だから気にしないで、そう答えるとメイはひとまず引いてくれた。まだ納得してくれた感じではないけど、とりあえずは大丈夫だろう。彼女との距離感は、本当に測りづらい。顔を逸らして頬をかく。

「……」

 すると、私を見つめる瞳とぶつかり合う。見つめる、というよりにらみつけると言った方が正しいかもしれない。私を見ているのは、クラス内でも華のあるグループに属する子。長くつやのある髪の先を瑠璃るりに染め、大胆に着崩した制服が目立つ姿は、青春への憧れを体現しているみたいだ。地味な私とは真反対の立ち位置にいるのに、ことあるごとにちょっかいをかけてくる。

 周りにいる同じような女子たちも、その子の視線に沿って私を見る。冷たく見下すような目つき。わざと聞こえるように投げかけられる嫌味に私の心はうんざりする。

鳥羽とばさん……」

 隣のメイも、その視線に気付き表情を暗くする。周りのみんなは知ってか知らずか、関わろうとしない。女子グループと私たち二人の間で、嫌に心地の悪い時間が流れる。それも予鈴のチャイムと先生の掛け声で霧散むさんする。ぷんぷんと擬音ぎおんが聴こえてきそうな先生の怒り方に、立っていた人たちは半笑いになりながらいそいそと席に戻り、女子グループも不満そうな顔で席につく。鳥羽さんは最後までずっと、口を開かず睨んだままだった。

 先生は連絡事項を手短に伝えると、すぐに出ていってしまい、教室内はまたどっと騒がしくなる。私は喧騒けんそうを無視して一限目の授業の準備をする。

「あっ!」

 メイが何かを思い出したかのように声を上げる。気になって首を向けると、両手を合わせて申し訳なさそうにしていた。

「ごめんね、珠凪ちゃん。先輩から伝言を預かっていたのに忘れちゃってた」

 大きな声を出したのが恥ずかしかったのか、少しだけ頬を赤く染めて今度は小声で話しかけてくれる。メイの反応はいちいち可愛らしいな、なんてちょっとおじさんくさい思考になりかける。いやそれより先輩って……。

「もしかしなくても、宇多うだ先輩?」

 確認するように訊くと、頷き返される。

「珠凪ちゃんに手伝って欲しいことがあるって」

 やっぱりか。思わず声に出しそうになったのを寸でのところで飲み込む。その代わりに、左目のまぶたを軽くつまんで気を紛らわせる。「目が痛いの?」と、不安そうにメイが呟いたのに対して私は首を横に振る。痛くはない、先輩の相手をするのが面倒と思っただけ。あの人が絡む場合は、ちゃんと顔を見せに行かないと余計に手間が掛かかるから心底厄介なのだ。

「大丈夫だよ。それより、手伝いっていつ行けばいい?」

「えっとね、今日の放課後に部室でお願いって、言ってたよ」

「そう、わかった。じゃあお願いね、メイ」

「うん!」

 私の返事に、普段の明るく眩しい笑顔が戻ってきた。

 やっぱり笑った顔が一番似合うよ、メイは。――なんて。

長くない付き合いの筈が、まるで昔から気心きごころの知れた友達みたいだと、勘違いしそうになる。そんなわけないのに。

「珠凪ちゃん、なんだか嬉しそうだね」

「……そう?」

 もう授業が始まるから、またあとでね。そう言って机に向き直り、準備を再開する。それから、頭の隅に新しい予定を一つ追加する。見慣れた窓の外の風景は、今日も変わらず輝いたままだった。



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キヅキの記録 東春樹 @Rs310524

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