第12話: 港の約束──LIVIERA、再び
神戸から東京へ戻って、まだ三日も経っていなかった。
勝鬨の部屋は、旅立つ前と同じように整っていた。
薄く埃をかぶった机。
使われていないコーヒーメーカー。
そして、沈黙に似た静けさ。
荷をほどきながら、あの日々が“本当にあったものだったのか”と疑いたくなるほど、ここは音がない。
東京は便利で速く、正確で、何ひとつ不足はない。
でも、港町で見た、風に揺れる洗濯物のような“生活の音”が、ここにはどこにもなかった。
******
昼すぎ、スタジオに入った。
クライアントは某大手百貨店とジュエリーブランドの合同案件。
モデルは完璧なメイクで、照明は緻密に計算されている。
背景も服も光も、何一つとして“偶然”に頼らない。
撮影は順調だった。
予定通りに終わり、担当者も満足していた。
でも、シャッターを切る指に、どこか温度がなかった。
「撮る」という行為は同じなのに、あの港での一枚とはまるで別のもののように思えた。
******
帰宅後、PCに向かい、旅の写真の整理を始めた。
フォルダは日付と場所で整理されていて、ひとつひとつに港の匂いがあった。
フェリーの影、干されたタオル、波打ち際で笑う誰かの横顔。
そのときだった。
未読メールが一件、届いていた。
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件名:「九鬼さんにお願いしたいことがあって」
差出人は、LIVIERA。
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九州コレクションで何度か言葉を交わした、アパレル企業の若き女性オーナーからだった。
LIVIERA:若い女性の人気を基に、直近、著しく成長している企業。都内百貨店やセレクトショップでの展開多数。
“風と街に似合う服”をコンセプトに、各土地での地域企画も積極的に展開。
香月沙耶:新興ブランドながらも、一代で軌道に乗せたカリスマ型オーナー兼クリエイティブディレクター。
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《こんにちは、LIVIERAの香月です。九州コレクションの写真、拝見しました。正直、あれほど“風が写っている”写真を見たのは初めてでした。》
《実は、新たに立ち上げるキャンペーンのビジュアルを依頼できないかと考えていまして——できれば、九鬼さんとお会いして、お話出来きませんか?》
品川インターシティ。
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メールの署名には、その住所が添えられていた。
スマートフォンに通知が入った。
娘の美佳からのLINEだった。
「写真、見たよ。ありがとう」
それだけだった。
でも、それだけで、今日という一日が“真っ白ではなかった”気がした。
慶彦はディスプレイを閉じ、立ち上がった。
東京の夜は、窓の外に深く、黙って広がっていた。
******
1週間後の午後、品川のインターシティ。
ガラス張りのビルの谷間に、LIVIERAのオフィスがある。
香月沙耶との再会は、思ったよりもあっさりしたものだった。
「おかえりなさい、ところで神戸はどうでした?」
慶彦は笑って頷いただけだった。
会議室には、ブランドの新作ラインがいくつか展示されている。
「"九州コレクション"の時のこと、覚えてますか?」
香月がふと声を落とす。
「九鬼さん、あなた、門司港に行くって言ってたでしょう?“港の表情を、写真に残したい”って。私、あれがずっと印象に残ってて」
彼女はモニターをつけて、湘南エリアの風景写真を数枚見せる。
「実は、湘南で小規模のショーをやる構想が出ていて。海辺に合う服がテーマなんです。できれば“写真”と“空気感”を併せて伝えたい。そう思ったとき、あなたの港の写真の話が頭に浮かんだの」
慶彦は、軽く目を見開いた。
「実は…」
鞄から封筒を取り出し、中から数枚のプリントを彼女の前に並べた。
「これが、門司港で撮った写真です」
香月はひとつ、深く息をついた。
「やっぱり、あなたが撮ると、風が見える。…これ、次の提案に使わせてもらっていい?」
「もちろん」
そこからは早かった。
彼女の言葉に後押しされるように、慶彦の中に“次の場所”が浮かび始めていた。
その日の打ち合わせは、予想よりも長く続いた。
香月は、湘南エリアでの限定コレクションと展示会を企画していた。
候補地は、葉山、鎌倉、そして横浜。いずれも海を背景に“日常に寄り添うLIVIERA”をテーマにした小規模イベントになる予定だった。
「実は、創業十年の節目もあって。来年には東京コレクションの話も進んでいて、今のうちに“原点を見直す場”が欲しかったんです」
「服も、写真も、“誰のために残すか”が問われる時代だから──」もう一度原点に立ち返りたいの」
香月は言う。
「大きなステージじゃなくてもいい。海に似合う服を、海のそばで見せたい。…九鬼さん、あなたの写真が、その空気を引き出してくれると思ってるの」
言葉の隙間に、慶彦はかすかな共鳴を感じた。
商業でも私的でもない、誰かの生活にそっと触れるような視線。自分が港町で見つけたものと、重なっていた。
「じゃあ、僕は葉山、鎌倉、横浜の三ヶ所を回って、ロケハンと撮影をしてみます。香月さんが考える“風の通る服”に合う風景を探す。その中から、場所を絞っていけばいい」
香月は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いね。お盆の頃、ちょうどいい季節だと思うから」
打ち合わせの終わり、彼女はふとつぶやいた。
「不思議ね。前に話した“港の写真”のこと、こんなふうに繋がるなんて。人の記憶って、ちゃんと残るのね」
その言葉が、久しぶりに、まっすぐ慶彦の胸に届いた気がした。
「香月さん、港の事、覚えていてくれて、本当にありがとうございます。私も、今の光を、今のまま残せるうちに、急ぎ撮影してきますね。」
「ありがとう、九鬼さん。この話、きっと“誰かの生活”にとっても意味のあるものになりますよ」
帰る頃、空は少し夏の終わりの色をしていた。そしてその空の向こうには、あの海がまだ続いている気がした。
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