第5話: 東京·赤坂── 日常と、少し未来へ ──

羽田からタクシーで勝鬨のマンションに戻ったのは、午後を少し過ぎた頃だった。


数日空けただけの部屋は、静かで、ほんの少しよそよそしくもあった。


靴を脱ぎ、カメラバッグを置き、エスプレッソマシンに火を入れる。

マキネッタで作る、濃いコーヒーが無償に飲みたくなった。


静かな湯の音とともに、旅の余韻が胸に満ちていく。


鹿児島で撮った写真を、PCのモニターに映し出す。

桜島、磯庭園、フェリーの甲板──あの時間の匂いと音が、画面の奥から立ち上がってくるようだった。


窓際に、鹿児島の工芸店で買った薩摩切子の一輪挿しを置いた。


まだ、中は空っぽのままだった。


東京に戻ったら花を活けようと、旅先でふと思ったのを思い出す。


机の隅には、神戸の実母からの封筒。


封を切ると、便箋にはやわらかな筆跡でこう綴られていた。


「美佳ちゃん、中学生になったんだね。入学祝い、何か贈ってあげたいのだけど……慶彦は何がいいと思う?」


少し考えたあと、スマートフォンで母に電話をかけた。


「ありがとう、母さん。何がいいかな……文房具じゃ味気ないしな」


「おばあちゃんらしいものでいいのよ。いつか思い出すでしょう?」


受話器越しの声に、どこか遠く、神戸の空気が混じっていた。


******


数日後、仕事の打ち合わせが入った。


場所は赤坂。博報堂系の小さな代理店。


午前11時、勝鬨からタクシーに乗る。東京湾の風がビルの谷間を抜け、どこか湿り気を帯びていた。


赤坂見附で降りると、外堀通り沿いに新緑がまぶしく揺れていた。


春の東京は、足音の下に色を忍ばせてくる。


オフィスビルの受付を通り、エレベーターで9階へ。


会議室の窓越しに見えたのは、見慣れたオフィス街と、遠くの青い空だった。そして、顔なじみのクリエイティブ・ディレクターが待っていた。


「九鬼さん、今回もお願いできたらと思って。静物メインの広告撮影で。」


「了解です。商品中心なら、背景はやや抑えた方がいいですね。」


必要な会話だけを交わし、15分ほどで打ち合わせは終わった。


都市の仕事は、早く、正確で、感情を挟む余地が少ない。


シャッター音のないこの世界でも、なにかを“切り取る”ことはできるのだろうか──そんな考えがふとよぎった。


そして、鹿児島で撮った桜島の光景が蘇る。潮の香り、煙の匂い、対岸の静かな線。


──あれには、シャッターを切らない理由がなかった。


だからこそ、撮りたくなった。


******


赤坂からは、地下鉄で戻った。


夕方の車内には、背中を丸めた会社員たちと、数人の学生。


都市の時間は、少し早足だ。


勝鬨に戻ると、陽はもう傾いていた。


窓の向こうに東京湾のきらめきが滲みはじめていた。


部屋に入ると、薩摩切子の花瓶。


さっき立ち寄った花屋で買ってきた、黄色いガーベラを一輪、水を張った切子の器にそっと挿した。


その輪郭が、午後の光の中にふわりと浮かび上がった。


その隣に置かれたカメラが、ただそこに在るだけで、何かを物語っているようだった。


スマートフォンが震えた。


画面に「美佳」の名が表示される。


「パパ、GW、会える?」

「ママはその日いないから、一人でも行けるよ」


少し驚いた。

だが、すぐに頬が緩む。


ほんの少しずつ、距離が変わっていく。


「もちろん。横浜で会おう」


ほどなくして、もう一通のメッセージが届く。


「港の写真、今度見せてね。」


画面を見つめながら、


──次の旅の気配が、春の風にまぎれて、静かに輪郭を帯びはじめていた。

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