第6話: 横浜·桜木町── 港と時間──
五月の光は、港の水面を静かに撫でていた。
それはまるで、時間をゆっくりと巻き戻すような──そんなやさしさだった。
ゴールデンウィークの初日。
みなとみらい駅で降りると、歩道には観光客の列ができていた。家族連れ、恋人たち、修学旅行生。街が少し浮き足立っているのは、いつものことだった。
慶彦は、ゆっくり歩くことにした。
桜木町側から汽車道を抜け、待ち合わせの赤レンガ倉庫まで。港の風を受けながら、まっすぐ立つ観覧車を遠目に眺める。
娘·美佳と会うのは、正月ぶりだった。
慶彦は少し早めに到着し、潮の香りを含んだ風に身を任せながら海を眺めていた。
遠くに見慣れたシルエットが現れる。少し背が伸びた、制服姿の美佳が、軽く手を振っている。
慶彦は思わず立ち上がった。
彼女はゆっくりと歩み寄り、少し照れくさそうに言った。
「パパ、久しぶり」
「美佳、髪、切ったんだな」
「うん、中学のバスケ部に入ったから。邪魔になるし」
「うん、よく似合ってるよ」
美佳は照れくさそうに笑った。
制服姿がまだ少しぎこちない。
「ほら、お祖母ちゃんから預かってた中学のお祝い、渡しておくよ」
そう言って差し出した小さな箱。美佳は少し驚いたように受け取った。
「開けてごらん」
箱の中には、シンプルな腕時計が入っていた。
文字盤は落ち着いた白、細身のベルトが彼女の腕に似合いそうだった。
「今どき、時計ってあんまりしないけど……」
「スマホで分かるし、ちょっと意外だった」
「そうだな。でも、パパも中学に入るとき、親父に時計をもらった。何となく、大人に近づいた気がしたんだ。そういうのも、悪くないだろ?」
美佳はしばらく無言で時計を見つめた後、静かにうなずいた。
「ありがとう。
──ちゃんと、大事にするね」
そこから二人は赤レンガ倉庫を抜け、海沿いの遊歩道を歩いた。途中で慶彦が撮った港の写真を娘に見せると、彼女は感心したように言った。
「すごく綺麗。なんか絵みたい。……ちょっと、行ってみたくなったかも」
「鹿児島で撮ったやつだよ。神戸のもある」
「パパ、これ、個展とか開けるんじゃない?例えば、港街の写真ばかり集めて」
美佳の冗談とも本気ともつかない言葉に、慶彦は苦笑した。
「美佳がそうやって褒めてくれるなら、もう少し撮ってみようかな。」
陽が少し傾きかけてきた頃、横浜駅までの帰り道で、娘は手首につけた時計を何度か見ていた。
「時間、ちゃんと見れる?」
「うん、もう慣れたよ」
その一言が、やけに嬉しかった。
「美佳、いいかな?お祖母ちゃんに、美佳と時計の写真送ろうと思うけど。」
「うん、分かった」
──よく、似合っている。レンズ越しに、美佳が少しだけ大人びて見えた。
その言葉を口にする代わりに、慶彦はカメラを構えた。
神戸、鹿児島と撮り溜めてきた“港の写真”の延長に、今、ここで撮る一枚が加わる。
港と時間。
それは、止まっていないけれど、確かにそこにあった。
そして、暮れていく空と街の灯りの中、慶彦は久しぶりに、心の奥がゆっくりと満たされていくのを感じていた。
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