第16話
裕子は東京駅のホームに立ち、新幹線の車内へと乗り込んだ。リュックサックの中には、仕事の資料ではなく、海辺の町で着るための、少しラフな服が詰め込まれている。スマートフォンでメッセージアプリを開くと、正樹から「もうすぐ着く頃か?」というメッセージが届いていた。裕子はにこりと笑って、「うん、もうすぐ」とだけ返信した。
今回は、誰にも何も言わず、突然帰省した時とは違う。今回は、自分の意志で、自分の足で、ここに来ている。
新幹線は、滑るように東京の街を後にする。ビル群が遠ざかり、代わりに緑豊かな景色が窓いっぱいに広がっていく。裕子の胸は、高鳴りと安らぎが混ざり合った、不思議な感情で満たされていた。
列車を乗り継ぎ、小さな駅に降り立つ。ホームには、海から吹く風が吹き抜けていった。その風に乗って、潮の香りが微かに運ばれてくる。
「お嬢さん」
声がして、裕子は振り返った。そこにいたのは、Tシャツにデニムのオーバーオール姿の正樹だった。いつもと同じ、太陽のように眩しい笑顔を浮かべている。
「正樹さん…」
裕子が駆け寄ると、正樹は何も言わずに彼女を優しく抱きしめた。彼の体からは、土と日差しの匂いがした。その匂いが、裕子の疲れた心を優しく包み込む。
「会いたかったよ」
正樹が耳元でそう囁いた。その言葉に、裕子の胸は熱くなった。
「私も、です」
そう言って、裕子は彼の胸に顔をうずめた。
「さ、行こう。車、ここに停めてあるから」
正樹は裕子の手を取り、駅の外へと歩き出した。彼の大きな手は、温かくて、裕子の手全体を包み込むようだった。
車に乗り込むと、正樹は少し照れたように言った。
「実はさ、この夏祭りの日から、ずっとソワソワしてたんだ。いつになったら裕子が来てくれるのかなって」
「…なんで、分かったんですか?」
「なんとなく。会いに来てくれるって、信じてたから」
その言葉に、裕子の目から涙がこぼれそうになった。
「…私、この夏、ここに来て、本当に良かったです」
裕子がそう言うと、正樹はそっと彼女の頭を撫でた。
「そうだな。俺も、お嬢さん…いや、裕子に出会えてよかった」
正樹の車は、再びあの農道へと向かっていった。窓から見える景色は、あの夏の日と何も変わらない。でも、裕子の心は、あの時とは全く違う。
この海辺の町で、私は、もう一度自分をやり直す。
裕子はそう心に誓った。
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