第5話
正樹の言葉は、裕子の心にじんわりと染み渡った。都会では誰もが忙しなく、互いの表面的な部分しか見ていなかった。なのに、目の前のこの青年は、たった二度しか会っていないのに、彼女の内側を見抜いたようだった。
「お言葉、ありがとうございます」
裕子は照れくさそうに笑い、手に残った麦茶の冷たさを感じた。
「そろそろ仕事に戻る。よかったら、また手伝いに来てくれ。トマト、持って帰るか?」
正樹はそう言うと、軽トラックの荷台からプラスチックの小さなパックを取り出した。瑞々しいトマトがぎっしりと詰まっている。
「いいんですか?」
「もちろん。うちのは特別うまいぞ」
そう言って、彼はパックを裕子の手に乗せた。ずしりとした重みが、温かい。
「ありがとうございます…!」
裕子は再び頭を下げ、今度こそ車に戻った。バックミラー越しに、正樹は軽トラックを運転し、畑の奥へと消えていく。彼の姿が見えなくなっても、裕子はしばらくその場で車を動かすことができなかった。
自宅に戻ると、母の敦子が庭先で花の手入れをしていた。
「あら、裕子。もう出かけてたの?」
「うん。ちょっと散歩に…」
裕子は正樹からもらったトマトのパックを、慌てて背中に隠した。
「ずいぶん汗をかいて。もう、シャワー浴びてきなさい」
母の言葉に、裕子は頷いた。部屋に戻り、鏡を覗く。そこに映っていたのは、少し日に焼けた、そして、頬を赤く染めた自分の顔だった。
シャワーを浴び、清潔なTシャツに着替える。リビングに戻ると、テーブルには裕子が買ってきたトマトが山盛りに並んでいた。
「あら、裕子。そんなにたくさん買ってきて。一人で食べきれるの?」
「お散歩してたら、おすそ分けしてもらって」
裕子が答えると、母は少し驚いたように目を丸くした。
「まぁ、珍しい。裕子が人に話しかけるなんて。あの子も心配してたのよ」
「あの子?」
「遥ちゃんよ。裕子、携帯の電源も切ってたんでしょ?ずいぶん心配してたわ」
そういえば、東京を出てから一度も携帯を見ていなかった。電源を入れると、遥からの着信履歴とメッセージが何件も届いていた。
『大丈夫?生きてる?』
『心配だから連絡してよ』
『あんたの仕事は、携帯から逃げたって終わらないんだからね!』
メッセージを読み、裕子はクスッと笑った。
遥の言う通りだ。今は逃げてきても、いつかは東京に戻らなければならない。また、あの忙しい日々に逆戻りだ。
でも、今はまだ、この海辺の町で、心を休めたい。そして、もう少しだけ、あの畑にいる彼に、会いたいと思った。
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