第4話
「俺も、一回逃げたんだ。都会の会社から」
正樹はそう言うと、静かにクワを動かし始めた。その横顔は、遠い過去を思い返しているようだった。裕子はそれ以上何も聞かず、ただ黙って彼の隣で土を耕した。
どれくらいそうしていただろうか。太陽はすっかり空高く昇り、畑は真夏の日差しに照らされていた。裕子は額に汗をかき、髪の毛が顔に張り付くのを感じた。
「そろそろ休憩するか」
正樹がそう言って、大きな水筒を取り出した。
「よかったら、飲んでくれ」
差し出された水筒を受け取り、蓋を開ける。中には、麦茶が入っていた。裕子はゴクゴクと喉を鳴らして飲む。冷たい麦茶が、疲れた体に染み渡るようだった。こんなに美味しいと感じたのは、いつぶりだろう。
「あの…」
裕子が麦茶を飲み終え、水筒を正樹に返そうとすると、彼は言った。
「ここにいても、何も解決しない。そう思わないか?」
裕子の胸が、チクリと痛んだ。彼の言葉は、彼女が自分自身に問いかけていたことだった。仕事から逃げてきた。でも、このままじゃいけない。それは分かっている。
「…分かっています」
裕子が俯くと、正樹は困ったように笑った。
「ごめん。俺も、何が言いたかったのか分かんねぇな」
「いえ…」
裕子は、正直に話した。
「私、今、自分が何をしたいのか分からないんです。仕事も、この先どうなるのかも…」
正樹は、ただ静かに耳を傾けていた。裕子は、普段誰にも話せない胸の内を、彼に語った。会社の理不尽な人間関係、満たされない仕事、そして、どこにも行き場のない不安。
話し終えると、裕子はなんだか恥ずかしくなった。初対面の、しかも泥だらけになった自分を見られた相手に、こんなに弱音を吐いてしまったのだから。
しかし、正樹は意外なことを言った。
「お嬢さん、いい顔してるな」
「え?」
「疲れてるけどさ、なんか、ちゃんと生きてる顔してる。東京にいた時より、ずっといい」
正樹の言葉に、裕子はハッとした。彼は、彼女の疲れた表情の奥にある、本当の彼女を見てくれているようだった。その瞬間、裕子の心の中に、温かい光が灯った。
そして、彼女は気づいた。この町に帰ってきたのは、疲れたから逃げてきただけじゃない。きっと、何かを求めてきたんだと。
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