第3話

翌朝、裕子は慣れない早起きをした。都会での生活が染みついた体は、まだ朝日が昇りきらない時間には動きたがらない。しかし、どうしても確かめたいことがあった。


Tシャツにロングスカートという、畑には不向きな格好のまま、裕子は家を出た。早朝の海辺の町は、まだ眠っているように静かだった。波の音が遠くで聞こえ、潮の香りが鼻をくすぐる。


昨日、正樹と出会った農道は、朝霧が立ち込めていた。その幻想的な光景の中に、正樹の軽トラックがぼんやりと見えた。彼はすでに作業を始めていた。Tシャツの袖を捲り、黙々と土を耕している。その姿は、まるで畑の一部になったかのようだった。


裕子は恐る恐る声をかけた。


「あの…」


正樹は顔を上げ、少し驚いた表情を見せた。


「なんだ、お嬢さん。もう具合は大丈夫か?」


「はい。あの…昨日は本当にごめんなさい。弁償させてください」


裕子が頭を下げると、正樹は困ったように笑った。


「だからいいって言っただろ。でも、わざわざ来てくれたんだな。せっかくだから、ちょっと手伝ってくか?」


裕子は一瞬ためらった。飲食店では、制服を着て、決められた通りに動くことが当たり前だった。こんな風に、土をいじることなんて、想像もしていなかった。


「…はい」


裕子はスカートの裾を掴みながら、彼のそばへ歩み寄った。


正樹は無言でクワを渡した。裕子はぎこちない手つきで土を耕し始める。硬い土はなかなか言うことを聞かず、足元はすぐに泥だらけになった。都会で履いていたスニーカーが、みるみるうちに汚れていく。


「ははっ、似合わねぇな」


正樹が笑う。裕子は少しムッとしたが、反論はしなかった。泥だらけになった自分の足を見て、なんだかおかしくなった。


「なんでここに戻ってきたんだ?」


作業の合間、正樹が不意に尋ねた。


「仕事、疲れちゃって。逃げるように帰ってきたんです」


裕子の言葉に、正樹は何も言わなかった。ただ、黙って土を耕し続ける。


「…正樹さんは、どうして農業を?」


裕子が尋ねると、彼のクワを動かす手が止まった。


「俺も、一回逃げたんだ。都会の会社から」


正樹は顔を上げ、遠くの海を眺めた。彼の目は、まるで深い海の底を見つめているかのようだった。

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