第6話
翌日、裕子は再び畑に向かった。今度はスニーカーとTシャツ、動きやすいパンツスタイルに着替えて。昨日よりも少しだけ軽やかな足取りだった。
畑には、昨日と同じように正樹がいた。彼は黙々と作業をしていたが、裕子に気づくと、驚いたような顔をしてから、にこりと笑った。
「お嬢さん。今日はちゃんと畑仕事の格好だな」
裕子は少し照れながらも、「はい」と頷いた。
「もう東京に戻ったのかと思った」
「まだです」
その言葉に、正樹は何も言わなかった。ただ、優しい眼差しで裕子を見つめた。その視線に、裕子の胸が温かくなった。
「私も手伝います」
そう言って裕子はクワを手に取った。昨日よりも力が入り、土を掘り起こす感触が少しだけ分かった。
「お、筋がいいな」
正樹はそう言いながら、新しい苗を植える穴を掘り始めた。
二人で黙々と作業を続ける。時折、正樹が「こっちはこうやって」と声をかけ、裕子はその手つきを真似た。
都会の仕事では、すべてが効率とスピードだった。でも、ここでの時間は、全く違っていた。一つの苗を植えるのに、こんなに時間がかかるなんて知らなかった。土の感触、太陽の熱、風の匂い。五感すべてを使って、裕子は今、この瞬間に生きていると感じた。
「あの…正樹さんは、どうして金融関係の会社を辞めたんですか?」
作業の合間に、裕子は尋ねた。
正樹は少し遠い目をして、答えた。
「俺、うつになっちゃって。会社の人間関係に疲れて、毎日が苦痛だった。朝起きるのもつらくて、何も食べられなくなって…」
裕子は、何も言えなかった。彼女も、同じような苦しみを経験していた。
「ある日、無性に実家のトマトが食べたくなって。気づいたら、ここにいたんだ」
「それで…農業を」
「ああ。土を触ってると、心が落ち着くんだ。誰かと比べられることもないし、自分の手で何かを生み出せる。この場所が、俺の居場所なんだって、そう思ったんだ」
正樹の言葉は、裕子の心を揺さぶった。彼は、裕子がずっと探していた「居場所」を見つけたのだ。
自分にも、そんな場所が見つかるのだろうか。
裕子は、日差しを浴びてキラキラと輝く畑を見つめた。そして、その隣で黙々と作業をする正樹の横顔を見た。
この静かな海辺の町が、もしかしたら、自分の居場所になるのかもしれない。
そんな予感が、裕子の胸をよぎった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます