第四話
明かり一つない部屋の奥で、自ら柔らかな光を放つ大きな
「あれが、貴女の翅だというのか?」
「そうよ。感覚でわかるの。意識するたびに背中が痛む。何か見えないもので繋がっている……今でもあれは私の一部なのよ。翅がここにある限り、離れることができない」
そう言うリーゼロッテの横で、アルフレッドは翅に見惚れていた。記憶を失った彼にとってその翅は、世界で最も美しいように思えた。無論、彼自身を除いての話だが。
「エルフの翅というものを見るのは、初めてのような気がするな」
そう言いながら、彼は祭壇に近寄ろうと一歩を踏み出した。
「待って!」
それを、リーゼロッテが大声で引き止める。驚いて足を止める彼の前に腕を伸ばすと、
「何だ、あれは……!」
5メートル四方ほどしかない祭壇の部屋は、図書室に比べて天井が高くなっており、深い闇が溜まっている。そこに図書室からわずかに差し込む月光が反射して、妙な陰影が生まれていた。
キィキィと音を立てて揺れる、垂れ下がる無数の鎖。それらの根本に、逆さに天井に張り付く何かの影が見えた。その表面は翅の輝きを写して、金属の光沢を放っている。
「……大丈夫。奴はまだ動かないわ」
一歩図書室へと下がりながら、リーゼロッテが
「あれは、私の翅、そしてあの剣の番人。とても似つかないけれど……恐らく、貴方と同じ
「む……」
今の私は鼻が効かないらしい、と思いつつアルフレッドは警戒を解かずに問う。
「……それで、戦うのか?」
「できる?」
リーゼロッテは腕を組んで
「わからん。今の私は記憶を失っている。戦い方を思い出せれば、私が負けるということはまずないだろう。だが、少なくとも奴がかなり強力だということは確かだ。戦闘になれば、この図書室は捨てることになる」
「構わないわ。それでここから出られるのだとしたら。……ここに思い入れがないわけじゃないけれど、それ以上に奴には恨みがあるの」
彼女の横顔を見つめて、アルフレッドは静かに腰の剣の柄に手をかけた。
「奴はまだ動かないと言ったな。それはどういうことだ?」
「あれは番人──守るものを害されそうになった時だけ動くのよ。軽く作戦を話すわね。まず私が奴をけしかける。そこをアルフレッドが迎え撃つの。簡単でしょ?」
アルフレッドは頷くと、最後に、と前置きをして言った。
「奴を倒せば貴女が自由になるという確証は?」
「ないわ。ただの勘。どちらにせよ死んでほしいの」
肩を竦めて即答するリーゼロッテにため息をつき、彼は剣を鞘から抜き放つ。刃は錆びているが、アルフレッドの手にあれば途端に武器としての威風を纏った。
「わかった。このアルフレッド、貴女のために戦おう。準備はできている、いつでも動かしてくれ」
「じゃあ、行くわよ。鎖に気をつけてね。飛んでくるから」
そう言うと、リーゼロッテは祭壇に掌を向けて両腕を伸ばし、ぐっと握った。翅を縫い付けるレイピアが小刻みに揺れ、それに呼応して彼女の表情が苦悶に歪む。
「っ……来る──」
リーゼロッテが叫ぶのと同時に、彼女の頭部を一本の鎖が貫いた。鎖は彼女を突き抜け、背後の床に深々と刺さる。
「リーゼロッテ……!」
「何ともないわ! 誰も私には触れられない!」
助けに入ろうとするアルフレッドを制止し、リーゼロッテは鎖をすり抜けて図書室へと逃げる。アルフレッドは迷いなく剣を振り、天井から伸びる鎖を断ち切った。そのまま彼女を庇うように射線上に立ち塞がる。
一本、二本とリーゼロッテに向かって飛来する鎖。高速で伸びる鎖の先端は、爪のように禍々しく尖っていた。その動きを正確に見切り、アルフレッドは素早く剣を振る。鎖の一本を叩き落し、もう一本は打ち砕いた。
「……やるじゃない、アルフレッド」
書架の陰に隠れて、顔を片手で抑えながらリーゼロッテが呟いた。アルフレッドは深く息をして意識を集中させる。かつての戦いの記憶だけが、彼の脳と体を支配していた。冷静でいながらも、熱い炎に身を委ねる。
屍人は、標的をアルフレッドに変えたようだ。先程の攻撃は牽制だとばかりに、鎖の猛攻が激しさを増す。しかしアルフレッドは、流麗な剣捌きで全ての鎖を砕いた。戦闘は更に加速していき、両者の間で目にも止まらぬ攻防が繰り広げられた。
しばらくして、鎖の攻撃が止まった。辺りには鎖の残骸が大量に散らばっている。唖然とするリーゼロッテを背に、アルフレッドは構えを崩すことなく悠々と佇む。
「……終わった?」
「いや、まだだ。下がっていろ」
リーゼロッテが恐る恐る覗きながら言うと、アルフレッドは首を振った。
その時、天井の影が落下した。アルフレッドは即座に飛び退いて距離を取る。影はけたたましい音を立てて床に衝突し、かつて静穏であった図書室を大きく揺らした。
それは、全身を鎧で包んだ人間だった。だがもはや人間の形を留めていない、正に異形と呼ぶべき屍人である。奇妙なほどに長い胴体と、腹側部から生えるもう一対の腕。鎧は血と粘液で赤黒く、鎌首をもたげる蛇のような鎖が巻きついている。
屍人は四つ這いの状態から、地面を蹴って獣のように突進した。四方から連続して襲いかかる金属の爪を、アルフレッドは剣と籠手を使って逸らしていく。しかし、次いで飛んできた鎖に対応できず、鋭い一撃が頬を掠めた。金属音と共に、小さく火花が散る。
「くっ……!」
アルフレッドは呻くと、屍人の胸を強く蹴り飛ばした。その勢いを利用して自分も大きく後ろに退がる。
(
屍人は再度、一直線にアルフレッドに飛び掛かる。しかし彼は身を
「単調な動きだ」
「ギ……」
呻き声を上げて
「余りにも惜しい。もし貴方に意思があれば、騎士として手合わせ願いたかった」
そう言うアルフレッドに、リーゼロッテがふわふわと漂いながら近づいた。
「今度こそ死んだ?」
「いや、わからん。屍人だからな。死という概念があるのかすらも不明だ。とにかく腕と脚は切り落としておこう」
「うえ、酷いわね。まあせいせいするわ。あの鎖めちゃくちゃ痛いのよ」
リーゼロッテが苛立ちを含ませて言う。その時、屍人の首の切断面から複数の鎖が飛び出した。
「下がれ!」
アルフレッドがリーゼロッテを庇うように防御姿勢を取る。しかし、鎖は彼らを狙わなかった。触手のようにうねり、落とされた屍人の頭に巻きついたのだ。そして、まるで王冠を被るかのように、首に頭を押しつけた。
兜の奥の眼光が、また
(そうか、その鎖は荊か!)
アルフレッドとリーゼロッテは、離れた位置から屍人の様子を窺う。屍人は首が繋がっても、未だ座り込んだままだ。厚い埃の上に静寂が降り積もっていく。
その時、声が聞こえた。
「騎士……」
男の声。それは屍人が発したものだった。兜越しの赫い瞳でアルフレッドを見つめながら、形容しがたい威圧感を纏って、彼はゆらりと立ち上がった。
「…………貴公が」
屍人が、自らの手で腹側部の腕を引き千切る。
「貴公が、王を討ちし騎士か」
手を後ろに伸ばして、祭壇に刺さるレイピアを鎖で一息に引き抜いた。その痛みにリーゼロッテが小さく悲鳴を上げる。彼は胸元にレイピアを構えて、その刃のように真っ直ぐに立つと、アルフレッドを見た。
「私はアリス。貴公、選びたまえよ。ここで死ぬのか──」
言いながら、レイピアの切先をついとアルフレッドの首に向ける。
「──王になるのか」
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