第三話

 月影に照らされて佇むエルフの少女の幽霊ゴースト、リーゼロッテ。彼女が図書室で過ごした五十年余りの日々に、どれほどの孤独が巣食っていたのだろうか。憂愁に沈む横顔は、宙を舞うちりでさえ光の粒のように見せている。


「……このままだと私、自分がわからなくなりそう」


 弱々しくったような笑みに、アルフレッドは身を乗り出す。


「辛かったことだろう。だが、もう安心だ。貴女にはこの私がついているのだから」


 そう言って、リーゼロッテの何もかもすり抜けてしまう手を、両の掌で優しく包み込む。兜の隙間の先は暗闇だが、彼女はそこに強い意志の輝きを見た。アルフレッドの矜持と慈愛に満ちた声が、リーゼロッテの心を温めた。


「ありがとう。ほんの少しでいいわ。多くは望まない。長くは留めない。貴方も……アルフレッドにも、目的があるのでしょう?」


 手をそっと引いて膝の上に戻し、彼女は首を傾げて尋ねる。


「ああ。実を言えば、私には記憶がないのだ。私はアルフレッド・ブラックウェル、アザレアの騎士。国と民を守る役目がある。……それ以外、何一つ思い出せない。全てが曖昧で、頭にもやがかかっているかのようだ」


 アルフレッドの言葉は鋼の兜の内側から物哀しく響いた。リーゼロッテは長く尖った耳を傾けて、じっと静かに聞いている。


「……いや、そうだ。師と友を覚えている。ただかすかに、ぼんやりとした姿と名前だけだが。アーサー、そしてイヴァンという人だ」


 言いながら、彼の脳裏に二人の声が残響する。遠い光が輝いて、しかしすぐに見えなくなった。砂嵐が、雷鳴が、何もかもを掻き消していく。アルフレッドの言葉は少しずつ曖昧に、尻すぼみになっていった。


「アーサーは……私に剣を教えてくれた人だ。立派な騎士だった。イヴァンは……いつも隣にいて……。私の……」

「……アルフレッド」


 言葉を搾り出そうとするアルフレッドの顔に、リーゼロッテはそっと手を添える。彼女は妙な力でどこからか本を持ち出してくると、浮遊させて彼の兜をコツンと打った。はっとして、彼は顔を上げる。


「大丈夫よ、伝わったわ。彼らが素敵な人たちってことがね」

「……そうか。よかった。本当に、素晴らしい人間なんだ。……コホン、いやすまない、情けない姿を見せてしまったな。高潔で高貴な美しい私としては恥ずべきことだ。かつての姿を思い出さねば」


 少し調子を取り戻したアルフレッドに笑みを浮かべると、彼女は持ってきた本のページをパラパラとめくって読み進めた。目を素早く動かしながら、アルフレッドに質問する。


「ねえアルフレッド。貴方さっき、アザレアの騎士と言ったわよね」

「うむ。しかし、覚えているのはその名だけで……」

「わかってるわよ。……あった!」


 嬉しそうな声を出して、リーゼロッテは本を差し出した。アルフレッドが覗いてみると、それは植物図鑑であった。


「アザレア──グレイスフィールド王国の国花よ」


 広げられたページには、華やかに花弁を重ねるアザレアの花の挿絵が描かれている。その説明に記された『グレイスフィールド王国』の文字を目にした時、アルフレッドの心臓が激しく脈打った。


 今やっと眠りから覚めたかのように、頭の中が冴え渡っていく。グレイスフィールドの広大な土地と、そびつ高壁、豊かな街並み、暮らす民の姿。それらの記憶が濁流の如き勢いでアルフレッドの瞳の前を駆け抜けていった。


「どう?」


 リーゼロッテが恐る恐る尋ねる。アルフレッドは兜越しに顔に手を当て、心ここに在らずといった様子で呟いた。


「グレイスフィールド……」


 その姿を見て、リーゼロッテの瞳孔が不意に震えた。


 彼女は突然本を閉じた。アルフレッドが驚いて顔を覗き込むと、彼女は視線を合わせないようにきゅっと目を瞑る。


「……ごめんなさい」


 俯いたまま謝るリーゼロッテの気持ちを察したアルフレッドは、彼女の足元に座り込んで優しく声をかける。


「リーゼロッテ嬢、不安になることはない。私はまだ知るべきことがあるだろう。記憶のこと、自分のこと、それから貴女のことも。これでさよならとは言わないさ。私はまだここに残るとも」

「……私、馬鹿なことをしたわ。アルフレッド」


 リーゼロッテがふっと頬を緩めるのを見て、アルフレッドは安心して肩の力を抜いた。


「はぁ……なぜかしら。貴方といるとすごく落ち着く。貴方の力になりたいって思う。けれど、弱い心がそれを止めてしまう」


 植物図鑑を元の棚に戻すと、ため息を吐いてリーゼロッテは浮き上がった。くるくると回りながら、天井近くまで浮遊する。


「アルフレッド。貴方、エルフだったりしない?」

「残念ながら、私は人間だな。記憶が正しければだが」


 肩をすくめて言うと、アルフレッドはリーゼロッテを見上げた。


「どうだろう、私の話よりも、貴女の話を聞かせてはくれないか? 私もこの出会いはどこか運命である気がするのだ」

「そう言ってくれると嬉しいわ」


 彼女は笑いながらアルフレッドの目の前まで降りてきた。そして袖のフリルを揺らしながら、遠い過去を思い出すように目を閉じる。


「気づいたらここにいた、としか言いようがないわね。実は私も、それ以前の記憶はないのよ。それから何もできないまま五十年。念力ポルターガイストの使い方は覚えたけど、できることは読書だけ。退屈な過去だわ。お話にもならない」


 リーゼロッテは軽く言うが、五十年と言う時間はまだ若いアルフレッドにとって理解の及ばないほど大きな時間だ。これが長命なエルフとの違いか、と考えてもみる。


「そんなことはあるまい。とても興味深い話だ。ところで、貴女がここを離れない理由が何かあるのか?」


 彼に訊かれて、はたとリーゼロッテの動きが止まる。


「……そうだわ、すっかり忘れていた。もしかしたら貴方なら……」

「どうかしたのか?」

「ついてきて。頼みたいことがあるわ」


 彼女は滑るように移動して、書架の間を進む。アルフレッドがそれを追うと、一つの扉に辿り着いた。リーゼロッテはそれを通り抜けたのち、顔だけこちらに飛び出させた。


「貴方は幽霊じゃないんだったわね。開けていいわよ」


 そう言うと、また奥に引っ込む。アルフレッドがドアノブに手をかけて回す。何十年振りに開けられたようで、埃を散らして軋みながら扉は開いた。


 その先にあったのは祭壇だった。小さな部屋に、腰ほどの高さの石の台座が置いてある。そしてそこに突き立てられた、漆黒のレイピア。台座の上で、何かが輝いている。


「あれが、私をここに縛るもの」


 蜂のそれに似た、薄く宝石のように煌めく一対のはね。しかしその大きさは両腕で抱えるほどだ。翅を二枚重ねて、金属を歪めて造形したようなレイピアの細い刀身で貫いている。まるで根本から千切られたそれを、台座に縫い付けるように。


 リーゼロッテは自分の肩を抱くようにしながら、その翅を睨んで言った。


「そう……私の翅よ」

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