第二話
美しい月夜の空を、人影が舞う。影のように黒い鎧を纏った騎士、アルフレッドだ。
「ハーッハッハッハ! この私に翼など不要!」
高笑いをしながら、アルフレッドは落ちていく。彼が目覚めた玉座の間は、高い尖塔の頂点部分に位置していたようだ。他の塔の屋根や地面が、落下していく彼の遥か下方にある。
かつてもこうして、高所から飛び降りたことがあったな、と彼は思いを馳せた。その時は、隣に友がいた。その後ろ姿をぼんやりと覚えている。
(今の私では、君の顔も思い出せぬのだな……名は思い出せるだろうか……)
感傷に浸りながら、アルフレッドは
“──馬鹿と煙はなんとやらだな、アルフレッド”
“何を言うか、イヴァン!”
記憶の中で、玉を転がすような声がアルフレッドを笑う。それに言い返す言葉には、どこか嬉しそうな響きが漂っていた。
(……イヴァン)
アルフレッドの中で、何かが噛み合うような感覚。しかしその瞬間、重力に任せていた彼の体がぐらりと傾く。バランスを取ろうとするも、腐った体をうまく動かせず、彼は空中で上下がひっくり返ってしまった。
(しまった、体が万全ではないのを忘れていた!)
頭から瓦礫の山に墜落する。鈍い音を立てて一度地面を跳ね、彼はふもとに転がった。左腕は肘関節が逆に折れ曲がり、右腕は根本から千切れて少し離れたところに落ちている。落下の衝撃で両脚もあらぬ方向へ曲がったが、丈夫らしい鎧の金属部分に目立つ損傷はなかった。
(……この肉体強度なら足から落ちても着地できなかったかもしれない。まずいな……判断力が鈍ってしまっているようだ)
そんなことを考えながら、アルフレッドは溜息をつく。何にせよ、動けない状態になってしまったことに変わりはない。冷静になって、自分の状況を確かめてみることにした。
痛みはなく、首は折れているようだが視界は明瞭だ。加えて体の感覚もある。完全に神経が断絶された右腕の感覚まで残っているようで、力を込めるとピシ、と音がした。彼の右腕が、瓦礫の小さな欠片を握り砕いた音だった。
(これがアンデッドの力なのか)
アルフレッドは、右腕を動かそうとしてみる。
すると、アルフレッドの胸が疼き、肩から黒い
荊はすぐさま収縮し、千切れた右腕を引き寄せて、圧着するように断面同士を押し付けた。すぐに傷口は再生し、破損した鎧までもが何ともなかったかのように繋がっている。軽く動かしてみても違和感はなく、むしろ目覚めた時よりも馴染んでいた。
(これはいい。この力、利用させてもらおう)
感覚を掴んだアルフレッドは右腕をついて身を起こし、心臓に意識を集中する。そうすると、体中の鎧の隙間から荊が伸びていき、胴体や脚を縛り上げるように巻き付いた。操り人形が糸に吊り上げられるが如く上半身が持ち上がり、折れていた首が嫌な音を立てながら元の形に戻る。荊に補助された脚で力強く地面を踏み締め、アルフレッドは立ち上がった。
(痛みを感じることなく、四肢の欠損程度で死ぬこともない。その上の再生能力に加えて、さらには妙な荊と来たか。英雄の姿としては少し
漆黒の鎧に荊も巻き付き、見た目の禍々しさは増しこそすれど、アルフレッドの精神は高潔な騎士そのもの。腰の剣と土埃を気にしながら、彼は瓦礫の山を離れて城の中へと踏み入った。
城はかなり古くからあるようで、黒ずんだ壁とそこに這う
出口を探してしばらく城内を彷徨っていると、瘴気のない清浄な空間を見つけた。大きく空いた扉から部屋の中を覗いてみると、ずらりと書架が並んでいる。そこは図書室だった。
図書室内は、そこだけに月の光が漂っているかのようだった。
そして、本が宙を舞うのを見た。
そこにいたのは、一人の少女だった。窓枠に腰掛け、浮かぶ本に目を走らせながら、得体の知れない力で触れることなくページをめくっている。少女は漆黒の絹のドレスを纏い、金糸の
(
何よりも特徴的な、先の尖った耳。アルフレッドは一瞬、その少女の美しさに見惚れていた。はたと気を取り直して、少女に歩み寄る。
「コホン……レディ」
「っ! 誰⁉︎」
本を読み耽っていた彼女は、話しかけられて初めてアルフレッドに気づいたようだ。威嚇するように、浮遊する本を自分の前に広げている。極力優しい声を心がけるが、掠れた声帯の彼には難しかった。
「驚かせてすまない。私は騎士アルフレッド。麗しい貴女に少々話が聞きたい」
「……驚いた。屍人なのに意思があるのね」
奇妙な存在である彼に、少女の瞳が少し興味と好奇心の光を宿した。害意のない口調に安心したのか、恐怖や警戒も少し解けているようだ。
「一応鎧兜で隠しているつもりなのだが……やはり、屍人だとお分かりになるか」
「そうね。だって匂いがひどいもの」
申し訳ない、とアルフレッドは苦笑する。つられたように少女も笑うと、窓枠から腰を上げた。それでも足先は床につかずに浮いたままだ。
「私はリーゼロッテ。面白いのね、屍騎士さん」
「フ、私には勿体無い言葉だ。腐ってさえいなければまた別だがね」
アルフレッドの自信満々な言葉にまた笑みをこぼすと、リーゼロッテは空中で足を組んだ。開かれた本一冊分の距離を挟んで、二人は向かい合う。
「騎士さん、聞きたいことって何かしら? 私のお願いを聞いてくれれば、貴方の力になってあげるわ」
「ふむ。であればまず、そのお願いを聞かせていただこう。己よりもレディを優先するのが騎士というものだ」
「あら。じゃあ、遠慮なく」
彼女は窓の方へ振り返ると、浮かぶ月をなぞるように手を伸ばした。何かに恋焦がれるような視線を、夜空に向けながら。
「──話し相手になって頂戴。ここにある全ての本を読み終わってしまったの。それからずっと暇をしていたのよ」
その言葉を聞いて、アルフレッドは息を呑んだ。目に見える範囲でさえ、本の数は数千を超えている。たとえ寝ずに読んだとしても、この広い図書室の蔵書全てを読むには十年単位の時間を必要とするだろう。
「失礼を承知で尋ねるが、この場所で幾年の時を?」
思わず出てしまったその問いに、リーゼロッテは妖艶な笑みを浮かべて答えた。
「五十年と少し。年齢なんて気にしなくていいわ。私、
そして彼女は、アルフレッドの籠手に自分の手を重ねた。しかしその手は彼をすり抜けて、虚しく空を切る。
「……こうして誰かと話すのはいつ振りかしら。もう二度とこんな機会はない気がするの。お願い、少しでいいから。……どうか、ここにいて」
涙の流れない瞳を震わせながら、リーゼロッテは囁いた。そよ風が吹き、雲が月を覆い隠す。夜は未だ、終わる気配がなかった。
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