孤影

 不穏な噂が流れている。

 朝鮮での戦況もまだ落ち着かぬ折、京では太閤秀吉の容体に関する言葉が、家中を駆け巡っていた。


 石田三成の耳にも、その囁きはすでに届いていた。最初は市井の浮説に過ぎぬと聞き流していたが、やがて大名の家中や寺社の僧口からも同じ言葉が洩れ始めた。虚か実かを測ることさえ難しい、しかし確かに広がる声であった。


 だが、その噂を打ち消すかのように、京からは別の声も伝わってきた。

「殿下、鶴松公の御霊前に自ら足を運ばれた」

「伏見にて連日、政務を執られている」

「まだまだ矍鑠としておられる」


 まことしやかに囁かれるその言葉は、意図的に広められているかのようで、真実を掴むことをさらに難しくしていた。

 三成は書斎に座し、報告書と書状の山を前に、眉をひそめた。噂の真偽は分からぬ。だが、手元の現実は重く、命じられた増員の兵と、逼迫する兵糧、雑事の山に覆われていた。


「……京の言葉など、あてにはならぬ」

 三成は小さく呟き、障子越しの光に沈む机の上の書状に目を落とした。その紙面には、太閤秀吉の朱印と共に、五万の兵を朝鮮に差し向けよ、百日分の兵糧を整えよ、と記されていた。前回の三千とは規模が桁違いの命令。既に行われた準備など、軽々と吹き飛ぶ量であった。


「治部少、如何に致しますか」

 側に控える家臣が、声を震わせつつ尋ねる。

「急げとは申されているが、これほどの兵、兵糧を整えるには——」


 三成は視線をあげ、家臣らを見渡した。表情には一瞬の陰り。だが、その瞳は冷静さを失ってはいない。

「まずは帳簿を洗い直せ。全ての米俵、兵糧、積み出し予定を確認するのだ」

「かしこまりました」


「次に、諸大名への通達だ」

 家臣の一人が恐る恐る顔を上げる。

「福島殿、加藤殿……御耳には如何に届くやもしれませぬ」

「届くのも早い、遅いもない。形だけでも整えるのだ。調整が遅れれば、こちらの不手際が疑われる」


 三成は手元の巻紙を取り、地図や数値を確認しながら続ける。

「各城代に書状を配り、必要な兵糧を算出せよ。輸送路の確認、倉庫の管理、補充の算段もつけろ」

 家臣は次々に筆記し、顔を伏せる。重圧に眉間を寄せる者もいる。


「余の私財もまた、これにあてることになるであろう」

 三成は静かに告げる。口調は淡々としているが、胸中には不安と焦燥が渦巻いていた。家臣らはその言葉の意味を理解し、互いに視線を交わす。誰一人、無闇に反論する者はいない。


 三成は書状を再び手に取り、細かい指示を口頭で伝える。

「前田利家殿には物資の補給に関する書状を出す。使者の差配は任せる」

 家臣は平伏した後、速やかに書院を去る。

「米俵の管理も見直せ。湿気、破損、紛失。全て、余の目の届くところで確認するのだ」

 倉庫に積まれた米俵の山を思い浮かべ、三成は息をついた。

「足りぬものは足せ。余の私財で補う。それ以上の無駄は許さん」


 家臣はそれぞれの役目に戻る。三成は一度、深く息を吐き、再び書状と地図に目を落とした。

 夜の闇が書院を包む中、彼らの指示の声と紙の擦れる音だけが静かに響く。

 夏の暑気と共に、石田家の書院には、孤独な戦いの気配が重く漂った。


 遠く京の方から、噂とは逆に、太閤の健在を伝える言葉がまた届く。しかし三成にとっては、目の前の現実、兵と兵糧、使者と大名調整の山の方が重くのしかかるだけであった。


 書院には、まだ先ほどの家臣らが出入りした気配が残っていた。筆記のために擦られた紙の匂い、墨をすった音の余韻。そのすべてが、重荷だけを置き去りにして去っていったかのように感じられる。三成は文机に残された書状を手に取り、しばし無言で見つめていた。


 三成は書状から顔を上げ、書院に漂う重い空気を静かに吸い込んだ。

「京の言葉など、あてにはならぬ」

 そう口にした三成自身が、その言葉に最も安堵を求めているのかもしれなかった。太閤の容態が仮に虚偽の噂であったとしても、目の前の五万の兵と百日分の兵糧という現実だけは、動かしようがない。この途方もない命令は、三成のこれまでの苦心と、武断派との危うい均衡を、一瞬で瓦解させる力を持っていた。


 三成は、視線をあげ、家臣らを見渡した。表情には一瞬の陰り。だが、その瞳は冷静さを失ってはいない。

「まずは帳簿を洗い直せ。全ての米俵、兵糧、積み出し予定を確かめよ」

 家臣は次々に筆記し、顔を伏せる。重圧に眉間を寄せる者もある。

「次に、諸大名への通達だ」

 三成は手元の巻紙を取り、地図や数値を確認しながら続けた。

「各城代に書状を配り、必要な兵糧を算出せよ。輸送路の確認、倉庫の管理、補充の算段も怠るな」

 家臣はそれぞれの役目に戻る。三成は一度、深く息を吐き、再び書状と地図に目を落とした。


            *


 夜の闇が書院を包む中、三成は静かに筆を執った。新たな書状は、福島正則と加藤清正、そして増援に必要な兵を持つ主だった武将たちへ送られる。その文面は、前回以上に丁重であった。


『太閤殿下の御意に候。五万の兵、百日分の兵粮を、今秋までに召し整うべしとの仰せに候。

 つきましては、兵の召集、武具の拵え、すべて貴殿の御存分に取り計らい下さるべく、此の段申し達し候』


 さらに末尾には、静かに一文を添える。


『なお、兵粮の不足これあるば、従前のごとく、我にて埋め合わせ仕る所存に候』


 三成は、前回、彼らの「情」と「矜持」を逆撫でしてしまった失敗を繰り返さなかった。彼は、自身の「理」を前面に出すことを避け、ひたすら太閤の御威光と、武将たちの責任と権限を強調した。それは、彼らの反発を回避するための、三成にとって最後の、そして最も苦渋に満ちた策であった。


            *


 書院の外が薄闇に沈むころ、前田玄以が静かに席へ進んだ。

 三成は書状の控えを巻き取り、机の隅に置いていた。墨の香りがまだ濃い。


「石田殿」

 玄以は座につくと、すぐには口を開かず、机上の書状の端を指で軽く叩いた。

「これにて、使者は発たれたと承りまする」


 三成は頷き、背筋を正した。

「うむ。太閤の御意なれば、遅滞なく届けねばならぬ」


 玄以は目を伏せ、しばし沈黙ののち言葉を継いだ。

「御意の重さ、誰より承知しております。されど……あの文面のままでは、武辺の者ら、殊に福島殿、加藤殿は、ただ命ぜられたと受け止めましょう。殿下の御威光を笠に着て石田殿が押し付けた、となれば、反発は避けられませぬ」


 三成の目が細く光り、低く返す。

「命令を命令として伝えることが、何ゆえ咎められねばならぬのだ。太閤の御意を飾り立てることに、いかほどの意味があろう」


 玄以は静かに首を振った。

「政とは、ただ理を通すのみでは立ちませぬ。殊に今は、太閤様の御容体につき様々な噂が流れておりまする。人の心は、理よりも影に揺れるもの……」


 三成は一瞬、口を閉ざした。やがて冷ややかに吐き出す。

「影に怯え、真を見失う。それこそが、この国を乱す元に他ならぬ。余はその闇を払うため、筆を執ったのだ」


 玄以はじっと三成を見つめ、声を低める。

「石田殿、御身の志は疑いませぬ。されど……それを支えるは人の心にございまする。武断の将らの心を逆撫でしては、志も理も、形を保つことはできませぬぞ」


 三成は黙したまま地図を睨み、指で京から博多までの道筋をなぞった。

「……ならば、いかにせよと? 既に書状は飛脚の手にある。戻すことはかなわぬ」


 玄以は小さく息を吐き、言葉を選ぶように答えた。

「今からでも遅くはありませぬ。別の使者を立て、石田殿自らの言葉を添えるのです。理ではなく、心を立てる文を──たとえ後から届くとも、誠意は伝わりましょう」


 三成は眉間に深く皺を刻んだ。机上の硯を見つめ、しばし動かない。

 やがて、低く漏らす。

「……余は、政を動かすために血を流す覚悟をしてきた。だが、言葉ひとつで血が流れるならば……」


 玄以はその声を遮らず、ただ座して待った。


「……次の文は、余の筆でなく、心で書こう」

 そう呟いたとき、三成の横顔には、理に殉じる冷徹さと、人を掬おうとする脆い人間らしさとが、入り混じっていた。


            *

 書状は届けられ、福島、加藤の両名からの反発は今のところなかった。しかし、三成の胸中は軽くなるどころか、さらなる重圧に押し潰されそうであった。武将たちの沈黙は、三成の譲歩を単なる**「事務的な妥協」**として受け入れた証であり、彼らの心の底に潜む不信は、何一つ解けてはいない。


 帳面の上では兵糧は整えられつつあったが、輸送路の確保は依然として難航していた。水無月特有の雨にぬかるむ街道、増水した川、そして五万の増員に必要な人夫の不足。家臣らが汗を拭いながら数値を確認し、必死に報告を上げるたび、現実の重さが三成の肩を強く押し付ける。


「足りぬ……届かぬかもしれぬ……」


 独り呟き、筆を置く。何度も書き直し、確認を重ねた書状であっても、確実に目的地に届く保証はない。京の不穏な噂は消えず、朝廷や大名間で波紋を呼ぶことも想像に難くない。五万の兵、百日分の兵糧――膨大な量はもはや物理的な問題を超え、三成の心を蝕む心理的圧迫となっていた。


 その頃、朝鮮半島南部では、日本の撤退部隊が明・朝鮮連合軍の追撃に晒されていた。海岸の要衝は常に危機に瀕し、わずかに残された城郭も飢餓と疫病に蝕まれている。報告によれば、撤退を終えたはずの部隊の一部が、追撃を振り切れず戦場に置き去りにされつつあるという。三成が整えようとする五万の兵と百日分の兵糧は、まさにその「置き去りにされた兵」の命綱であり、最後の砦であった。


 夜の熱気が書院の障子越しに漂う中、三成は汗を拭いながら一枚一枚の書状、そして地図を睨む。足りぬ兵、行き渡らぬ兵糧、遅れる城代――すべてが視界に絡みつき、思考を縛る鎖となる。


「各城代、必ず期日までに兵糧を整えよ。道中の被害、損耗も予測し、予備を準備せよ。誰かが怠れば、すべては水泡に帰すのだ」


 家臣たちは声を潜め慎重に頷く。書院の空気は重く、沈黙の波が間断なく押し寄せる。三成は筆を取り、武断派への追加指示を書き加える。言葉は冷静だが、その背後には焦燥と、誰にも理解されぬ孤独が渦巻いていた。


 深夜になっても現場の状況は変わらない。倉庫の管理、輸送路の確認、兵糧の点検――目の前には山のような課題が積まれたままだ。三成は、自らの**「理」という名の細い綱**の上で、命綱なしの綱渡りを続けているかのように感じた。


 障子の隙間から差し込む月光が書状や米俵の影を長く引く。無数の問題が夜闇の中で待ち構えている、宿命の像のように三成には映った。彼はその光を見つめ、己が背負う太閤への忠義の重さを改めて噛み締める。


 家臣らを退け、書院に残った三成の手元には、整えられた兵と兵糧の数値が並ぶ。しかし、それは帳面上の数字に過ぎない。道中の事故、天候の悪化、予想外の損耗――現実はいつでも数字を裏切る。


 書状を閉じ、三成は静かに額を机に押し当てる。全ての準備が整ったわけではない。今は、これ以上何をしても足りぬという焦燥と、どうにもならぬ現実に、心が鋭く締め付けられていた。


 そのとき、夜の静寂を破る声が飛び込む。


「治部少様!急報にございます!」


 障子が開かれ、息も絶え絶えの家臣が顔色蒼白で告げた。その声には、五万の増員命令をも凌駕する、真の動揺が宿っていた。


 三成はゆっくりと顔を上げる。無表情に見えるその瞳の奥には、すべてを見通す冷徹な光が宿っていた。


「騒ぐな。何事だ」


 家臣は畳に額を擦りつけ、震える声で告げる。


「太閤……太閤殿下、ご逝去なされました!」


 三成の時が止まる。


 私財を投じ、友を遠ざけ、武断派の矜持を逆撫でしてまで、一人で守ろうとした「理」のすべて――それは、ただ一点の太閤秀吉の「御威光」のために捧げられたものであった。


 深く息をつき、孤独な戦いのすべてが砂のように零れ落ちるのを感じながら、命を懸けて守ろうとした「夏」は、音もなく、終わりを告げた。


(第一章 了)

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