夏の暗雲
春先、太閤秀吉から下された三千の増援命令は、厳しいながらもなお現実の範囲に収まっていた。石田三成は私財を投げ打ち、俸禄を前借させ、蔵の米をかき集めてどうにか支度を整えた。兵の数は限られ、輸送の段取りも見通しが立った。
だが今度は違う。
五万の兵、百日分の兵糧。帳面に墨を入れた途端、その桁違いの数字は現実の地図を歪ませていく。兵糧を運ぶ船の数、馬の飼い葉、城下の米相場──何から計算を始めても、いずれ破綻することは明らかだった。
「……どこから手をつけても、帳尻が合いませぬ」
帳面を広げた家臣の声が、書院の静寂を破った。
三成は無言で数字を追った。列ねられた算木の山が、やがて全てを押し潰す岩のように見えてくる。春先に救われた一抹の理が、今は霧のように消え失せていた。
それでも、手を止めるわけにはいかぬ。
三成は筆を執り直し、書き散らされた数字を前に、胸の奥で静かに呻いた。
数字を追っていた武辺寄りの家臣が、帳面から顔を上げた。額には深い皺が刻まれている。
「治部少──この支度は、いかに算を重ねても形になりませぬ。三千の時は、まだ諸将も渋々ながら従いました。しかし、五万ともなれば……」
言葉を切り、家臣は声を潜めるように続けた。
「加藤清正、福島正則。あの両名が、いかに申すか……」
三成は視線を落としたまま、答えなかった。家臣はなおも畳みかける。
「清正殿は、兵の痛みをよく知るお方にございます。無茶な命令を聞けば、ただでさえ血気盛んな性格、烈火のごとく怒りを示しましょう。福島殿もまた、己が腹の内を隠す人ではない。『机上の空論』と、治部少の名を口に出して責め立てるやもしれませぬ」
畳に落ちる沈黙。外では、盛夏の風に竹がざわめいていた。
三成はようやく口を開いた。
「……分かっておる。だが、拙者がいかに声を荒げても、太閤殿下の命には抗えぬ」
その声は静かであったが、どこか諦念を含んでいた。
*
六月の風が湿り気を帯び、畳にじんと汗を滲ませていた。
石田家の書院には、朝から晩まで帳簿と算木が散乱し、紙をめくる音とため息が交錯している。
「兵船の数を増やさねば、これ以上の兵は渡れませぬ」
「船を出すなら米の積載は減る。五万の兵に百日分となれば……」
家臣らの声は次第に掠れ、同じ計算を何度もやり直すうちに、筆先が震えるようになっていた。
ある日は水軍の加勢を求める話が持ち上がる。
「九州筋の諸将へ働きかけるべきやもしれませぬ」
しかし別の者が首を振る。
「彼らとて兵を欠いておる。容易に貸し出すとは思えませぬ」
またある日は勘定頭を呼び寄せ、銭のやり繰りを詰める。
「蔵から出せる銀は、もはや尽きかけております」
「市中の両替商から借り入れを?」
「利息をどう返すのです。戦が長引けば、国元が干上がりましょう」
机上の算木は何度並べ替えても同じ答えを突き付けてくる。
やがて、三成は家臣の一人を伴って川辺に出向いた。そこでは新造の兵船が急ごしらえで作られ、船大工たちが汗まみれで鉈を振るっている。
「材木が足らぬ、今あるものを継ぎ足して凌ぐしかない!」
「縄を急げ、米俵が崩れ落ちるぞ!」
怒号が飛び交い、木槌の響きが絶え間なく続く。積まれた米俵は川辺の陽に晒され、汗臭と蒸れた藁の匂いが鼻を突いた。
三成は黙って眺めていたが、その顔に浮かぶのは計算では測れぬ困難を悟る色だった。
*
七月の蒸し暑さが、石田邸の倉庫にもじんわりと染み込んでいた。調整の書付に目を通していた三成の背後で、家臣が控えめに口を開いた。
「殿、倉庫の米の状況ですが……」
家臣の声が低く響く。三成は眉をひそめ、机の書類を置いた。
「何か異変か?」
「はい、積み上げた俵の一部に湿気が入り、藁が黒ずみ始めています」
「殿、倉庫の米の配分に乱れがございます。早急に手を打たぬと、諸将への届けが間に合わぬかと」
三成はふっと息を吐き、筆先を止めて答える。
「……見せてもらおう」
家臣に伴われた三成は、重苦しい扉を押し開ける。中には米俵が積まれているはずだったが、積み上げた俵の間からは湿気が立ち上り、藁の匂いが鼻を突いた。
「……腐敗が始まっています」
下座に控えていた勘定方が、俵の一つを指差す。表面は黒ずみ、所々に小さな穴が開いて米が見える。蟻が這い回り、鼠の痕跡もあった。
「兵糧百日分のうち、既に何割が危ういか……」
三成の声は低く、しかし震えてはいなかった。家臣たちの視線は俵に吸い寄せられ、誰もが言葉を失う。
「急ぎ乾かすか、入れ替えるしか……」
「材木も縄も足りぬ、船に積む前にこの惨状では……」
誰もが手の打ちようのない現実に、肩を落とす。
三成は俵の隙間を指でなぞり、重苦しい沈黙を置いた。
「形だけは整えて見せねばならぬ。だが、この状況、誰に話しても理解されぬであろう」
家臣の一人が俵を持ち上げようとして、汗で滑った手から落とす。音とともに、さらにいくつかの俵が崩れ、米粒が地面に散らばった。
「……すべて整えるのは、不可能に近い」
ついに、誰もが口にするしかない現実がそこにあった。
三成は俵の間に沈み込み、天井の梁を見上げる。
「それでも、備えを整えねば……これを放置すれば、朝鮮へ差し向ける兵の生命すら危うい」
倉庫の中に立ち込める湿気、藁の匂い、汗と埃の混ざった空気が、五万の兵への絶望的な準備の重さを、視覚と感覚で伝えていた。
*
三成は家臣と共に石田邸の書院に戻った。倉庫での異変を確認した後、重苦しい空気を抱えたまま座布団に腰を下ろす。
一人の家臣が平伏し、声を震わせて言った。
「殿、それがしの至らなさにより、この様な大儀をおかけし――」
「後にせよ」
三成は言葉を遮り、冷静な目で家臣らを見回す。息を呑む書院の空気の中、三成は筆を置き、倉庫での逼迫した状況と増援兵の準備について、家臣らとの対応を協議し始めた。
家臣が頭を上げると、三成は座を整え、書院の畳に一同を集めた。
「今回の事態、各自が考えうる手を挙げよ。どう動けば帳尻を合わせられるか、共に検討する」
家臣たちは互いに視線を交わし、急務の調整に向けて議論を始めた。
三成の声は冷静だったが、その瞳には、迫り来る夏の暑さと増援兵の重圧を前に、微かな疲労が漂っていた。
*
三成は巻物を広げ、蔵の在庫と損耗状況を一つずつ指示させる。家臣らは数を数え、棚の位置、湿気の影響、破損や劣化の程度を報告する。三成は耳を傾けながら、必要となる兵糧の増減や再補充の手順を頭の中で組み立てていった。
「まず米糧の再分配を行う。前線に近い倉庫を優先し、湿気の多い場所のものは後回しとする。兵器は積載順を入れ替え、使用頻度の高いものから梱包せよ」
冷静な声音だが、背後には厳密な計算が隠されていた。家臣らは三成の指示に従い、必要な人員、馬匹、荷役の手順を控える。
「次に、兵の呼び寄せと配分だ。五万の兵を一度に移すことは不可能。城ごとに段階的に編成し、輸送と訓練の日程を重ねる。中堅以上の家臣には、日々の進捗を報告せよ」
家臣の眉間に皺が寄る。増援の規模が桁違いであることを、言葉にせずとも理解していた。だが三成は続ける。
「現場で不足が生じた場合は、前線で調達可能な物資を使用する。河川や港湾の利用、隠し倉の活用も忘れるな。輸送中の損耗を最小化せねば、命令は意味を失う」
書院に沈黙が流れた。重苦しい熱気の中、三成の冷静な声が家臣らの心を支配する。彼の指示は、単なる命令ではなく、全体の流れを先読みした精密な設計図のようであった。
「さらに、現場の進捗確認は日々行う。問題があれば即座に報告し、方針を修正せよ。無理な要求は抑え、段取りの優先順位を見極めるのだ」
家臣らは頷き、鉛筆を走らせる音、紙をめくる音だけが書院に響く。三成は筆を握り直し、増援命令を現実のものとして受け止めたうえで、何を優先し、何を後回しにするかを整理した。
「よいか。まず米糧、次に兵器、そして兵の配置。進捗は必ず報告すること。無理のない範囲で最大限の準備を行うのだ」
その声には、孤立した書斎の重圧と、増援の規模がもたらす絶望感を内包しながらも、冷徹に現実を見据える官僚としての理性が宿っていた。家臣らは息を飲みつつ、口を開かずとも理解した。これが、石田三成の、五万兵を動かすための唯一の道であることを。
家臣らが散じたのち、石田邸は急に慌ただしさを増した。
書院を出た者はその足で人足の手配に走り、別の者は倉庫に戻って米俵を仕分け始めた。湿りを帯びた藁をほどき、中の米を乾かそうと筵を並べる。だが盛夏の湿気は容易に逃げず、俵の山の端からはなお黴の匂いが漂った。
街道筋の者に遣わされた家臣は、村の庄屋に頭を下げ、馬と人夫を借り受ける手筈を整えた。労銀を払うと告げると、村人らは訝しげな顔をしながらも渋々承諾する。すでに戦のたびに酷使されてきた農民にとって、新たな負担は重かった。
一方で、帳場に詰める書記役たちは、連日の算盤と格闘していた。
「米を川筋に移すなら筏師の手当が要る」
「馬を三十頭追加せねばならぬ、だが相場は高騰している」
紙と墨の上で数は増え、減り、また計算し直される。その度に筆を執る手が重くなり、額に汗がにじむ。
三成は再び書院に一人残り、報告を待った。障子の向こうからは、走り去る足音や、蔵から米を担ぎ出す掛け声が響いてくる。命令が生き物のように広がり、屋敷を駆け巡っていく。その音を耳にしながら、彼は机上の朱印状に目を落とした。
やがて夜が訪れた。書院に戻ってきた家臣が次々と進捗を報告する。米の仕分けは半ばまで進んだ、村の庄屋が十人の人足を差し出すと約した、川筋の筏師も雇えそうだ――細かな進展の報せが積み重なる。だが同時に、兵糧の不足、街道の逼迫、人足の疲弊といった暗い影も消えなかった。
三成は家臣からの報告を黙して聞き、ただ的確に次の指示を下す。声は冷静で、表情も揺らがぬ。だが灯火に照らされたその横顔は、日に日にやつれていくように見えた。
*
ある夜、三成が書院にて書状に目を通していると、控えていた小姓が声をかけた。
「治部少、三木嘉十郎殿がお見えにございます」
三木嘉十郎――先日、米の不始末により平伏し、責を詫びた家臣であった。
「うむ、通せ」
やがて三木が書院に参じた。なおも己の過ちに打ちひしがれている様子で、畳に両手をつき深く頭を垂れる。
「夜更けに、わざわざ呼び立てしてすまぬな」
「いえ、滅相もございませぬ」
三木の声は硬く震えていた。三成は筆を置き、書き上げたばかりの書状を脇の家臣に託し、三木の前へと差し出させた。
「島左近殿への書状だ。すまぬが、使者としてこれを届けてほしい」
「それがしが……でございますか」
「うむ」
短い沈黙の後、三木は再び深く頭を垂れた。
「かしこまりました」
「それとな」
三成は言葉を切った。言いよどむように、宙に目をさまよわせる。
「余は詫びは後にせよ、とは申した。だが《赦す》とは言っておらぬ」
「承知しております」
伏したままの三木の眉間には皺が寄り、血が滲むほどに拳を握り締めている。
「島左近殿への書状を渡し終えた後は……帰参には及ばぬ」
三木は呆気に取られた。帰参に及ばず――すなわち石田家の家臣ではなくなるということであった。
「けじめは必要だ。承知してくれ」
ここで三木は思わず顔を上げた。本来ならば主君の許しなくしてはならぬ振る舞いであるのに。
「ならば、それがしは自刃いたす」
「ならぬ」三成の声は冷たく、揺るぎなかった。
「しかし、このままでは、それがしの——」
「ならぬ、と申しておる!」
三成にしては珍しく、強く言い放った。三木は力なく再び伏した。
「なにゆえ……お許し下さらぬ」
三成は黙したまま歩み寄り、三木の肩に手を置いた。
「それはな。お主が余と太閤殿下の狂気の沙汰に巻き込まれた男だからだ」
それは、三成の本心であった。大谷吉継にさえ語ったことのない胸の裡。夜の灯明に揺れる影の中、その言葉は吐息のように消えていった。
「この書状には、お主のことを記してある。島殿ならば、きっとよく取り計らって下さろう」
「殿……」
三木嘉十郎の肩は震えていた。
やがて三成は手を放し、座へ戻る。
「立て。使者の務めを果たせ。それこそが余より託す最後の役目である」
三木は深く一礼し、書状を胸に抱きしめた。その目には悔恨の影が濃く残りながらも、どこか誇りを取り戻した光が差していた。
外では秋風が竹林を鳴らしている。三木はやがて立ち上がり、障子の向こうに消えた。三成はただ黙してその背を見送った。
冷徹な裁きの貌と、同じ人の世を生きる者としての痛みと――その双方を抱えながら。
(続く)
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