第二章 空白の座

理の崩壊

 八月十八日の夜半。伏見城の奥深く、あらゆる明かりが覆い隠されるかのように静まり返っていた。虫の音ばかりが耳を打ち、風は湿り気を帯びて肌にまとわりつく。

 その闇の奥で、一人の巨人が息を引き取った。

 豊臣秀吉——太閤殿下。


 三成はただひたすらに、深い沈黙の中に身を置いていた。己が耳に届くのは、わずかな吐息の残滓と、周囲の侍医たちが押し殺した嗚咽ばかり。いつもは声高に命令を飛ばし、怒号を響かせていた男が、今はただ、力なく横たわるだけであった。

 死の瞬間を目にした三成の胸裏に去来したのは、感傷よりもむしろ重苦しい焦燥である。


「……殿下」

 声を発したものの、返答はない。己が呼び声を虚空に吸われるかのように、ただ空しさが広がる。


 その場には、前田玄以、増田長盛ら奉行衆も居並んでいた。誰もが顔を伏せ、互いの視線を避けている。口を開けば涙がこぼれ、心が揺らぐのを恐れたからだ。だが三成だけは違った。涙を見せる余裕など、彼にはなかった。

 この死をどう扱うか。

 それこそが、今後の天下を左右する大事であると知っていた。


 秀吉の死を即座に公にすれば、天下は乱れる。豊臣家は脆くも崩れ、徳川家康をはじめとする諸大名が我先にと兵を挙げるに違いない。幼子・秀頼を戴く体制は、瞬く間に瓦解するであろう。

 では隠すのか。

 その間、誰がどう政務を裁き、誰が命令を下すのか。軍の動き、朝廷との関わり、諸大名への伝達。全てに周到な調整が求められる。


 三成は、殿下の亡骸を一瞥すると、己の胸の奥で呟いた。

(ここからが、戦だ)


 すぐに、閉じられた襖の向こうで物音が立つ。家臣らが慌ただしく集まり始めていた。報せを聞きつけた近習たちが、顔を蒼白にし、次に何をすべきか迷いあぐねているのだ。

 その場を収めるべく、三成は一歩前に出る。


「皆の者、静まれ」

 低く、だが鋭い声。

 ざわついていた空気が、刹那に凍り付く。


「殿下の御逝去、これを世に知らしめるのは尚早である。——秀頼公の御身を守り、豊臣の家を保つためにも、今はひたすら秘すべし」


 誰かが小さく息を呑んだ。

 秘匿。それはすなわち、虚偽を重ね、時を稼ぐということだ。だがその嘘が天下の安寧を守る唯一の道であると、三成は断じていた。


 前田玄以が重々しく頷いた。

「……左様。されど、朝廷への奏聞は?」

「いずれ然るべき時に。今は急報を避けよ。殿下が未だ御存命にあるがごとく、政務を執り行うのだ」

 三成の声は震えていない。

 その確固たる響きが、皆の動揺を押し留める楔となった。


 しかし容易ならざる問題は山積していた。

 伏見城には、各地から参じた大名や使者が控えている。彼らにどう言い繕うか。

 さらに、殿下の病が重いことはすでに天下周知の事実。逝去が長く秘されれば、かえって疑念を招き、諸方に乱を生むやもしれぬ。


 夜が明けた。

 城下に漂う空気はどこか重苦しく、城門の警護兵も顔を強ばらせていた。殿下の様子を窺いに来る者は後を絶たない。

 三成は玄以、長盛と共に密議を重ね、細心の策を練った。


「病状は依然として重く、面会は叶わぬ——そう伝えるのがよろしい」

「されど、殿下のお声を求められた場合は?」

「文にて、殿下自らの御意と偽り、我らが起草したものを用いる」


 その場の誰もが、言葉を失った。

 虚偽。背信。

 だが、それをも厭わねばならぬほどに、事態は切迫していた。


 三成は筆を執り、秀吉の書状に酷似させた筆跡をなぞる。

 その手元は微塵も震えていなかった。

 内心、己を欺くために何度も繰り返していた言葉がある。

(これは豊臣を守るための策だ。殿下もきっと許してくださる……)


 ——だが。

 ふと胸をよぎるのは、殿下の最期の姿であった。

 痩せ衰え、声すら掠れ、なお幼子の行く末を案じていた人の面影。

 その期待を裏切ることは、果たして忠義と言えるのか。


 筆を置いた三成は、しばし虚空を見つめた。

 理と忠義。その板挟みは、秀吉亡き後の全ての局面で、彼の歩みに影を落とすこととなる。


 幾日かは、重苦しい沈黙の中で過ぎていった。

 伏見城の奥は、昼なお薄暗く閉ざされ、外界から切り離された牢獄のようでもあった。


 外様大名たちは次々に様子を伺いに訪れたが、いずれも「殿下はご静養中」との一言で門前払いを受ける。そのたびに、使者の目に宿る疑念の色が濃くなる。

 彼らは知っているのだ。太閤秀吉の病がすでに危篤であったことを。にもかかわらず幾日も姿を現さぬのは、もはや生きてはいないからではないか、と。


「……時を稼ぐつもりが、かえって怪しまれるやもしれぬ」

 増田長盛が声を落とした。

 三成は答えず、伏し目がちに沈思した。


 虚偽の書状はすでに数通を発していた。筆跡も語調も精巧に真似、差出人はあくまで「殿下」。しかし、使者の一人が紙を手に取ったとき、わずかに眉をひそめたのを三成は見逃さなかった。

(……気づかれたか)


 疑念が広がれば、いずれ徳川家康の耳にも届く。

 家康は必ず動く。いや、すでに動き始めているかもしれぬ。


 夜ごと三成は眠りにつけぬまま、秀吉の寝所に赴いた。すでに冷たく、静まり返った巨躯の前にひざまずき、誰にともなく問いかける。

「殿下……この道は正しきものにございますか」

 返事はない。

 ただ、燃え尽きた灯のように横たわる主の姿が、己を映す鏡のごとく目に焼き付くだけであった。


 ある夜、密議の席にて、前田玄以が厳しい声を放った。

「三成殿、もはや隠し通すのは限界かと存ずる。日を置けば置くほど、不信は募るばかり。かえって家中の結束を損ないましょう」

「では、いま告げよと仰せか」

 三成は鋭く応じた。

「その時、誰が諸大名を抑えられる。誰が秀頼公を守り、豊臣の家を立て直す。そなたか? 否、誰もできぬ!」


 言葉は刃のように交わり、室内の空気は一触即発に張り詰める。

 やがて沈黙が落ち、誰もが視線を逸らした。


 三成は膝を正し、深く息を吐いた。

「……我らは虚言を弄しているのではない。時を繋ぎ、道を拓くのだ。殿下が守ろうとされた未来を、少しでも延命させるために」


 声は震えていなかった。だが、その胸の奥では、忠義と理のはざまで己を削る痛みが燻っていた。


 そうして十数日の時が過ぎた。

 ついに京の町には、囁きが広がり始めた。

「太閤殿下、すでに亡くなられたのではないか」


 そして、噂をいち早く掴んだのは——徳川家康であった。


            *


 九月某日の昼下がり。伏見城の奥深く、日常のざわめきから切り離された一室に、徳川家康は静かに座していた。その正面に控えるのは石田三成。


 二人の間に流れる空気は、夏の残る熱気とは異なる、張り詰めた冷たさであった。


 家康は、五大老筆頭としての威を纏いながらも、その眼光は鋭く、三成の微細な動きすら見逃すまいと探っている。三成は、主の死を隠すという大罪を抱えつつも、公儀の奉行として冷静の仮面を崩さなかった。


「治部少殿。太閤殿下のご容体、依然として重いと聞き及ぶ。我が屋敷にも、京の巷から数々の噂が届いておる。まこと憂慮の至りである」


 家康は正面から問わず、ただ「噂」と言葉を選んだ。三成に自ら吐露させる隙を与えるように。


 三成は、一片のためらいも見せぬまま応じた。

「恐れながら内府殿。巷の浮説は、根も葉もなきものにございます。殿下はご静養に専念あそばされ、つい先日も我ら奉行衆に直々に筆を執られ、政務の指図を賜りました。病状なお重くはございますれど、ご快復は必ずや近しと信じておりまする」


 その言葉は淀みなく、虚構の書状をも逆手に取り「殿下はいまだ政を執る」という理を堅固に掲げていた。


 家康はしばし黙し、やがて微笑を浮かべた。

「そうか。それは重畳。しかし一つ、腑に落ちぬことがある」


 身を乗り出した家康の所作に、室内の緊張はさらに増した。


「先日、殿下の御意として五万の増援が命じられた。それだというのに、いまだ増援の話がいっこうに進んでおらぬのは、いかなる訳か」


 その問いは、三成の築いた「理」の砦の最も脆い箇所を穿った。


「もしや殿下は、もはや御意を余すなく伝えることも難しくなされているのではないか。そしてその齟齬を埋めるために、治部少殿は私財を投じ、武断の将らにまで頭を下げ、必死に辻褄を合わせておられるのではないか」


 三成は、家康がどこまで掴んでいるのか測りかねた。だが、その言葉は心の奥底にまで届く刃であった。


「……内府殿。何を仰せられたいのか、推し量りかねます」


「治部少殿」家康は諭すように声を落とした。「おぬしほどの理知が、ここまで必死に理を尽くすのは、人の理では覆せぬ『不測』があるからに他ならぬ」


 三成の背を冷や汗が伝った。


 ——もはや、虚構を重ねることは逆に豊臣家の命脈を縮める。


 深い吐息とともに、三成は観念した。静かに頭を垂れ、その声を低く落とした。

「……内府殿のお察しの通りにございます」


「八月十八日、夜半。太閤秀吉殿下は……すでにご逝去あそばされました」


 家康は一瞬、瞠目した。驚きののち、長き疑念が氷解するかのように目を閉じる。やがて再び三成を射抜く眼差しを開いた時、そこには五大老筆頭としての威厳と、天下を量る者の野心が宿っていた。


「……なぜ秘した」


「秀頼公をお守りするためにございます。公にすれば、たちまち諸侯は乱れ、天下は戦の世に戻りましょう。幼き御身を守るには、ただ時を稼ぐしかございませぬ」


「虚言をもって天下を欺く、それがそなたの言う安寧か」家康の声は冷たく鋭かった。「その陰で政を掌握したは、豊臣のためではなく、治部少の独断に過ぎぬ」


 三成は唇を噛み、目を閉じた。忠義か、独善か。己の理が崩れてゆく音を胸の内に聞いた。


「……我が願うは、殿下の世の安寧、ただそれのみ。そのためには命すら惜しみませぬ」


 家康は頷いた。その声音には既に裁断を下す者の響きがあった。

「よかろう。天下の安寧のため、まずはこの大事を公とせねばなるまい」


 三成は深々と頭を垂れた。もはや政の主導権を失ったことを悟りながら。


「……承知つかまつりました」


            *

 家康との密談を終えた三成は、伏見城の奥を抜け、自室へ戻るまでの間、ただひとつの言葉も発しなかった。

 忠義を裏切ったのではない。――だが、己が身を賭して築き守ろうとした「理」が、内府の一言によって崩れ去ったのは、紛れもない屈辱であった。


 深夜、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家、そして三成自身の五奉行が一室に集められた。

 重苦しい静寂が漂う中、三成は机上に両手を置き、冷ややかに口を開く。


「……もはや、これ以上の秘匿はならぬ。徳川内府殿も察知された。太閤殿下の御逝去は、九月十日をもって天下に公する」


 刹那、部屋の空気が凍りついた。十数日の虚言を共有してきた彼らにとって、それは「終わり」を意味する決断でもあった。


 増田長盛の顔色は、青ざめていく。

「石田殿……九月十日とは、あまりに早すぎまする。諸侯への通達も、朝廷への奏上も、いまだ整ってはおりませぬ」


 長束正家が、低い声で刺すように問う。

「なぜ内府殿が知っている。我らは血を吐く思いで隠してきた。それを……なぜだ」


 その視線には、三成が裏切ったのではないか、という疑念が露骨に滲んでいた。


 三成はわずかに瞼を伏せ、しかし弁解はせず、冷徹に言い切る。

「内府殿は五大老筆頭。あの御仁の眼を誤魔化すことなど不可能だ。もし我らがなお隠し立てすれば、やがて内府殿が五大老の連判をもって、みずから発するだろう。――そのとき、我らは豊臣の臣として、もはや言い訳すらできぬ」


 沈黙が落ちた。

 家康に先手を奪われた。豊臣政権の「理」が、彼の掌の上にあることを、誰もが痛感していた。


 しかし三成は、己を押し殺すようにして続ける。

「公表と同時に、五大老・五奉行連名にて、秀頼公へ忠誠を誓う誓詞を作成する。これは、武断派への牽制とせねばならぬ」


 さらに命じたのは、己の信念すら反故にする決断であった。

「朝鮮よりの全軍撤退を、ただちに行う。五万の増援は……不要と致す」


 浅野長政が、驚愕の声をあげる。

「撤兵……! あれほど石田殿自ら財を投じ、兵糧を整えられたのに、それを捨て置かれるのか」


 三成は小さく目を伏せた。

「……兵の命こそ重し。撤兵は、太閤殿下の真の御意に叶う、と内府殿は仰せであった」


 己を切り刻むようにして、三成は家康の言葉を借りた。かつて彼を打ち砕いた「大義」を、今度は自らの口で豊臣政権の理とせざるを得ない――苦渋の選択であった。


 やがて前田玄以が、静かに頷いた。

「……承知した。朝廷への奏上と大老への調整、わしが引き受けよう」


 その姿に、三成はかすかな安堵を覚えた。


 だが、全てを譲ったわけではない。

「最後に、秀頼公を大坂城へ移す。伏見は御霊所とすべし。幼主がここに留まれば、いずれ悲しみと恐れに呑まれよう」


 その裏にある意図を、奉行衆はすぐに悟った。――大坂城こそ豊臣の牙城。家康の目が届きにくいその地に幼主を移すことで、わずかながら専横を牽制する防壁とする。


 増田長盛が、わずかに血色を取り戻して言う。

「……大坂への移徙、それは殿下の御意としても通じましょう」


 三成は深く息を吐き、言い切った。

「直ちに手筈を整えよ。もはや一刻の猶予もならぬ。――豊臣の家を立て直す。これこそが、残された最後の忠義の道だ」


 夜が明ければ、太閤の死は必ず世に広がる。

 その直前の、刹那の暗闇の中で、三成はただ一人、己が「理」と「忠義」の残滓を抱きしめるようにして、実務を回し続けた。


(続く)

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