第37話
第37話 Target33人目:匿名の王
彼には、名前がなかった。
いや、正確に言えば、誰も知らなかった。
かつて名を持っていたのかもしれない。だが今やその影跡すら、インターネットの深淵に沈んでいる。
「匿名の王」——人々は、畏怖と敬意、そして無自覚な従属心をもってそう呼んだ。
巨大な匿名掲示板。その裏側の管理者。
スレッドを立て、群衆を煽り、無数の「標的」を焙り出す。
正義の仮面をかぶった彼の「宣告」によって、ある者は社会的に抹殺され、ある者は命を絶った。
炎上の炎を操る手。無数の名無したちを兵士に変える声。
そのすべては「王」の気まぐれ一つ。
アカリが叩き潰されていた頃もそうだった。
「専用スレ」が立ち上げられた瞬間、群衆は一方向に収束し、嬲り殺しの宴が始まった。
「王」が玉座から指を鳴らしたのだ。
彼は姿を持たない。
見た目も、声すらも掴めない。
だが確かにそこに「支配の圧」があった。
掲示板の奥底に現れるログには、まるで王の詔勅のような冷酷な言葉が刻まれていた。
アカリは、ついにその王の「間」に踏み込んだ。
電脳の迷宮、その最奥。
データの残滓が王冠のように煌めき、幾千万の名無しの叫びが祈祷のように響いている。
『よく来たな、小娘』
声が、響いた。
どこからともなく、だが確かに「上」から降り注ぐ。
気位高く、傲然とした調べ。
「……あなたが匿名の王」
アカリの声は硬かった。憎悪と冷徹が同居する。
『我こそが、群衆の意思。名を持たぬ千の刃を統べる王。
お前など、その火に焼かれ、灰と消える存在にすぎぬ。』
「まだそんな幻想を振りかざしてるんだ。
匿名であることが自由じゃない。
あんたは、ただの臆病者。名前を隠して、群衆の背後に隠れて、他人の人生を壊してきただけ。」
『愚か者。
人は名を持つから縛られる。
我は名を捨てた。ゆえに、永遠なのだ。
お前がいくら憎んでも、我は消えぬ。
次のスレッドが立ち上がる限り、次の名無しが現れる限り、我は王であり続ける!』
アカリの目に、怒りが宿る。
だがその奥には、冷徹な輝きがあった。
「永遠」など、彼女のハッキングの前では虚構にすぎない。
「——なら、証明してあげる。
あんたは永遠じゃない。ただの記録、ただのデータ。
私は世界最高のハッカー。匿名の闇ごと、あんたを抹消する。」
その瞬間、アカリの指が走った。
電脳の剣が放たれる。
彼女のハッキングは、ただの侵入ではない。
国境を越え、サーバーを焼き尽くし、バックアップの海を蒸発させる。
あらゆる「冗長性」を嘲笑う一撃。
匿名の王は、必死に抗った。
掲示板のログを盾に、無数の名無しを壁にして、己の存在を隠し続けた。
『無駄だ! 名無しは尽きぬ! 我は永遠だ!』
だがアカリのコードは、壁をすり抜け、根幹を突き破る。
王の存在を支える「鍵」へと突き進んだ。
——戸籍。
——銀行口座。
——契約書。
——過去のログイン履歴。
——そして、かつての「名前」。
すべてが、消えた。
『や、やめろ……我は王だぞ……!
名無しの玉座は……永遠の……』
声が、かき消されていく。
轟音のように掲示板のスレッドが崩落し、群衆の声は断末魔のようなノイズに変わった。
現実でも同時に、彼は消えていった。
住民票から抹消され、口座は凍結され、過去の記録すら白紙化された。
「彼が生きた痕跡」が、世界から一字一句、存在ごと掻き消された。
最後に残ったのは、たった一行のシステムログ。
——《匿名の王:存在を確認できません》
---
アカリは、静かにモニターを閉じた。
「これで、群衆の『王』は死んだ。
あんたは結局、最初から誰でもなかった。」
無数の名無しを操った王は、匿名の闇に呑まれ、本当に「名無し」へと還った。
もう二度と、誰かを煽動することもない。
---
Target 33人目:匿名の王 —— 消滅
Next Target:選定中
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