第9話:風と少女の願い
放課後、暮れかけた陽の光が校舎の窓に淡く反射している。
蝉の声が遠くなりはじめ、空にはほんのりと茜が差していた。
「こよみ、今日はちょっと寄ってってもいい?」
昇降口の前で、莉音がそんなふうに言ったのは、何気ない口調だった。
けれど、そのまなざしはどこか、私の答えをじっと待っているようだった。
「うん。 よかったら、ゆっくりしていって」
私は笑って頷く。莉音は小さく「ありがとう」とだけ言って、隣に並んだ。
夕方の坂道を、私たちは並んで歩いた。
風がすこし強くなっていて、制服の裾がふわりと揺れる。
「……こうして帰るの、ちょっと久しぶりだよね」
「うん。 なんか、前はもっと一緒に歩いてた気がする」
私が言うと、莉音はふふっと小さく笑った。
「最近、こよみ、ひとりでいること多かったからさ。 なんとなく、追いついてみたくなったんだよね」
「……追いつく、って」
「うん。 ……なんか、前よりちょっと、遠くに行ってるように見えて」
そう言って莉音は、真っ直ぐ前を見て歩き続けた。
私はその言葉に、すぐには返事をできなかった。
でも──たしかに、自分でも感じていた。
何かが静かに変わりはじめた。
それは、あの声と出会ってからだった。
鳥居をくぐり、風の宮の境内へ入ると、夕焼けの光が石畳に長く差し込んでいた。
祖母が拝殿の前で掃除をしていて、私たちに気づくと穏やかな笑みを向けてくれる。
「あら、莉音ちゃん。 ようこそいらっしゃい」
「お邪魔します。 ちょっとだけ……こよみと話そうと思って」
「そう、ゆっくりしていってね。 お茶はあとで持っていくから」
祖母はまた静かに箒を動かしはじめる。
私は社務所の奥、いつも自分が使っている小部屋へ莉音を案内した。
畳の香りと木の軋み、そしてわずかに揺れる風の通り道。
私たちは、畳の上に並んで腰を下ろした。
部屋を抜ける風が、掛けてあった風鈴をかすかに揺らしている。
夕方の光は柔らかく、窓から差す影が長く伸びていた。
「……やっぱりいいね、ここ。 落ち着くっていうか」
「うん、私も。 ……毎日いると、気づかなくなるけど」
私がそう言うと、莉音はちらと横目を向けて、少し意地悪そうに笑った。
「ねえ、最近のこよみ、ちょっと恋してる顔してない?」
「……えっ?」
思わず声が裏返った。顔が熱くなるのがわかる。
莉音はそれを見て、ますます楽しそうに笑った。
「やっぱりー。 図星?」
「ち、違うよ。 そんなのじゃ……ないし」
「ふーん? でも、なんかほら、ぼーっとしてたり、急ににこってしたり……前より、柔らかくなった気がするんだよね。 雰囲気とか」
「そ、そんなこと……」
否定しながらも、言葉がうまく出てこない。
胸の奥がざわついて、どこか落ち着かない。
(だけど……それって、ほんとうに恋なんだろうか)
あの声。
私の中で、少しずつ輪郭を持ちはじめた誰か。
名前を知ってから、変わってしまった。
いまも心のどこかで、あの声を探している。
「……恋、っていうより……うまく言えないけど、知りたいって思ってるのかも」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
莉音は一瞬だけきょとんとしたあと、小さく目を細めて笑った。
「……ふふ。 なんか、それ、こよみっぽいかも」
「え?」
「ううん、なんでもない。 ……ちゃんと聞けてよかった」
莉音はそう言って、窓の外へと視線をやる。
風が吹いて、境内の笹がゆっくりと揺れていた。
白い短冊がいくつも、夕空のなかで静かに踊っている。
「……私も、ちゃんと考えよっかな。 願いごと」
「……うん」
私は、その揺れる光景を見つめながら、小さく頷いた。
手元の短冊は、まだ何も書かれていない。
けれど、その空白のままが、いまはすこしだけ怖く思えた。
* * *
「じゃあね、また明日」
夕暮れの空に、莉音の声が軽やかに響いた。
私は手を振りながら、ほんのりと残るその余韻を胸の奥で抱きしめていた。
あのあと、短冊は結局、何も書けなかった。
でも、それを不思議と気まずく思わなかったのは──たぶん、まだ言葉にしたくない気持ちが、ちゃんとあるからだ。
──知ってしまった気がする。
想いを、ただ「願い」という形に変えることの怖さを。
私はふと立ち止まり、奥社への道を見つめた。
風が頬を撫で、空の色はすでに茜から深い藍へと移ろい始めている。
手の中の短冊が、柔らかく揺れた。
──やっぱり、もう一度だけ。
そう思って、私は静かに歩き出した。
奥社の前に立つと、いつもの静寂が迎えてくれた。
でも今日は、それがほんの少しだけ、違って感じられた。
──近づいている。少しずつ。
そんな感覚を抱きながら、私は境内の奥へと進み、足を止める。
そのとき。
「……また来たのだな」
声は穏やかだった。
けれどどこか、ためらいのような、戸惑いのようなものがにじんでいた。
「うん。 今日も来たよ」
私は答える。
何も隠すことのない、素直な気持ちで。
「今日は……友だちとこの短冊を、どうしようかって考えてたの」
彼は、しばらく黙っていた。
その沈黙の向こうで、風が木々の枝をわずかに揺らす。
「言葉にならぬ想い、か」
「……うん、あるにはあるんだよ。 でも、それをお願いごとって呼んでいいのか、分からなくて」
私は空を見上げた。
まだうっすらと明るさを残す空の向こうに、言葉にならない想いが溶けていく気がした。
「想いってさ……叶えたいだけじゃないんだよね。 叶わなくても、大事な気持ちってあると思うの」
「……それは、祈りというものに近いな」
彼の声が、わずかに熱を帯びたように感じた。
「そう……なのかな。 わたし、最近そういう風に考えるようになってきて」
私は、短冊を握る指先に力を込める。
「お願いするだけじゃなくて、ちゃんと向き合っていたい。 言葉にしないままでも、想い続けるっていう形も……あると思うから」
そのとき、彼がぽつりと呟いた。
「……願いは、引き換えのものだ」
その言葉は、どこか遠くを見ているようだった。
「願いが強ければ強いほど、それを成すために必要なものもまた、大きくなる。 ときに、それは……戻れない代償を払うことにも、なる」
私は息を呑む。
「それって……あなたは誰かの願いを、叶えたことがあるの?」
彼は、少しのあいだ黙っていた。
けれど、今度はそのまま言葉を繋いだ。
「……願いを、幾度も幾度も受けてきた。 望まれれば、力を貸した。 喜ばれたこともあれば、恨まれたこともあった」
「叶えられぬ願いもあった。 けれど、それでも、私は誰かの想いに応えたかった」
私は、そっと短冊を胸元に収める。
彼の声はなお、どこか遠くを見ているようだった。
* * *
──その子は、重い病を抱えていた。
初めて声が届いたのは、雨の日だった。
濡れた髪を肩に貼りつかせ、細い体を震わせながら、少女は社の前に立っていた。
私の気配に気づいていたとは思えない。ただ、そこに向かって、祈るように手を合わせていた。
「おかあさんが、笑えますように……」
その言葉は、ひどくかすれていた。
けれど、それでも私には届いてしまった。
聞こうとしなくても、願いの声は、風に乗って、私の中へ入り込む。
私は、返さなかった。
祈りを聞いてしまえば、それは願いになる。
願いを受けてしまえば、私の力は応えてしまう。
だから、私は黙っていた。
拒むこともせず、ただ沈黙の中に身を置いた。
だが──それからも、少女は来続けた。
雨の日も、風の日も、蒸すような夏の日も。
体を引きずるようにして、社の前へ来ては、誰に届くとも知らぬ声を空に放ち続けた。
「……どうか、病気がよくなりますように」
「……おかあさんの笑顔が、また見られますように」
言葉は毎回、ほとんど変わらなかった。
願いは、ただ一つだった。
それでも、私は応えなかった。
──応えないようにしていた。
けれど……ある日。
少女はふと、問いかけたのだ。
「そこに……誰か、いるんでしょう?」
私は、驚いた。
はじめて、その声が私自身を捉えたことに。
その日、少女は倒れこむように座り込んでいた。
顔は青ざめ、息も荒く、それでも笑っていた。
「……いいんです。 返事がなくても……おかあさんが、また元気になれば、それで」
そして、少女は目を閉じた。
気がついたら私は、声をかけていた。
「……なぜ、そこまでして祈る」
我ながら、それはひどく不器用な問いだった。
声の正体に怯えるかと思った。
だが、少女は驚きもせず、ただ微笑んでこう言った。
「だって……わたし、おかあさんの笑った顔が、いちばん好きだから」
そのとき、私の中に、かすかな震えが生まれた。
千の願いを聞いた。万の言葉を浴びた。
けれど、この声は、どこまでも静かで、どこまでも澄んでいた。
──どうしてかは、分からなかった。
それでも私は、その声を、無視することができなかった。
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