第8話:風と願いの行き場

 昼下がりの教室には、ゆるやかな風と、窓の外から届く蝉の声が溶け合っていた。

 まだ梅雨は明けていないけれど、合間の晴れ間はすっかり夏の匂いがする。


「……暑いねぇ、こよみ」


 隣の席から、莉音が顔だけ出すようにして覗き込んできた。

 私はうなずいて、うっすら汗ばんだ額を手の甲で拭う。


「うん……でも、なんだか空気は軽くて、気持ちいいかも」


「そう? 私はもう、朝からずっとべたべたしてて最悪。 ねぇ、放課後スーパー行きたいんだけど、一緒に行かない?」


「……うん、ついてくよ。 今日、特売のパンあった気がするし」


 そんな会話を交わしながら、私は窓の外に目をやった。

 グラウンドでは、運動部の生徒たちが走っていた。どこかゆるやかで、でも懸命なその姿に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


(こうして過ごす時間が、ずっと続くのかな)


 ──ふいに、そんなことを思った。


 ここ数週間の毎日。授業、友達との会話、帰り道。

 何も変わらないようで、少しずつ確かに変わってきている気がする。


 思い返せば、その中心にはいつも、あの声があった。

 奥社で出会った、蒼真という神さまのこと。

 彼の名を知ってから、時間の流れが静かに、けれど確かに色を変えていった。


「──あ、そういえばさ」


 莉音が、不意に机の上をとんと叩いた。


「今日から七夕の短冊、昇降口のとこに出てるって。 知ってた?」


「え……ああ、さっきチラッと見たかも」


「書いた?」


「……まだ、書いてない」


 私は答えながら、思わず視線を落とした。

 指先が無意識に、机の角をなぞっている。


「ふーん。 私も、まだなんだけどね。何にしようかな〜って悩んでてさ」


 莉音は椅子を揺らしながら言ったあと、少しだけこちらを横目で見るようにして言葉を続けた。


「……こよみは、願いごとって、する方?」


 問いかけは、ふわりとした空気の中に自然に混じったものだった。

 けれど、その一言が、私の中にある何かをそっと揺らす。


「どう、だろう……」


 私は、静かに返す。


「家は神社だし、小さいころはよくしてたけど……最近は、あまり考えてなかったかも」


「んー……そっか。 でも、願いごとって、風の宮では叶うってよく言われてるよね」


 莉音は小さく笑いながら言ったが、どこか寂しげな響きが混ざっていた。


「……そうかも。 だけど、簡単に叶うものほど、こわい気もする」


 ──願い。祈り。想い。


 どれも似ているようで、どこか違う。

 奥社で交わす言葉の数々が、私の中でその違いを教えてくれたような気がする。


 名前を知ったあの日から、私は彼の存在を、ただの声ではなく誰かとして思うようになった。

 何かを伝えたいと思うようになった。


 ……でも、それを願いと言ってしまっていいのだろうか。


「……こよみ?」


 莉音の声が、近くなる。

 私は、はっとして顔を上げた。


「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」


「……なんかさ、こよみ、最近少し変わったかもって思って」


「え?」


「前より、なんていうか……柔らかくなった?」


 そう言って笑う莉音の目には、少しだけ探るような光が宿っていた。

 私は、何も言えずに小さく笑い返すしかなかった。


 ──願いは、どこへ行くのだろう。


 ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。

 昇降口の笹の葉が、校舎の風に揺れていた。

 白い短冊がいくつも吊るされて、まるで空に向かって問いかけるように、風に踊っている。

 私は、まだ何も書いていない。


 けれど──そのことが、なぜか少し、怖かった。



 * * *



 日が傾きはじめた帰り道、神社へ続く坂道には、湿り気を含んだ風が吹いていた。

 午後の空は少しだけ霞んでいて、薄雲の向こうに沈みかけた陽がぼんやりと滲んでいる。

 私は、境内に入る前に足を止めた。

 拝殿の鳥居の前で、そっと手を合わせる。

 

 ──どうか、今日も、声が届きますように。

 

 そう思ってから、自分で少しだけ笑った。

 それも、願いと呼んでいいのだろうか。

 足を進める。石段を抜け、奥社へと続く小道に入ると、空気がひんやりと変わった。

 鬱蒼と茂った木々の間を抜けるたび、風の音が耳に触れる。

 やがて、古びた木戸の前に立ち止まり、深く息を吸った。

 扉に手をかけて、静かに押し開ける。

 

 ──その瞬間、確かに感じた。

 

 風が、私の頬を撫でるように抜けた。


「……来たか」


 低く、けれど優しく響く声が、奥から届いた。

 私は、少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。


「……何かに迷っているな」

 

「うん……」

 

 私は短く答えて、そっと視線を落とす。

 

「願いごとって、なんだろうって思って」

 

 短冊を軽く揺らしながら、私は言葉を探した。


「学校でね、七夕の短冊が置かれてて……みんな、お願いを書いてて。 わたしも何かって思ったんだけど、書けなかった」

 

 彼はすぐには返事をしなかった。

 でも、その沈黙は拒絶ではなく、私の言葉を受け止めようとしてくれているように感じた。

 

「祈ることと、願うことって……似ているけど、どこか違うよね」

 

 私は、ぽつりとそう続ける。

 

「祈りって、ただ静かに、想いを重ねていくものだと思うの。 誰かに届くかどうかも分からないけど、それでも重ねることに意味があるって、最近は思ってる」

 

「願いは、そうではないのか?」

 

 彼の声は、どこか探るような響きを帯びていた。

 

「願いは……ううん、願いはきっと、もっと強くて、欲張りなものなのかもしれない。 叶えてほしい、変えてほしいって、そういう気持ちが前に出るものだから」

 

 私は短冊を両手で包み込むようにして握った。

 

「だから、わたし……書けなかったのかもしれない。 お願いとして書けることが、なかったから」

 

 風が一度、通り過ぎる。

 夕陽が境内の端に射し込み、奥社の屋根を淡く染めた。

 その光の中で、彼がふと呟くように言った。

 

「……願いは、代償を伴う」

 

 私は、息を止めた。

 その言葉には、何か深いものがにじんでいた。

 ただの知識や教訓ではない、もっと個人的で、重たい何か。

 

「叶えすぎれば……災いになる」

 

 彼の声は静かだった。けれど、それはまるで、遠い記憶の底から掬い上げられたもののように聞こえた。

 

「それって……」

 

 私は問いかけかけて、言葉を呑む。

 これ以上、聞いてはいけない気がした。けれど、聞かずにいられない想いもあった。

 だけど彼は、それ以上は語らなかった。

 その代わりに、静かに、そして確かに言った。

 

「おまえは……何を願うのだ」

 

 私は、短冊を見つめる。

 しばらく黙ってから、そっと口を開いた。

 

「……たぶん、あなたのことを、もっと知りたいってこと、かな」

 

 それは、願いなのか、祈りなのか。

 私にも分からない。

 けれど、そう言葉にしたとき、胸の奥にほんの少し、灯りがともるような気がした。

 そのとき風が吹いた。

 私の手の中の短冊が、ふっと揺れて、小さく折れ曲がる。

 その形が、どこか祈るようにも見えて、私はそっと目を閉じた。

 

 

 * * *



 短冊を折れたまま、私はそっと胸元にしまった。

 もう一度、奥社の方へと目をやる。

 けれど、そこにはもう、声も気配もなかった。

 彼は、沈黙の中に還っていた。

 私は静かに頭を下げてから、境内の階段をゆっくりと降りた。

 すでに日は傾き、空はやさしい紫と橙のあいだにある。夕焼けの名残が町を照らし、あちこちに長い影を落としていた。風が少しだけ強くなって、葉擦れの音が耳をかすめていく。

 私は、何かを胸に抱えて帰る途中のような気がしていた。

 

 ──祈りと願いは、似て非なるもの。

 

 それは今日、私が確かに感じたこと。

 祈りは、静かに想うこと。届かなくても、変わらなくても、それでも目を閉じて願い続けること。

 でも、願いは──叶えたいという意思であり、誰かに託してしまう力。

 彼が、あんなふうに言ったのは、きっと……。

 

「……叶えすぎれば、災いになる」

 

 私はその言葉を、何度も胸の中で反芻していた。

 叶えすぎた何かが、彼の中にあったのだろうか。

 それとも──誰かの願いを、彼は受け止めすぎてしまったのだろうか。

 私は、彼のことを知りたいと思っている。

 それが願いだと言った。

 でもそれは、彼にとって──また重荷になるのだろうか?

 そんな不安が、心のどこかで小さく揺れていた。

 

 けれど──

 

(それでも、私は……)


 迷いながらでも、揺れながらでも。

 私の中で、何かが少しずつ変わっていくのを感じる。

 風がそっと、背中を押すように吹いた。

 私は、歩き出す。

 夜の帳がゆっくりと降りてくる。

 短冊は折れたまま、まだ白い。

 でも、そこに何を書こうか──私はもう、迷っていなかった。

 きっともうすぐ、言葉になる。

 まだ誰にも言っていない、静かな想いとして。



 ♦︎ ♦︎ ♦︎

 


 ──そのころ。

 

 奥社の石の床の上。

 人の姿ではない、静かな気配が、残る夕の風にそっとまぎれていた。

 

「……叶えすぎれば、災いとなる」

 

 彼は、もう一度その言葉を呟く。

 かつて、何度も誰かに託された願い。

 叶えるたびに、何かが崩れていった。

 それでも、手を伸ばす人を拒むことはできなかった。

 

 ──けれど。

 

「……おまえは、違うのだな」

 

 彼の視線の先にあるのは、誰もいない石段。

 けれど、そこには、確かに残された気配があった。

 そっと通り過ぎた風の中に、彼は微かな温もりを感じていた。

 それが、祈りというものなのかもしれないと、初めて思った。

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